「こころとからだの相関関係」 テーマ、ブログ記事はいちおう終りましたが、探究実験は継続中。
っていうか、この手の探究に終わりはないですね。
どこまでいっても 新たに知りたいことが出てくるから、きっと彼岸に渡るその日までやってると思います (笑)
そしてあちらに行ってから一連を振り返って、「うわ~ あんなことやこんなことぐらいでいちいち引っかかってたのか~」 なんて苦笑することになるんだろうなぁ (^_^;)
この話、何の本で読んだか どうしても思い出せないんですが。
あるとても太った女性が 心療ケアを受けながらダイエットしたら、減量の折々に その体重だったときの 辛い思い出 (体型をからかわれたとか 試験に失敗したとか パーティに誘ってもらえなかったとか) がよみがえり、ついに父親の死を思い出したところで泣き崩れ、それ以上続けられなくなってしまったのだとか。
今回の試みの最中に ふとこの話を思い出しました。
根深い思い込みの感覚は いったん手放しても また繰り返し起こってくるけれど、からだに感じる強さは だんだん薄れてきます。
それって、思い込みが強化されていった道筋を 逆にたどっているといえるんじゃないかなって。
このままずっと続けていったら なんのわだかまりもなかった赤ちゃんのころのようなピュアな心に戻れるかな、なんて想像すると、なんだかわくわくしてきます (*^^*)
フォーカスされるために上がってくる感情も、だんだん微細なものへと移行しています。
最初は 怒りとか苛立ちとか すごくわかりやすいものがほとんどだったけれど、最近は 物悲しさとか侘しさとか空しさとか 俗に 「イタキモ」 なんて呼ばれるような 辛い中にも微妙に快が入り混じった感覚が しきりと上がってくるようになりました。
これらは 言葉抜きの純粋な体感として捉えるのが いささか難しいですが、時には詩的に表現したくなるようなこういう感情さえ 感覚に変換すると すべてただの無機質な信号でしかなくなってしまうことが ちょっと驚き。
しかも 圧迫感とか硬直感とか からだに起こっていることは、派手であれ微細であれ どの感情についてもほぼ同じで、その組み合わせや強さの加減が違うだけだということもわかってきました。
私たちは このからだに刻まれた信号の記憶を 言葉を介して感情に置き換え、そこから再生される過去の物語を生きてるんだなぁ、と つくづく思います。
それが味わって楽しい物語ならいいけれど、こんな もとはといえばただの信号でしかない 不快なストーリーに振り回され 一生を左右されるのは もうたくさんだなぁ (- -;)
そんな思いに駆り立てられて、きょうも探究実験は続きます
このテーマ記事をお読みくださった方で、「ありがとう」 や 「ホ ・ オポノポノ」 はどうなったの? と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、ごめんなさい、あれについてはまだ探究中なのです。
最近氣づいたことですが、体感が薄れたおかげで ネガ記憶の上がる頻度は落ちたものの、いったん記憶の一場面がよみがえり それをわずかなりとも物語に変換してしまえば、そこから先は 強い体感を味わっていたころと なんら変わりなくなるようです。
つまり いかに迅速に言葉と切り離すかが勝負で、物語が立ち上がってしまえばもはやそれまで、以前と変わりなく七転八倒する羽目に。
さらに いったん物語展開してしまってからの感覚フォーカスには、言葉化前とは比べものにならないほどの時間とエネルギーを要します。
なので、「とにかく言葉化しない」 が当面の課題ですが、並行して 辛い記憶そのものを薄れさせることができないものか、そこにセルフクリーニングを役立てられるのではないか、との仮説が浮上しています。
何よりの動機は とにかく毎日軽やかないい氣分で過ごしたい、本来の自分に戻りたい、という思い、そこに 「さらに先へ行ったらどうなるのかな」 という好奇心が加わって、貴秋の探究実験は どこまでも続いていくのです (*^▽^*)ゞ
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