毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

執拗な怒りにどれほど悩まされてもあきらめるな!

2017年07月26日 09時14分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


昔から 何かあるたびに不思議に思ったものです。

こんなムカつく相手に、こんな理不尽な出来事に、アタマにくるとか仕返しを企てるとか思いもせず 穏やかさを保てる人が なぜいるんだろう?

自分なら間違いなく瞬時に怒りに煮えたぎり あっというまに復讐のアイデアの3つや4つ考え出しているであろう場面で、ハラは立つけど ま 仕方ないか。。。。ぐらいであっさり終わらせることができる人がいるというのが信じられない。

それぐらい 貴秋の溜め込んだ怒りのパワーはすさまじかったわけですが、そんな自分とまったく違う思考回路の持ち主がいるという事実を何度も何度も目にしながら、どうしても飲み込めないまま 長い年月が過ぎました。

自分を基準に考えれば 誰もが同じように荒れ狂って当然とついつい思ってしまうけれど、実際には ひとりひとりが異なる体験を持ち、そこから紡ぎ出される思考や反応のパターンもみな違うのだということがすっきり腑に落ちたのは、感覚フォーカスを試し始めてかなり経ってからのこと。




怒りに火をつけるのは 相手や出来事そのものではなく 瞬間生じるからだの感覚だという事実がじわじわ染み込むに従い、この感覚や そこから派生する感情は 人によって違うのだということが納得できるようになったのです。

同じ出来事を体験しても、それが怒りや恐れにつながった人とつながらなかった人とでは、からだに焼きついた感覚も そこから生まれる感情も さらにその感情から再現される物語も違ってくる。

また、同じように痛い思いや辛い思いをした人でも、その痛みや辛さをその場で認めて吐き出せた人と、表現することを許されず抑圧してしまった人とでは やはり残るものが違ってくる。

前の記事に書いた 「ただ 『やめなさい』 とだけで、どうすればやめられるかが書かれていないアドバイス」 への戸惑いは、この違いから生じていたんですね。

先人たちは その困難かつ重要なお役目柄、怒りくるってはわれとわが身を足止めするなんて厄介なハンデは 生まれ出る前の性格設定に入れなかったということなのでしょう。




それにしても、抑圧された怒りとは なんとすさまじい破壊力を持つものかと 身をもって感じます。

「抑圧されつづけた怒りは、憤怒になる。 (中略) 人びとは怒りのために人殺しをしてきた。戦争が勃発し、国が滅んだ」 という 「神との対話」 の一節に 心底うなずけます。

こんなことを言うのはためらわれますが、ひとつ間違えば 自分が新聞やテレビのワイドショーなどで取り沙汰されるような事件の主人公になっていてもなんら不思議はなかったのです。

さらに言うのがはばかられますが、だからこそ 悲しく恐ろしい事件を実際に引き起こしてしまった人の心の中でどんなことが起きていたのか、貴秋には手に取るようにわかる氣がするのです。

限界まで溜め込んだ怒りのエネルギーは もはや抑え続けるのは不可能で、ちょっとした刺激にも 出口を求めて猛烈に暴れ回ります。

外に向かうか内に向かうかはともかく 爆発は時間の問題で、それを止めるには おおもとの供給源を断つと同時に 溜まりに溜まった怒りを少しずつでも逃がして 圧を下げるしかありません。




で 貴秋が試して効果大だった感覚フォーカスですが、供給源を断つとは スイッチが入った瞬間生じるからだの感覚と言葉を 完全に切り離すこと。

怒りの感情は、この記憶された感覚に 言葉が結びついて生まれます。

言葉がなければ ただの不快な感覚でしかありません。

そして 溜まった怒りを逃がすとは、その不快な感覚を 言葉を一切介さずに感じ尽くすこと。

持続時間には長短があり また一度でおしまいにできるとも限りませんが、何度繰り返そうとも その都度じっと感じていれば だんだん薄れてゆき、やがては消えます。




怒りが生じるにも意味があり、その最初のときにしっかり味わい切れば それでおしまいだったのです。

それをせずに押し込めてしまったから いびつに膨れ上がり 始末に困るありさまになったわけですが、手は焼くにせよ 終らせることは決して不可能ではありません。