毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

コントロール不可・・・・ではないはず

2016年03月04日 19時00分15秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「感覚フォーカス」 などと称しては、特定のからだの感覚を 意識して感じ取ることに きょうもせっせと勤しむ貴秋ですが、それは 自分の意思だけではコントロールの効かない ある種のわだかまりや思い込みの存在と その影響の大きさを ひしひしと感じるから。

そもそもそんなやっかいなものを体験をしたことない方には 想像がつかないかもしれませんが、その引っ張る力は 半端なく強力なのです。

理性がどれほど そんなことはしないほうがいい、やめたほうがいいと諌めても、そんなのはガマンならない、絶対お断りだ、と すさまじい勢いで抵抗し 暴れる部分があるのです。

それを無視して 強引に理性に従おうとすると、ひどい違和感や苦痛を感じます。

その苦痛だけでも 暴発してしまいそうなほどです。




分かれ道の右に行こうとしているのに、何が何でも左に向かわせようとする、猛烈な力。

まっとうな常識を備えた いっぱしの大人であるはずの自分の中に、そんな面倒なものが存在して、明らかにマズイでしょうというほうへ 無理やり引きずっていくのです。




これまで長いこと観察してきてわかったのは、このやっかいな部分の出自は、幼いころの 不自然な感情の抑圧にあるらしいということ。

不本意な氣持ちをぐっと押し殺し、あるときは憤懣やるかたなく屈し あるときは無氣力に受け入れた、力ある者の要求。

駄々をこねる、泣きわめく、幼児にとっては ごく自然な感情の発露であるはずのものを、大人の都合で無理やり押さえ込み 黙らせる。。。。そうして強いられた抑圧は やがて習い性となり、そんなふうに ほんとうの自分の思いを押し殺し続けたツケは、次第に自分でもコントロールできないほどの力となって、子どものころそのままの未熟さで 成人した私たちを振り回すことになります。

とんでもない事件を引き起こした犯人が、びっくりするほどおとなしい人だった、物静かな 目立たない人だった、などという話をよく聞きますが、その落差の大きさと 抑圧し続けて いびつに膨れ上がった負のエネルギーの激しさとは、ぴったり重なっているのです。




この暴れ馬のような力は、荒れ狂う怒りや恨みなどの感情として 知覚されますが、私が知ったのは、感情より先に その感情のスイッチとなる 圧迫感や締めつけ感、激しい動悸などの体感が 立ち上がることでした。

感情は 言葉によって助長されますが、先手を打って 言葉になる前の その感覚に集中し 見つめ続ければ、抑圧の期間や強さに応じて それなりの時間は必要ですが、いずれ その感覚は弱まり、感情の激発を呼び起こすこともなくなるようです。




想像をはるかに超えるようなことが 次々と起こる 今の時代、私などとは比べ物にならないほど 激しい呵責や虐待を体験した人にも この取り組みが有効かどうかは、正直わかりません。

ただ、幼い子どもへの 命に関わるほどの仕打ちや 縁もゆかりもない人が 行きずりの暴力に命を奪われるなどの つらいニュースを聞くにつけ、そんな恐ろしいことを引き起こす羽目になる前に 心の重石が解かれ、爆発寸前だった毒氣が抜かれて 本来の清浄な氣に戻せれば どんなにいいかと思わずにいられません。

そして、私が身をもって試した限りでは、それは 決して不可能なことではないはずなのです。




このうららかで あたたかで 光溢れる幸せな日に、ここしばらくで 目に耳にした 悲しいニュースが なぜかしきりと思い出され、ふとこんなことを書きたくなりました。