毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

わけもなく こみ上げる幸せ

2015年04月24日 10時43分44秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


けさになって、新しい考えが浮かびました。

言葉にならないとわかっているものを言葉にしようと四苦八苦するよりも、その結果変化した私の 新しいものの見方・捉え方を書くほうが楽しいし 面白いんじゃないかな、って☆

ここしばらく 外見は淡々、中身は混沌、日記つけてなかったら 何があったかなんて すっかりわからなくなっているところ。

1週間で 大学ノート一冊使い切りました(^_^;)




わけもなく不安に駆られて氣が沈む、なんてことは あまりにもしょっちゅうで、不思議とも奇妙とも思わなかったのに、同じ現象がポジティブ面で起こると 不慣れなあまりとまどいを覚える自分が面白いです。

何があったわけでもないのに、不意に氣持ちが浮き立つ、心がときめく

最近 この 「ときめく」 という言葉を ひんぱんに使うようになりました(*^^*)

ハートセンターあたりが 甘やかにうずいて、胸のうちがほんわかあったかくなる。

無性にうれしさがこみ上げて、じっとしていられなくなる。

かつて覚えのない感覚、衝動。

なんでこんなことになったのやら。。。なんてつぶやきつつ、そんなうれしさを抑えきれない自分がいます♪

いや、別に抑える必要ないよね。

あまりにも慣れてないので、そのたびに うわ~ また来たよ、どうしよどうしよ って、喜びのエネルギーをどう流せばいいのかわからず、ひとしきりあわあわする自分が ほんと面白い




「ただ、今を楽しむ」 ってどういうことなのか、やっと感覚的にわかった氣がします。

こんなシンプルなことがわからなかった自分が、今ではちょっと不思議だけど。

前は、「私」 と 「楽しむ」 に 距離があったのだけれど、今はイコール。

「楽しむ」 というより 「楽しい」 かな・・・・・ 私 = 楽しい、ってね♪

前は、楽しくなくて どこか鈍ってる自分に はっと氣づいて、「そうだった、楽しく過ごすって決めたんだった」 と やおら目の前の楽しいことを探しにかかるような感じだったんですが、今は 先に 「楽しい」 があって、それを なんでもいいから 目の前のことに込める、そんな感じ♪




特定の結果にこだわることが、なくなったとは言わないけれど(笑)、めっきり減りました。

向こうから起こってくることを 以前よりずっと信頼できるようになったみたいです。




本は相変わらず好きだけれど、先日書店に行ったとき、本屋さんの空氣は心地よくても、本を買いたい衝動が起こらなくなっていることにびっくり。

以前は 本を命綱みたいに思っていたらしい(^^ゞ

その情報が 新しい手がかりをくれる とか、そのイメージが (暮らしをテーマにした雑誌などで) 心を癒してくれる とか、そういう思いにすがりついていたような。

なにか明るい展望が欲しかったんだね。

最近面白そうだなって思うのは、思いや環境が 遺伝子レベルで細胞を変えるらしいっていう話、そして 心の安らぎは 絵本から。

書店でも 唯一足を止めたのが 児童書コーナー、でも絵本なら 図書館にどっさりあるしね♪




日々の暮らしでしていること、起こることは 前とほとんど変わらないのに、人生って楽しい、面白いと思うことが ぐんと増えました。

こんな変化を体験して思うのは、誰でも180度違うような変化を起こせるんだな、っていうこと。

180度って、真反対で すごく距離があるようでいて、グラデーションでじわじわ変化していくそれは 時空のルールを越えていて、案外近いものみたいです





















コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分でもわけのわからないご報告(汗)

2015年04月24日 01時11分21秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


こちら南紀は もう八重桜もほとんど終わり、新緑の季節に移りつつあり。

合わせてテンプレートも新緑に模様替え♪

そちこちの桜の木は、淡緑色の葉っぱに 同じ色のちっちゃな実が ぽちぽちついて、なんとも清々しく可愛らしいこと(*^^*)

山肌は 濃淡の緑に染め分けられ、山つつじに野生の藤も花盛りです♪




4月13~15日は 地元本宮大社の例大祭で、13・14日はかなりの雨の中、ご神事もさぞ大変だったことでしょうが、15日は午前中に天氣が回復、午後からの渡御祭に 久々に行ってきました。

大斎原への行列には、小中学生をはじめ 氏子さんや神輿の担ぎ手など 大人の方にも知った方がちらほら、私もこの土地に長くなったものだなぁと 改めて思ったことでした(^^)

このときは ちょうど八重桜が満開、緑一面の原っぱのところどころに 水玉のような濃いピンクが映えて、雨上がりの鮮やかな青空と 久々の日ざしに 幸せ氣分を満喫。

すべてのご神事のおしまいまで たっぷり4時間参加してきました。




そして。

たまたまか なにかあってのことか そこはわかりませんが、この例大祭の少し前から 内側でなにか起きているような兆しがあり、先に書いたように ちょうど湯登神事の13日に 十年越しの氣づきが根を下ろし、さらにそこからまたいろいろなことが起こって、今に至ります。

この 「いろいろなこと」 が 果たして言葉にできるのかどうか。。。。

できるものなら追々・・・と思いますが。




「変わろうと決めたなら、未来は今の延長線上にはないのだから、今の意識の枠組みで想像しても思い及ばない」 とは ずっと思ってきたことですが、実際にそんな状況になってみると、やはりというか 予想のはるか斜め上をいっています。

同一面上の変化ではないのですね。

どういうことかっていうと、「同一面上の変化」 っていうのは、映画館で映画を見ているような感じ。

座ってスクリーンを眺めている自分の状態や意識は ずっと同じまま、目に映る光景だけが 次々と変わっていく。

でも今変わっているのは 意識のほうなので、映る景色は同じでも 見え方・受け取り方が違う・・・・別世界を見ているようで なんとも妙な感じです。




15日の例大祭、本宮大社の道を隔てた向かい側の歩道で 行列を待っていたとき、突然なんとも不思議な心持ちに絡めとられました。

何十回 ・ 何百回通ったかわからない そのおなじみの場所で、たしかにそこにいるのに、まるで違う時代というか 時間というか 次元というか。。。に身を置いているような。

場所はよく知っているのに、そのときのそこは、というか その時代?時間?は まったく初めてで、ずっと同じところを見ているはずなのに まるで違う空氣、未知の感覚なのに なぜかたまらなくなつかしい。

目が覚めたまま 夢の中にでもいるような、あの感じを どう言葉で表せばいいのか。




直後、知り合いの人から声をかけられて、とたんにふっといつもの感覚に戻りましたが。




去年は 家にいる時間が少なかったこともあって、大斎原には一度か二度しか行きませんでしたが、今年はなぜか 桜が咲きだす前から立て続けに訪れていて、例大祭後もたびたび足を運ぶように。

早朝、お昼前後、夕方、と時刻もまちまち、なぜかふっと行きたくなって。

そして、行くたびに ほとんど人影はなく、ひとりゆっくり過ごす中、思いがけず過去の懐かしい場面を思い出したり、深い安らぎに浸ったり、心が震えて受け止めきれないほどの感動に襲われたり。

・・・・と 内側ではいろんなことが起こっていても、目に映っているのは 相変わらずおなじみの大斎原。

なんか、不思議体験のトンネルをくぐるために せっせと通っているかのような。




このところの自分になにが起こっているんだか、よくわかりません。

内側だけたびたび 前例がなく 分類も説明も不可能な状態に置かれますが、外側は相変わらずの平凡な日常。

でも、しっかり地に足が着いているし、いい氣分でいられる時間がどんどん長くなっているし、きっといい変化なのでしょう(^^)

自分が世界の中にいる のではなく、世界が自分の中にある、そんな感じが強くなってきています。




ひとつだけ言えること。

からだの感覚フォーカスを通して ほんとうの自分ではないものを手放し続けてきたこととつながって起きているのは、確かなようです




もしかすると、このわけのわからない感覚のほうが 本来のスタンダードに近くて、これまで当たり前と思っていた安定した感覚のほうが 実は幻だったのかも。。。。。(^_^;)




自分でもなにを言っているんだかよくわからない近況報告でした(笑)



















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする