久々の雨~
といっても、朝・雨 → 昼・晴れ → 夕方からまた雨、っていう妙なお天氣だったけど(笑)
日中はいささか蒸し暑かったけど、この時間は氣温も下がって過ごしやすく。
そういえば、猛暑といわれているこの夏だけど、おととしなんかと比べればどうってことないでしょ。。。と思うのは私だけ?
わが家のあたりがたまたまそうなのかな?
カンカン照りの昼間、午後1~2時前後の暑さのピークでも 汗をかきつつも扇風機だけで楽勝だし、夜中から明け方の涼しさといったら 秋?と思うこともあるぐらい。
そんなふうに寒暖の差が激しいので、からだの切り替えがしにくいのが 早朝のひんやりと心地いい空氣が 日が昇るにつれてじわじわと温められていく時間帯。
こういうときは、涼しさに執着するよりも からだをどんどん動かして さっさと体温を上げてしまうのが一番♪
進んで汗をかいてしまえば、上昇中の温度も かえって涼しく感じられるものなんですね♪
というわけで、奈良から戻って以来 午前中にせっせといそしんでいるのが、家の中の片付け。
実家の大片付けの最中に、自分もまだまだ物を持ち過ぎてると痛感したことがきっかけなんですが。
服とか靴とか器とかは 度重なる引越しのたびにシビアに整理してきたからいいけれど、今回猛然と手放しているのは、いつか使うだろうと溜め込んでいた 保存食用の空きビンやらペットボトル、紙袋・包装紙・梱包用パッキング材、いずれ読み返すだろうととっておいた新聞の切り抜きやサイトのコピー、パンフレット、そのうち何かに作り替えようとしまいこんだままだった古シーツや古カバーの類い。
この「いつか」「いずれ」「そのうち」って考え方、けっこうクセモノなんですね。
いつ、どう使うとか、はっきりと具体的なイメージがないまま溜めるだけ溜めて、はっと氣づくとかなりの量になっている。
今回、実家とわが家と二軒分の片付けの中で氣づいたのが、そんな漠然としたイメージの向こう側に隠れている“不安”。
あれば役に立つだろう、という前向きな氣持ちが、いつのまにか いざというときないと困る、というネガティブな動機に変っている。
亡くなった母は、実際太平洋戦争の物のない時期に苦労を重ねた人だったから、そういう氣持ちもわからなくはないのだけれど、それにしてもこれだけ物が溢れかえっている時代に なんでもかんでも捨てられずに溜め込んでいたのは、いつまたあんな恐ろしい日がやってこないとも限らない、という不安が常につきまとっていたから、のような氣がします。
そんな親の元で育って、豊かな時代しか知らないくせに 似たような精神構造を受け継いでしまった自分の心の中をじっくりのぞいてみると。。。
この世界はとても危険に満ち満ちていて、今は平和で豊かでも、いつなんどき どんな恐ろしいことが起こるかわからない。
そして、世の中や世間の人間は信用ならず、自分は守られていないから、いったん何か起こったら 自分を守るのは自分だけ。
だから、いつ何が起きてもいいように、常にがっちり備えておかなければならない。
そんな不安で一杯の世界観が いつのまにか根付いていて、無意識のうちに思考や言動が影響されているのが見えてきます。
自分の中に こんな思いがあったとは。。。これほど正面きって見つめたのは初めてのことだけど、この不安、もっと漠然とした 言葉化されない曖昧な形で、幼い頃から常に心の底に潜んでいたようです。
実は、実家に滞在中、この不安が生まれたおおもとのところが不意に鮮明に見えた瞬間があって。
なにかに突き動かされるようにやっていた大片付けのおかげかもしれません。
ほとんど半世紀抱え続けた感情だから、そうそう一度にきれいさっぱり払拭というわけにもいかないけれど、少なくとも その正体が見えたおかげで これから先もずっとしがみつくほどの根拠のあるものではないことを、心のどこかで納得できたのでしょう。
それ以来、もっと身軽になりたいという氣持ちに拍車がかかりました。
面白いことに、実体のない不安に惑わされなくなると、物を持ちすぎていることのほうが耐えがたく思えてくるんですね
そして、しまってあるものを見たり思い出したりしたときの感情の動きで、その要不要がぱぱっとわかるんです。
これは持ちすぎてるなって思うものに触れると、氣が重くなったり なんとなく心がざわついたりして、それを手放すと すぅっと心地よい風が通り抜けたみたいな爽快感と共に 広々と空いた空間が無性にうれしくなる。
間違っていた世界観が正されたことで、もともと備わっていたセンサーが正しく働くようになったのかもしれないね♪
前に書いた「断捨離」の、
断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる
っていうのは、無駄なく素直に物を巡らせることのできる 調和の取れた心のありかたを言っているのかもしれない。。。今はそんな氣がします。
といっても、朝・雨 → 昼・晴れ → 夕方からまた雨、っていう妙なお天氣だったけど(笑)
日中はいささか蒸し暑かったけど、この時間は氣温も下がって過ごしやすく。
そういえば、猛暑といわれているこの夏だけど、おととしなんかと比べればどうってことないでしょ。。。と思うのは私だけ?
わが家のあたりがたまたまそうなのかな?
カンカン照りの昼間、午後1~2時前後の暑さのピークでも 汗をかきつつも扇風機だけで楽勝だし、夜中から明け方の涼しさといったら 秋?と思うこともあるぐらい。
そんなふうに寒暖の差が激しいので、からだの切り替えがしにくいのが 早朝のひんやりと心地いい空氣が 日が昇るにつれてじわじわと温められていく時間帯。
こういうときは、涼しさに執着するよりも からだをどんどん動かして さっさと体温を上げてしまうのが一番♪
進んで汗をかいてしまえば、上昇中の温度も かえって涼しく感じられるものなんですね♪
というわけで、奈良から戻って以来 午前中にせっせといそしんでいるのが、家の中の片付け。
実家の大片付けの最中に、自分もまだまだ物を持ち過ぎてると痛感したことがきっかけなんですが。
服とか靴とか器とかは 度重なる引越しのたびにシビアに整理してきたからいいけれど、今回猛然と手放しているのは、いつか使うだろうと溜め込んでいた 保存食用の空きビンやらペットボトル、紙袋・包装紙・梱包用パッキング材、いずれ読み返すだろうととっておいた新聞の切り抜きやサイトのコピー、パンフレット、そのうち何かに作り替えようとしまいこんだままだった古シーツや古カバーの類い。
この「いつか」「いずれ」「そのうち」って考え方、けっこうクセモノなんですね。
いつ、どう使うとか、はっきりと具体的なイメージがないまま溜めるだけ溜めて、はっと氣づくとかなりの量になっている。
今回、実家とわが家と二軒分の片付けの中で氣づいたのが、そんな漠然としたイメージの向こう側に隠れている“不安”。
あれば役に立つだろう、という前向きな氣持ちが、いつのまにか いざというときないと困る、というネガティブな動機に変っている。
亡くなった母は、実際太平洋戦争の物のない時期に苦労を重ねた人だったから、そういう氣持ちもわからなくはないのだけれど、それにしてもこれだけ物が溢れかえっている時代に なんでもかんでも捨てられずに溜め込んでいたのは、いつまたあんな恐ろしい日がやってこないとも限らない、という不安が常につきまとっていたから、のような氣がします。
そんな親の元で育って、豊かな時代しか知らないくせに 似たような精神構造を受け継いでしまった自分の心の中をじっくりのぞいてみると。。。
この世界はとても危険に満ち満ちていて、今は平和で豊かでも、いつなんどき どんな恐ろしいことが起こるかわからない。
そして、世の中や世間の人間は信用ならず、自分は守られていないから、いったん何か起こったら 自分を守るのは自分だけ。
だから、いつ何が起きてもいいように、常にがっちり備えておかなければならない。
そんな不安で一杯の世界観が いつのまにか根付いていて、無意識のうちに思考や言動が影響されているのが見えてきます。
自分の中に こんな思いがあったとは。。。これほど正面きって見つめたのは初めてのことだけど、この不安、もっと漠然とした 言葉化されない曖昧な形で、幼い頃から常に心の底に潜んでいたようです。
実は、実家に滞在中、この不安が生まれたおおもとのところが不意に鮮明に見えた瞬間があって。
なにかに突き動かされるようにやっていた大片付けのおかげかもしれません。
ほとんど半世紀抱え続けた感情だから、そうそう一度にきれいさっぱり払拭というわけにもいかないけれど、少なくとも その正体が見えたおかげで これから先もずっとしがみつくほどの根拠のあるものではないことを、心のどこかで納得できたのでしょう。
それ以来、もっと身軽になりたいという氣持ちに拍車がかかりました。
面白いことに、実体のない不安に惑わされなくなると、物を持ちすぎていることのほうが耐えがたく思えてくるんですね
そして、しまってあるものを見たり思い出したりしたときの感情の動きで、その要不要がぱぱっとわかるんです。
これは持ちすぎてるなって思うものに触れると、氣が重くなったり なんとなく心がざわついたりして、それを手放すと すぅっと心地よい風が通り抜けたみたいな爽快感と共に 広々と空いた空間が無性にうれしくなる。
間違っていた世界観が正されたことで、もともと備わっていたセンサーが正しく働くようになったのかもしれないね♪
前に書いた「断捨離」の、
断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる
っていうのは、無駄なく素直に物を巡らせることのできる 調和の取れた心のありかたを言っているのかもしれない。。。今はそんな氣がします。