きのうの日記で、細胞ひとつひとつにからだ全体の情報が書き込まれているように、ひとりひとりの人間にも 古今東西あらゆる人の情報がインプットされてるような氣がすると書いたのだけど。
さらにもう少し言うと、自分のまわりに見えるいろいろな人が 自分というひとりの人間のさまざまな要素を演じ分けてるようにも見えるんだよね☆
ほら、テレビの健康情報番組なんかで 白血球役の人、赤血球役の人、なんて、何人もの役者さんが ひとりの人間の体内のさまざまな働きを演じて見せるのがあるでしょ?
あんな感じ
自分のそばに 「この人意地悪だな~」って思うような人がいたら、それは私の中の意地悪な要素を演じて見せてくれてる人。
「この人陰氣だな~」って思うような人がいたら、それは私の中の陰氣さを表わしてくれてる人。
「この人ステキだな~」って思うような人がいたら、以下同文(笑)
だってね、多層構造であらゆる要素が詰め込まれてるその人の中から、あるひとつの要素を抜き出して眺めてるのは、他ならない私の意識だもの。
その要素に着目したい私がいるっていうことだよね。
じゃあ、なんで数あるさまざまな要素の中から その性質に特に惹かれるかっていうと、それは 私の中の同じ性質と共振共鳴してるから、そして、私自身の何かが 自分の中のその性質を特に氣にかけてるからじゃないかなと思うんです。
自分の中の嫌なところっていうのは なかなか素直に受け入れられないものだし、自分に自信が持てないと ステキなところについても つい卑下して見逃してしまう。
でも、人のことを判断解釈するのは あまりためらいがないんですよね(^^ゞ
「この人好き~」「この人感じ悪ぅ~」って すぐに色付けしちゃう。
でも、色づいて見える景色が 実は自分のかけてる色付きメガネのせいでそんなふうに見えてるように、相手の性格だと思ってたものも 実は自分の心の投影によるものだとしたら?
この投影のからくりをうまく使うことで、自分の中をじっくり観察するチャンスが生まれるよね♪
もちろん、相手にもその要素がやっぱり色濃く出てるんだと思います。
つまり、似たもの同士が互いに相手の中に自分を見てるっていうか。
相手を「感じ悪ぅ~」と思ってるときは、その相手も自分のことを「感じ悪ぅ~」と思ってる可能性が大なのよね(笑)
相手を見てる。
そして相手の中に自分を見てる。
向かい合わせた鏡が どこまでも互いを映し合っていくように。
こんなふうに考えていくと、もう「真実はどれ?」とか「正しいのは誰?」とかっていう問い自体が意味をなさないような氣がしてくるんだなぁ。
「どれを自分の真実にする?」「どれを自分の答えにする?」って問うほうがしっくりくるような。
そうなったとき思うのは、相手をどのように判断したところで、自分の望みどおりに変えたりは出来ないってこと。
だったら、この際相手は置いといて(笑)、鏡に映った自分をよぉく眺めて イヤなところは手放し 好きなところは大いに認めて、よりステキな自分になるように磨いていくほうが ずっと楽しいし報われるところも大きいよね♪
無数の要素を持つ自分が 無数の要素を持つ誰かと出会う、そこから派生する可能性は果てしなく、無限大にも等しいように思えます。
と同時に、まわりの人を通して映る要素すべてが 自分の意識の投影なら、そこには自分たったひとりしかいないようにも思えます。
よく言われる「すべてはひとつ」とか「ワンネス」とかって こういうことなのかもね
さらにもう少し言うと、自分のまわりに見えるいろいろな人が 自分というひとりの人間のさまざまな要素を演じ分けてるようにも見えるんだよね☆
ほら、テレビの健康情報番組なんかで 白血球役の人、赤血球役の人、なんて、何人もの役者さんが ひとりの人間の体内のさまざまな働きを演じて見せるのがあるでしょ?
あんな感じ
自分のそばに 「この人意地悪だな~」って思うような人がいたら、それは私の中の意地悪な要素を演じて見せてくれてる人。
「この人陰氣だな~」って思うような人がいたら、それは私の中の陰氣さを表わしてくれてる人。
「この人ステキだな~」って思うような人がいたら、以下同文(笑)
だってね、多層構造であらゆる要素が詰め込まれてるその人の中から、あるひとつの要素を抜き出して眺めてるのは、他ならない私の意識だもの。
その要素に着目したい私がいるっていうことだよね。
じゃあ、なんで数あるさまざまな要素の中から その性質に特に惹かれるかっていうと、それは 私の中の同じ性質と共振共鳴してるから、そして、私自身の何かが 自分の中のその性質を特に氣にかけてるからじゃないかなと思うんです。
自分の中の嫌なところっていうのは なかなか素直に受け入れられないものだし、自分に自信が持てないと ステキなところについても つい卑下して見逃してしまう。
でも、人のことを判断解釈するのは あまりためらいがないんですよね(^^ゞ
「この人好き~」「この人感じ悪ぅ~」って すぐに色付けしちゃう。
でも、色づいて見える景色が 実は自分のかけてる色付きメガネのせいでそんなふうに見えてるように、相手の性格だと思ってたものも 実は自分の心の投影によるものだとしたら?
この投影のからくりをうまく使うことで、自分の中をじっくり観察するチャンスが生まれるよね♪
もちろん、相手にもその要素がやっぱり色濃く出てるんだと思います。
つまり、似たもの同士が互いに相手の中に自分を見てるっていうか。
相手を「感じ悪ぅ~」と思ってるときは、その相手も自分のことを「感じ悪ぅ~」と思ってる可能性が大なのよね(笑)
相手を見てる。
そして相手の中に自分を見てる。
向かい合わせた鏡が どこまでも互いを映し合っていくように。
こんなふうに考えていくと、もう「真実はどれ?」とか「正しいのは誰?」とかっていう問い自体が意味をなさないような氣がしてくるんだなぁ。
「どれを自分の真実にする?」「どれを自分の答えにする?」って問うほうがしっくりくるような。
そうなったとき思うのは、相手をどのように判断したところで、自分の望みどおりに変えたりは出来ないってこと。
だったら、この際相手は置いといて(笑)、鏡に映った自分をよぉく眺めて イヤなところは手放し 好きなところは大いに認めて、よりステキな自分になるように磨いていくほうが ずっと楽しいし報われるところも大きいよね♪
無数の要素を持つ自分が 無数の要素を持つ誰かと出会う、そこから派生する可能性は果てしなく、無限大にも等しいように思えます。
と同時に、まわりの人を通して映る要素すべてが 自分の意識の投影なら、そこには自分たったひとりしかいないようにも思えます。
よく言われる「すべてはひとつ」とか「ワンネス」とかって こういうことなのかもね