オリンピックが始まったと。緊急事態宣言下で安全・安心な東京オリンピック2020を開催したと。テレビでは大谷オオタニがオリンピックに代わった。テレビからは音声が聞こえてくる。数年前の郵政民営化と叫んでいた光景と同じだな
テレビとは画像である。スポーツや踊りが分かりやすい。外国で暮らしていけるのは画家と音楽家だと。言葉が分からなくても絵や音で共感を得やすい。それに昨今ではスポーツが加わった。オリンピックとは武器のない戦争とも言える。国家間の競い合いだろうな。特に団体競技では国家間の競争が観衆から国民から受け入れられる。国家を背にして国家の旗の下に競い合う
戦前軍国少年であった官僚たちの夏を記した城山三郎は、旗の下には集まるなと言ったが、オリンピックとは旗が好きなようである。国立競技場には五輪の旗と日の丸の旗が掲げられていると。画像からはメダルを受賞した者の郷里の学校では諸手を挙げている。もっとも関心の無い者は集まっていないだろうから、全員が祝っている。徳仁が開会式で名誉総裁として従来の「祝う」でなく「記念する」と述べたが観客はお祭りだ
テレビ画像では皆、祝ってる。テレビなぞは画面が小さい。小さい画像を大きく焦点を定めて見せる。相撲なぞは遠い升席からの動きは人形のようである。野球でも外野席からは全体の動きは見えるが打者とか投手の動きは鈍く通路でのテレビ画像の方に人が群がっている。オリンピックの開会儀式なぞは、観客席からは見えるだろうかな。無観客が幸いして、テレビ映像であるのでよく見える。一種テレビとは宣伝コマーシャルであろうな
ここに来て新型コロナの新規感染者が飛躍的に増大した。感染症の専門家は危惧を抱いている。政府分科会尾身茂会長は政府にはもっと強いメッセージをと言っている。菅義偉に言っている。人には分があるな。菅義偉には無理だな。菅義偉が官房長官時代は長いそして強かった。報道機関への会見でも記者からの問いかけに対して切り捨てていた。しかし首相になってからは国民にも眼を向けなくてはならない。強さは失った
その反対に無責任、人任せが目立った。曰く日本学術会議会員の任命で105人の名簿を見ていない。NHKの番組では任命拒否の説明は、説明できることと出来ないことがあると。口数も少ないからかな、致命的な本音が出てしまう。朴訥なら丁寧に話せば良いんだが記者会見でも一人一問に限り、時間制限もある。最悪なのは首相会見に尾身会長を脇に座らせている
テレビ画像で隣に感染症の専門家を座らせている。コロナに関することは尾身会長にと言っているようである。あれでは国民には伝わらない。質問を受けても尾身会長に向ける。どちらが首相か分からない。原稿を手放さず、眼もうつろだな。テレビ映像のコマーシャルでは下に「個人の感想です」と記載してある場合がある。記者会見では下部に「個人の感想です」と挿入する必要もあろうかな
自民党はどうしてこうなったのだろう。安倍晋三の路線継承だけで菅義偉を選んじゃった。小池の百合子のような国民への投げかけ、橋の下徹のような口数の多さはいらない。ただ質問にははぐらかせず、正面から向き合えば良い。その基は安倍晋三の国会での虚偽答弁を見習っている
元来、総理を辞したら退くのが筋であろうが、この国ではまだやり足らないのか居座るのだな。安倍晋三などは返り咲きを狙っていると。政党としてどうかな、疑問を通り越すな
外務省のHPによると、日本が承認している国の数は195か国であると。国連加盟国は日本を含んで193か国であると。今回の東京オリンピックでは206の国.地域が参加を予定していると。国連加盟国よりもオリンピックの参加数の方が多いな。今回の選手団には難民選手団やロシアの国家でなくロシアオリンピック委員会(ROC)として参加すると。しかし旗はあるようだな。個人で無くあくまでも団体や集団としての参加は認めるんだな
よくスポーツは筋書きのないドラマだと言われる。当然のことだな。勝負事だけでなく、人生そのものがシナリオなど無い。ドラマを作るのは記者たちだな。才能もあろう、努力もあろう、運もあろう、しかしドラマを仕立てるのは記者、書き手、第三者だな。筋書き通りなら八百長だな
第四版広辞苑によると、曲芸とは見世物の一種。普通人には出来ないさまざまに目利きをする離れ業。だと。因みに、尾崎士郎が山本周五郎に対して曲軒と称したが、広辞苑に曲軒は載っていない。言葉とは多くの他者に認知されないと言葉にならない。隠語とは特定な集団だけに理解できる言葉である。暗号とも言われる。多くの他者に認知されると隠語や暗号や符丁でなくなっちゃう
オリンピックを見ている。サーフィンとかスケートボードは元々アメリカ圏で発達したものだろうな。スポンサーがつきプロとして発展してきたものだろうな。体操やスケートフィギアと同様、得点を競う。規則はあるだろうが審判の眼に寄るだろうな。素人からは優劣を決めつけられない、曲芸や大道芸に見えるな。小沢昭一が紫綬褒章を受章した際に、永六輔から助平一筋で紫綬褒章を受けたと言われたが、大道芸を追求して日本の放浪芸を記した。オリンピックとはスポーツ運動でなく、お祭りとして曲芸もあるようだな。曲芸師は地方を渡り歩いて芸を磨いていく。歌舞伎役者も地方から地方へと。その地で家族も設けた役者もいたようだ
ひつじ年生まれで、羊の歌を記した加藤周一は親子二代の産とも言われる。このオリンピックを見て、選手を拝見して、親兄弟の血を引き継ぎ、あるいは幼児からの環境が重要であろうな。才能プラス環境プラス努力そして最後に運であろうな。それと楽しみ、遊びであろうな。国家を背負っても、プロ大会の賞金とは違って一種の遊びの要素、重圧を感じないことが知らぬ間の勝利に結びつくだろう
7月25日の朝日新聞の朝刊の一面に、「王者内村、失望と笑み」と言う見出しであった。新聞の一面は編集部で色々と議論があるだろう。一面とは新聞の顔である。その一面の第一に負けた競技で負けた者が記載された
「なにやってんだ、ばーかって感じです」。内村航平は自分にあきれていた。と。今までに一番うれしかったことは、鉄棒で「けあがり」ができたときだと。金メダルを取ったときの喜びですら、「けあがりを超えられない」と言ったと
出来なかった事が出来た喜びはあろう。知らなかった事が理解できたことは嬉しさはあるな。また老人になると昔出来た事が出来なくなることもあろう。反対に若い時に見えなかったことが見えることもあろう。人それぞれであろうな
ふと昔読んだことを思い出した。小生数年前に引越する際に本を引き払った。昔の古本屋は初版本や珍しい本は高値で取引された。昨今では売れる本か売れない本かで値段が決まると。株式市場と同様だな。需要と供給によって値は決まるが、どの世界でも共通だな。本は重い。藤原新也の本はエロ本のように軽いが、大抵の本は重量がある。立花隆の書庫の床はそのため厚くしてあるとか。渡部昇一なぞは庭の塀を書庫にしたと記憶している。発想だけは面白い
気になったのは五木寛之の弟の墓がどこだったかである。五木寛之は弟と仲が良かった。自分の作品の編集にも関わっていたかな。その弟が若くして亡くなった。五木寛之は悲嘆にくれた。墓はすぐには作らなかった。数年経って思い立って墓、碑を作った。奈良のどこの寺か気になった
インターネットで検索した。散々検索したが出てないんだな。ただ一つMixiユーザー2007年4月12日投稿、「風の王国(五木寛之)コミュの二上山の碑」に記載してあった。朝日新聞社“日暮れて道なお遠し”「みみずくの夜メール」から
おとといは奈良にでかけた。斑鳩の誓興寺さんのご住職にご挨拶をして、そのあと極楽寺の亡弟の碑に立ち寄った。極楽寺といっても、寺ではない。小高い丘の中腹が墓地になっている場所である。その丘に立つと、法隆寺の五重の塔が見え、天気がいい日には二上山、葛城、金剛の山なみが遠望できる。
インターネットとは恐ろしく詳しい者がいる。大抵のものはインターネットで検索できるが、インターネットとは立ち読み、覗きに似ている。フランス語で寝言を言っていたと言う、なかにし礼はがん治療をインターネットで見つけたとか。使いようかも知れない
誓興寺や極楽寺墓地には小生は行ってない。グーグルマップで見ると見晴らしの良い丘のようである。五木寛之に関するインターネット記事を見た。戒厳令の夜までは読んでいたが、それ以降はあまり読んでいない
風の王国は読んでいない。風の王国は休筆後の作品であると。松岡正剛の千夜千冊の五木寛之「風の王国」の解説がしっくりきた。松岡正剛は知らなかった。ウィキペディアの説明によると実業家、編集者、著述業だと。弥勒プロジェクトはともかく、こと風の王国の解説は読ませた。千夜千冊は同じ著作の本は2冊以上取り上げないと。
この物語の主人公たちは、明治維新に廃藩置県があったとき。葛城山系に住んでいた「箕作り」の一族の末裔たちだった。//最近は「山の民・川の民。海の民」ともいわれるが、そこに芸能や信仰が関与するときはしばしば「遊行の民」といった。声聞師・鉦叩き・遊行聖・白拍子・木地師・杜氏なども含んだ。ときに「化外(けがい)の民」も含まれていた。//古来、東の三輪山が朝日さす神の山で、西の二上山は日の沈む死の山とされてきた。//仏門の隠語に一のことを「大無人」(大という字から人を無くすという判じ読み)、二を「天無人」(天という字から人を無くす)、三を「王無棒」などと言い替えたことに因んで、「天武仁」で「二」を、「神」で「上」をあらわして、かれらは自分たちの講組織を「ふたかみ講」と名付けたのだった。//「風の王国」はそのような一群が、いっときの“国なき国”をつくろうとした動向に光をあてた作品である。//近代の国家というものが国民に要求することは、徴税と納税と義務教育であり、それを完遂するために国家が大前提にすることは住民登録を徹底することだった。//明治期の「ケンシ狩り」にもそのような事情が絡んでいた。住民調査、実は一斉摘発、その実は開発計画、なのである。//と
松岡正剛が五木寛之に関して「風の王国」を選択したのは、それと解説は良い。読んでみよう、読みたい気持ちにさせる。編集者冥利に尽きるだろうな
五木寛之は2002年に幻冬舎から「運命の足音」を出版している。この本はたまたま、とある老人ホームの図書館で拾い読みした。小説でなく、自らの実体験を描いた。敗戦して北朝鮮から逃げ帰った時の情景である。ようやくと言うか、書かずにいられないものだったろう。それを契機にして母は亡くなった
優しい人から先に死んでいった。//飢えた大人ほど怖いものはない//人間というものは、いつ何をするか分からないと
いつしか五木寛之は語っていた。丈夫な靴を履いていた者が生き延びたと。それ故に靴に凝っていると。ロシア兵が暴行した後にロシア民謡を歌って帰ったと。その歌が美しかったと。あれほどの暴力をする者が美しい音を奏でられるのかとも語っていた記憶がある
五木寛之は大学は露文科を目指した。シベリア経由でソ連に入った。少年の記憶を振り切ったからか、それとも少年時の記憶故にロシアを目指したか知らない。いつしか中央自動車を東京に向かってた折に、ラジオから聞き覚えのある声が聞こえてきた。NHKの深夜の友は真の友の五木寛之だった。父親は寝る際、布団に入ると、「寝るが極楽、起きるが地獄・・・・」といつも言っていたと。そして最後に大きくアーアとため息をついたと
俺は同乗のかみさんと大声で笑った。家と同じなんだな。小生の父親も同じことを言っていた。「寝るが極楽、起きるが地獄、浮世の馬鹿は起きて働く」と。そしてため息まで同じなんだな。笑っちゃったな
やはり時代なのかな。五木寛之と石っ原慎太郎は生年月日は同じである。同時代人とも言えるが、石っ原慎太郎が太陽の季節で芥川賞を受賞した折に、五木寛之は同じ生年月日で考えていることもタイプも違うと語っていた
今村昌平が分からなかったら、とことん議論する。相手が分かるまで議論すると。沢村貞子は分からなかったら首根っこを掴んでも分からせると。白隠禅師は「語らざれば、うれい無きに似たり」と。五木寛之は諦念とか他力とよく言っていた。倶会一処とも言っていた。いつしか箱根の七福神かな回った際に、墓碑に倶会一処と記していた墓石があった。地獄の沙汰も金次第もあり得るが、田舎の温泉では男女入り口が別でも中に入れば一緒・一処はあるな
戒厳令の夜は小生の記憶では既視感デジャヴュから始まり、何人だったかなパブロがいた。主人公は画学生、老人もいた。その老人は絵画の論理は分からないが良い作品にはアーと声を上げるんだな。終盤は武装蜂起。その延長戦に「風の王国」を描いたのかも知れない
八月や 六日九日 十五日
ハチガツヤ ムイカココノカ ジュウゴニチ
今日は晦日。来週から8月、また暑い八月になる。これは季語は八月であり、五・七・五であり定型的な俳句であろう。俳句界でも俳句としているようである。永六輔が土曜ワイドで語っていたが作者には触れていなかった。ネットではこの句の作者を調べた者がいたと。著者・小林良作、「鴻」発行所出版局だと。何人も詠んでいる。作者を突き止めたようだが、はっりとは分からないな
敗戦後77年に成ろうとする。1970年ベトナム戦争の真っ最中に北山修作詞、杉田二郎作曲で戦争を知らない子供たちを杉田二郎が歌った。戦争を語ったり知っている世代が少なくなってきた。内務省上がり警察出身の後藤田正晴はカミソリ後藤田とも言われた。その後藤田正晴は海外での武力行使を禁止していた。先日のNHKテレビで読売新聞社の渡邉恒雄は戦争だけは絶対にいけないとも言っていた。保守派からも戦争体験を引きずっている
2005年(平成17年)にALWAYS三丁目の夕日が上映された。舞台設定は1958年(昭和33年)安保前の街並みで全てセットである。好評だったので続編も作成されたと。しかし小生から見ると昭和の時代はもっと汚かった。懐かしさはなく、街並みや隅田川でも雑然としていた。映画は虚構であるが、整然として違和感があった。しかし映画はヒットした
昭和の時代は戦争へ戦争へと突き進み、その戦後の時代である。戦争を見て聞いた者たちが少なくなった。世はオリンピックで日の丸が高らかに掲げられている。西欧の学者だったかな。愛国とは西欧では声高らかに叫ぶが、日本では表に出ず秘めていると
戦争を認知している者がまだ残っている。日の丸や君が代によって戦場に駆り立てられ、亡くなった者あるいは図らずも生き残った者がいる。学校でも君が代の前で素直に起立出来ない記憶が残っている者もいる。政治家は「戦後は終わった」と。しかし引きずっている、曳航している者もいる
テレビとは画像である。スポーツや踊りが分かりやすい。外国で暮らしていけるのは画家と音楽家だと。言葉が分からなくても絵や音で共感を得やすい。それに昨今ではスポーツが加わった。オリンピックとは武器のない戦争とも言える。国家間の競い合いだろうな。特に団体競技では国家間の競争が観衆から国民から受け入れられる。国家を背にして国家の旗の下に競い合う
戦前軍国少年であった官僚たちの夏を記した城山三郎は、旗の下には集まるなと言ったが、オリンピックとは旗が好きなようである。国立競技場には五輪の旗と日の丸の旗が掲げられていると。画像からはメダルを受賞した者の郷里の学校では諸手を挙げている。もっとも関心の無い者は集まっていないだろうから、全員が祝っている。徳仁が開会式で名誉総裁として従来の「祝う」でなく「記念する」と述べたが観客はお祭りだ
テレビ画像では皆、祝ってる。テレビなぞは画面が小さい。小さい画像を大きく焦点を定めて見せる。相撲なぞは遠い升席からの動きは人形のようである。野球でも外野席からは全体の動きは見えるが打者とか投手の動きは鈍く通路でのテレビ画像の方に人が群がっている。オリンピックの開会儀式なぞは、観客席からは見えるだろうかな。無観客が幸いして、テレビ映像であるのでよく見える。一種テレビとは宣伝コマーシャルであろうな
ここに来て新型コロナの新規感染者が飛躍的に増大した。感染症の専門家は危惧を抱いている。政府分科会尾身茂会長は政府にはもっと強いメッセージをと言っている。菅義偉に言っている。人には分があるな。菅義偉には無理だな。菅義偉が官房長官時代は長いそして強かった。報道機関への会見でも記者からの問いかけに対して切り捨てていた。しかし首相になってからは国民にも眼を向けなくてはならない。強さは失った
その反対に無責任、人任せが目立った。曰く日本学術会議会員の任命で105人の名簿を見ていない。NHKの番組では任命拒否の説明は、説明できることと出来ないことがあると。口数も少ないからかな、致命的な本音が出てしまう。朴訥なら丁寧に話せば良いんだが記者会見でも一人一問に限り、時間制限もある。最悪なのは首相会見に尾身会長を脇に座らせている
テレビ画像で隣に感染症の専門家を座らせている。コロナに関することは尾身会長にと言っているようである。あれでは国民には伝わらない。質問を受けても尾身会長に向ける。どちらが首相か分からない。原稿を手放さず、眼もうつろだな。テレビ映像のコマーシャルでは下に「個人の感想です」と記載してある場合がある。記者会見では下部に「個人の感想です」と挿入する必要もあろうかな
自民党はどうしてこうなったのだろう。安倍晋三の路線継承だけで菅義偉を選んじゃった。小池の百合子のような国民への投げかけ、橋の下徹のような口数の多さはいらない。ただ質問にははぐらかせず、正面から向き合えば良い。その基は安倍晋三の国会での虚偽答弁を見習っている
元来、総理を辞したら退くのが筋であろうが、この国ではまだやり足らないのか居座るのだな。安倍晋三などは返り咲きを狙っていると。政党としてどうかな、疑問を通り越すな
外務省のHPによると、日本が承認している国の数は195か国であると。国連加盟国は日本を含んで193か国であると。今回の東京オリンピックでは206の国.地域が参加を予定していると。国連加盟国よりもオリンピックの参加数の方が多いな。今回の選手団には難民選手団やロシアの国家でなくロシアオリンピック委員会(ROC)として参加すると。しかし旗はあるようだな。個人で無くあくまでも団体や集団としての参加は認めるんだな
よくスポーツは筋書きのないドラマだと言われる。当然のことだな。勝負事だけでなく、人生そのものがシナリオなど無い。ドラマを作るのは記者たちだな。才能もあろう、努力もあろう、運もあろう、しかしドラマを仕立てるのは記者、書き手、第三者だな。筋書き通りなら八百長だな
第四版広辞苑によると、曲芸とは見世物の一種。普通人には出来ないさまざまに目利きをする離れ業。だと。因みに、尾崎士郎が山本周五郎に対して曲軒と称したが、広辞苑に曲軒は載っていない。言葉とは多くの他者に認知されないと言葉にならない。隠語とは特定な集団だけに理解できる言葉である。暗号とも言われる。多くの他者に認知されると隠語や暗号や符丁でなくなっちゃう
オリンピックを見ている。サーフィンとかスケートボードは元々アメリカ圏で発達したものだろうな。スポンサーがつきプロとして発展してきたものだろうな。体操やスケートフィギアと同様、得点を競う。規則はあるだろうが審判の眼に寄るだろうな。素人からは優劣を決めつけられない、曲芸や大道芸に見えるな。小沢昭一が紫綬褒章を受章した際に、永六輔から助平一筋で紫綬褒章を受けたと言われたが、大道芸を追求して日本の放浪芸を記した。オリンピックとはスポーツ運動でなく、お祭りとして曲芸もあるようだな。曲芸師は地方を渡り歩いて芸を磨いていく。歌舞伎役者も地方から地方へと。その地で家族も設けた役者もいたようだ
ひつじ年生まれで、羊の歌を記した加藤周一は親子二代の産とも言われる。このオリンピックを見て、選手を拝見して、親兄弟の血を引き継ぎ、あるいは幼児からの環境が重要であろうな。才能プラス環境プラス努力そして最後に運であろうな。それと楽しみ、遊びであろうな。国家を背負っても、プロ大会の賞金とは違って一種の遊びの要素、重圧を感じないことが知らぬ間の勝利に結びつくだろう
7月25日の朝日新聞の朝刊の一面に、「王者内村、失望と笑み」と言う見出しであった。新聞の一面は編集部で色々と議論があるだろう。一面とは新聞の顔である。その一面の第一に負けた競技で負けた者が記載された
「なにやってんだ、ばーかって感じです」。内村航平は自分にあきれていた。と。今までに一番うれしかったことは、鉄棒で「けあがり」ができたときだと。金メダルを取ったときの喜びですら、「けあがりを超えられない」と言ったと
出来なかった事が出来た喜びはあろう。知らなかった事が理解できたことは嬉しさはあるな。また老人になると昔出来た事が出来なくなることもあろう。反対に若い時に見えなかったことが見えることもあろう。人それぞれであろうな
ふと昔読んだことを思い出した。小生数年前に引越する際に本を引き払った。昔の古本屋は初版本や珍しい本は高値で取引された。昨今では売れる本か売れない本かで値段が決まると。株式市場と同様だな。需要と供給によって値は決まるが、どの世界でも共通だな。本は重い。藤原新也の本はエロ本のように軽いが、大抵の本は重量がある。立花隆の書庫の床はそのため厚くしてあるとか。渡部昇一なぞは庭の塀を書庫にしたと記憶している。発想だけは面白い
気になったのは五木寛之の弟の墓がどこだったかである。五木寛之は弟と仲が良かった。自分の作品の編集にも関わっていたかな。その弟が若くして亡くなった。五木寛之は悲嘆にくれた。墓はすぐには作らなかった。数年経って思い立って墓、碑を作った。奈良のどこの寺か気になった
インターネットで検索した。散々検索したが出てないんだな。ただ一つMixiユーザー2007年4月12日投稿、「風の王国(五木寛之)コミュの二上山の碑」に記載してあった。朝日新聞社“日暮れて道なお遠し”「みみずくの夜メール」から
おとといは奈良にでかけた。斑鳩の誓興寺さんのご住職にご挨拶をして、そのあと極楽寺の亡弟の碑に立ち寄った。極楽寺といっても、寺ではない。小高い丘の中腹が墓地になっている場所である。その丘に立つと、法隆寺の五重の塔が見え、天気がいい日には二上山、葛城、金剛の山なみが遠望できる。
インターネットとは恐ろしく詳しい者がいる。大抵のものはインターネットで検索できるが、インターネットとは立ち読み、覗きに似ている。フランス語で寝言を言っていたと言う、なかにし礼はがん治療をインターネットで見つけたとか。使いようかも知れない
誓興寺や極楽寺墓地には小生は行ってない。グーグルマップで見ると見晴らしの良い丘のようである。五木寛之に関するインターネット記事を見た。戒厳令の夜までは読んでいたが、それ以降はあまり読んでいない
風の王国は読んでいない。風の王国は休筆後の作品であると。松岡正剛の千夜千冊の五木寛之「風の王国」の解説がしっくりきた。松岡正剛は知らなかった。ウィキペディアの説明によると実業家、編集者、著述業だと。弥勒プロジェクトはともかく、こと風の王国の解説は読ませた。千夜千冊は同じ著作の本は2冊以上取り上げないと。
この物語の主人公たちは、明治維新に廃藩置県があったとき。葛城山系に住んでいた「箕作り」の一族の末裔たちだった。//最近は「山の民・川の民。海の民」ともいわれるが、そこに芸能や信仰が関与するときはしばしば「遊行の民」といった。声聞師・鉦叩き・遊行聖・白拍子・木地師・杜氏なども含んだ。ときに「化外(けがい)の民」も含まれていた。//古来、東の三輪山が朝日さす神の山で、西の二上山は日の沈む死の山とされてきた。//仏門の隠語に一のことを「大無人」(大という字から人を無くすという判じ読み)、二を「天無人」(天という字から人を無くす)、三を「王無棒」などと言い替えたことに因んで、「天武仁」で「二」を、「神」で「上」をあらわして、かれらは自分たちの講組織を「ふたかみ講」と名付けたのだった。//「風の王国」はそのような一群が、いっときの“国なき国”をつくろうとした動向に光をあてた作品である。//近代の国家というものが国民に要求することは、徴税と納税と義務教育であり、それを完遂するために国家が大前提にすることは住民登録を徹底することだった。//明治期の「ケンシ狩り」にもそのような事情が絡んでいた。住民調査、実は一斉摘発、その実は開発計画、なのである。//と
松岡正剛が五木寛之に関して「風の王国」を選択したのは、それと解説は良い。読んでみよう、読みたい気持ちにさせる。編集者冥利に尽きるだろうな
五木寛之は2002年に幻冬舎から「運命の足音」を出版している。この本はたまたま、とある老人ホームの図書館で拾い読みした。小説でなく、自らの実体験を描いた。敗戦して北朝鮮から逃げ帰った時の情景である。ようやくと言うか、書かずにいられないものだったろう。それを契機にして母は亡くなった
優しい人から先に死んでいった。//飢えた大人ほど怖いものはない//人間というものは、いつ何をするか分からないと
いつしか五木寛之は語っていた。丈夫な靴を履いていた者が生き延びたと。それ故に靴に凝っていると。ロシア兵が暴行した後にロシア民謡を歌って帰ったと。その歌が美しかったと。あれほどの暴力をする者が美しい音を奏でられるのかとも語っていた記憶がある
五木寛之は大学は露文科を目指した。シベリア経由でソ連に入った。少年の記憶を振り切ったからか、それとも少年時の記憶故にロシアを目指したか知らない。いつしか中央自動車を東京に向かってた折に、ラジオから聞き覚えのある声が聞こえてきた。NHKの深夜の友は真の友の五木寛之だった。父親は寝る際、布団に入ると、「寝るが極楽、起きるが地獄・・・・」といつも言っていたと。そして最後に大きくアーアとため息をついたと
俺は同乗のかみさんと大声で笑った。家と同じなんだな。小生の父親も同じことを言っていた。「寝るが極楽、起きるが地獄、浮世の馬鹿は起きて働く」と。そしてため息まで同じなんだな。笑っちゃったな
やはり時代なのかな。五木寛之と石っ原慎太郎は生年月日は同じである。同時代人とも言えるが、石っ原慎太郎が太陽の季節で芥川賞を受賞した折に、五木寛之は同じ生年月日で考えていることもタイプも違うと語っていた
今村昌平が分からなかったら、とことん議論する。相手が分かるまで議論すると。沢村貞子は分からなかったら首根っこを掴んでも分からせると。白隠禅師は「語らざれば、うれい無きに似たり」と。五木寛之は諦念とか他力とよく言っていた。倶会一処とも言っていた。いつしか箱根の七福神かな回った際に、墓碑に倶会一処と記していた墓石があった。地獄の沙汰も金次第もあり得るが、田舎の温泉では男女入り口が別でも中に入れば一緒・一処はあるな
戒厳令の夜は小生の記憶では既視感デジャヴュから始まり、何人だったかなパブロがいた。主人公は画学生、老人もいた。その老人は絵画の論理は分からないが良い作品にはアーと声を上げるんだな。終盤は武装蜂起。その延長戦に「風の王国」を描いたのかも知れない
八月や 六日九日 十五日
ハチガツヤ ムイカココノカ ジュウゴニチ
今日は晦日。来週から8月、また暑い八月になる。これは季語は八月であり、五・七・五であり定型的な俳句であろう。俳句界でも俳句としているようである。永六輔が土曜ワイドで語っていたが作者には触れていなかった。ネットではこの句の作者を調べた者がいたと。著者・小林良作、「鴻」発行所出版局だと。何人も詠んでいる。作者を突き止めたようだが、はっりとは分からないな
敗戦後77年に成ろうとする。1970年ベトナム戦争の真っ最中に北山修作詞、杉田二郎作曲で戦争を知らない子供たちを杉田二郎が歌った。戦争を語ったり知っている世代が少なくなってきた。内務省上がり警察出身の後藤田正晴はカミソリ後藤田とも言われた。その後藤田正晴は海外での武力行使を禁止していた。先日のNHKテレビで読売新聞社の渡邉恒雄は戦争だけは絶対にいけないとも言っていた。保守派からも戦争体験を引きずっている
2005年(平成17年)にALWAYS三丁目の夕日が上映された。舞台設定は1958年(昭和33年)安保前の街並みで全てセットである。好評だったので続編も作成されたと。しかし小生から見ると昭和の時代はもっと汚かった。懐かしさはなく、街並みや隅田川でも雑然としていた。映画は虚構であるが、整然として違和感があった。しかし映画はヒットした
昭和の時代は戦争へ戦争へと突き進み、その戦後の時代である。戦争を見て聞いた者たちが少なくなった。世はオリンピックで日の丸が高らかに掲げられている。西欧の学者だったかな。愛国とは西欧では声高らかに叫ぶが、日本では表に出ず秘めていると
戦争を認知している者がまだ残っている。日の丸や君が代によって戦場に駆り立てられ、亡くなった者あるいは図らずも生き残った者がいる。学校でも君が代の前で素直に起立出来ない記憶が残っている者もいる。政治家は「戦後は終わった」と。しかし引きずっている、曳航している者もいる
この世評は、「寝るが極楽、起きるが地獄」がテーマなんですよね。
読んでいるうちに目が回りそう…そろそろ瞼が仲良くなる時間になって目をこすりながら読んでるものですから…
途中で…うん、何だったっけ?とまた読み返しては同じ所へきて…。今回は特にそんな感じがしました。スミマセン!
結局五木寛之氏の話までは全部枕なんですか?
だとすると枕が長いと自認されるだけのことはありますね。
私のような世評に疎いものからすると、ヘエッと思うことばかりなんですが、…
特に今回のオリンピックが菅総理の最後の切り札、あのジョーカーよろしく使われて、このゲームに勝てるのでしょうか。
そこまで大衆というのはバカなんでしょうか。イヤになりますよ。私もその一人ですが、腹が立ってきます。
全く誠意のない…一国のトップというのはいわばその国の〝顔〟ですよね。何をか況んやです。
それにしても波乱のオリンピックでした。何時も思うことですが、私の心の底には〝人生なんて自分の思い通りにいくはずがない〟とか〝人生何があるかわからない〟という考えがあるんです。
だって今まで一度だって自分の思い通りになったことはなかったような…、だからといって別にひがんでいる訳でもないんですよ。却ってもし自分の思い通りになったとしたらそれの方がコワい気がします。
ところで、風の盆さんのお父様も「寝るが極楽、起きるが地獄…」が口癖で、「浮世の馬鹿は起きて働く」と言ってため息をつかれていたと。
一種の仕事人間の自嘲なんでしょうか。あの頃の人々は日本の高度成長を担ってきた方々ですから、寝ているときにしか心身共に休める時がなかったということかも…
それとも当時の流行語大賞みたいなものだったとか…
〈ドラマを作るのは記者たちだな。才能もあろう、努力もあろう、運もあろう、しかしドラマを仕立てるのは記者、書き手、第三者だな。筋書き通りなら八百長だな〉…
なるほど確かにこの通りだと思います。記者の書きようによっては悲劇にも喜劇にもなりますものね。
先日弁護士さんと関わりがあって、交通事故の話をしたとき、ないことをさもあるように書き立てるのは一種の詐欺みたいなものでは…というと、裁判は勝てばいいのだから自分たちの都合のよいように解釈して、相手のミスを見つけたらそれを拡大して突くんですって。
それでは事実と違ってもいいんですか?正義じゃあないではありませんか…と言ったんですが、そんなものですよと軽くあしらわれました。これにもとても腹が立ちました。
こんな世の中では一体何を信じたらいいんでしょうか。
悔しいけど取るに足りない一介の凡人には手も足も出ません。結局弱いものは泣き寝入りするしかないんですね。
たまに世界各国の紛争や戦争などのドキュメンタリー映画を見たりすると…目を覆わずには居られませんが、でも見るたびにどうやっても生き延びたものの方が勝ちという気がします。
犠牲になって死んでいった人たちはどうなんでしょう。まるで虫けらのように殺されて…
そんなことを突き詰めて考え出すと頭が痛くなりますので…もう止めますね。
なにはともあれ、オリンピックの選手の方々はみな理屈抜きで頑張ってきたんだし、運も実力のうちと…。
勝利の女神に気に入られれば、バンザイ!見放されればザンネン!のどちらかですもの。
人はどこで満足出来るか?やっぱり〝金〟でしょうかね。
柔道なんかあれだけ金メダルが取れると、後の銀も銅も本当はスゴいことなのに何だか影が薄くなって見向きもされない…カワイソウでした。ましてや何も取れなかった選手はどれほど肩身の狭い思いをしたでしょうね。
それを平常心で耐える…きっといつか花が咲きますよ!と…
本当は代表選手になれただけでスゴいことなんですがね。上には上があるから…
じゃあ頂点に上り詰めたら…今度はそれを維持するのが大変!
内村航平選手の「王者内村、失望と笑み」という見出しの笑ととは、「なにやってんだ、ばーかって感じです」ということばが彼の心をよく表していますね。
良く言われますよ。何でも登るときより下りるときの方が難しいと…。
何だかまた支離滅裂になってしまいました。ゴメンナサイ!
深夜叢書社、斎藤慎爾を思い出した。良い本を出版していた。出版社などは個人企業。良い本を出しても売れなくてはしょうがない
交通事故は昔の日記に書いてありましたな。まだ続いているんですか。法曹界は会計士のような世間の動きは関係ないと
検察とか弁護士は法律あるいは法律の解釈を巡って争う。裁判官などは世間知らずでいいんだな。いや裁判官こそは世俗を離れなくちゃならないが、今の裁判官は官職だからな
文章とは職業だろうが職業とは関係なくても書きたいことはあるんだな
小生の場合には色々書いちゃうから、焦点がボケる
まあ、読む人は色々だろうが
最近、ちわきさんの影響かな、俳句界に気になってきた
面白い現象とは人によるな
俳句なぞは、なぞはっとは卑下しているんではないな
17文字、主に自然を読む
まあ、専門家を前にして、小生の感じなんだな
八月や 六日九日 一五日
この句に関して俳句界ではどうなんだろうな
この句は昭和20年を詠んでいる
片や
ふる雪や 明治は 遠くなりにけり
これは昭和6年だったかな、そしてホトトギスに発表したが、句集「長子」に掲載したのは昭和11年だとか
いかにも昭和初年代だな。季節は冬
昭和の初期は15年戦争へ向かった
昭和11年には2.26事件があった
そういう時代背景があるんじゃないかな
誰だったかな無名の俳人は
獺祭忌 明治は遠くなりにけり
と以前に読んだとか。秋だな
中村草田男が詠んだことにもあろうが、やはり冬の2.26事件を連想するな
釈迦に説法と言われるが
子規が死の間際に、
鶏頭や 十四五本も ありぬべし
この句を評価したのは歌人だったとか
当初俳人には評価されなかったと
難しいものだな
達者でな