風のたより

電子計算機とは一極集中の現象が大であるが、その合間を縫って風の一頁を

魚付林

2015-11-04 15:29:24 | 文化
昨日は文化の日とか

爺さん、婆さんにとっては、戦前は明治節だったな。明治の時代は天長節だった。明治節には歌まで歌ったな

そうだな年輩の爺さん、婆さんにとれば、
年の始めのためしとて
終わりなき世のめでたさを
と元旦に登校して紅白饅頭を頂いた記憶があろうが、明治節もそんなところかな

因みに、戦後はどういう訳か文化の日になってしまった。1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法が公布された。そして6ヵ月後の5月3日に施行され、憲法記念日になった。その11月3日は日曜日だったな

戦後の動乱期は、民たちは生きていくのが精一杯、明日の食べることしか考えなかったが、この国の政治を司る人は、もちろん民によって選抜されたが、日曜日に大事な憲法を公布したな

それも恐れ多くも明治天皇の生誕の日に公布した。ひろく告げ知らせたな。

まあ戦後憲法は自主的な憲法でない押し付けられた憲法であったと言う論があるが、少なくても公布日において、この国の意地を通したと言えるな

文化勲章自体は戦前からあったが、文化の日には様々な勲章を国家によって与えている。小沢昭一が紫綬褒章を受章した際に、永六輔が助平一筋で紫綬褒章と言ったが、言い得ているかな。貰った本人も助平一筋で国家から勲章を受け賜わるのでは、まあいいかとなるであろうな

もう紅葉も人里まで降りてきつつある。柿は果実だけでなく赤く紅葉した様も美しい

先日、木守柿という言葉を教えられた。キモリガキともコモリガキとも読むとか。収穫を終えた柿の木に、ぽつんと一つだけ残された柿の実だと。良く見かけるんだな

俳句の季語にもなってるそうだから、全国的な光景であろう。冬の光景だな。

柿はもともと渋柿であったらしい。何かの拍子に甘柿が出来たらしい。柿渋は防腐剤としても用いられ、また染めると良い色合いに成る

また、柿の木坂は地名にも多い。東京は目黒区にある。また柿の木坂は駅まで三里という歌にもあったように、柿の木坂の地名は多い。白洲正子の武相荘も、住所は東京都町田市であるが、邸内には大きな柿の木があった。電車では隣の駅が柿生であり、隣町は川崎市麻生区である。ここも柿の産地である
白洲正子の父方の祖父は、薩摩の軍人。示現流の使い手だったと。ある時、薩摩の要人が斬られた折に、用心棒が逃げてしまったと。その要人の葬式の際に逃げた用心棒を一刀両断に斬り捨てたと。周りの者は何も発しなかったと。明治だな

明治と言う時代は、卑怯者と言われたら、生きるの値しなかったな

正岡子規も柿が好きだったと

柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺

柿の季語は秋だが、木守柿は冬とか

もう一つ、冬の光景として、吊るし柿がある。甲州では吐露柿とも、ころ柿とも言われる。渋柿を干すと、渋みが取れて甘くなる。甘柿よりも旨くなるんだな。先人たちの知恵だな

木守柿で思い出した。東海道を下ると、天下の剣の箱根を超えると三島の宿である。三島女郎衆はノ-エと歌われた農兵節の地である。農兵節の歌詞は延々と続いていく

その三島から沼津の間に柿田川湧水がある。今は立派な公園になったが、昔は汚かった。蓼科に御射鹿池がある。東山魁夷の「緑響く」のモデルになったという池である。今じゃ、周辺は綺麗になり、風情がなくなった。往年の雰囲気を喪った。

柿田川湧水も風情が無くなったな。大昔は富士の裾野で湧き水が豊富であった。しかし上流に製紙工場が乱立して、湧き水は途絶えた。製紙工場は大量の水を使うので、湧き水は出なくなった

小生は、復活した湧水の脇で爺さんの説明を聞いていた。湧き水が途絶えて、周辺も汚くなった。そして水域の流域周辺を市民たちが買い占めた。この国のトラスト運動の奔りであったと

そして、製紙工場も廃業したら、途絶えていた水が湧き出したと。一時は駿河湾は製紙工場のヘドロで臭いがしたと

柿田川の湧水が復活し、大昔の湧水群が出だすと、不思議なことに駿河湾に桜海老が戻ってきたと

元禄の頃の代官はある意味、有能な者もいたと。先年亡くなった高橋治が書いていた。江戸時代の元禄の頃は文化の花が咲いたと。代官も海を守るため、森林を育てたと。ウオツキリン 魚付き林と言ったと。

現代の為政者よりも、自然の働きを昔の人は肌で感じていたようだな


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