暇人のぐうたら日記

暇人がぐうたらな日々をつづる

働き方改革は本当に必要か

2018-06-05 17:32:27 | 時事
働き方改革法案がまもなく可決され様としているが、制度不備と思われる内容ばかりが議論されている。例えば、健康面では産業医の面談が要件であるとか、働かせすぎないように配慮するとか。そんなに健康面が心配な法案なんて本当に通して良いのだろうか。その他にも制度上問題点は多く、労働者と会社側で契約上の齟齬があった際には司法の判断を仰ぐことになるだなんて、労働者は金銭面、時間上の制約を含めて裁判なんかに関わっている余裕はない。高い給与が約束されても、裁判費用にすっ飛ぶんじゃ意味がない。
これまでの労働法とは切り離され、まったく新しい仕組みが導入される。これは一種の社会実験で何が起こるかわからない。その責任の所在すらない。労使の契約で決まるらしい。契約で決まるなら、個別に契約社員を雇えば済むことである。元来、労働は労使の自由な契約に基づいているが、自由な契約では立場の弱い労働者に不利であることから労働法で規制をかけている。それでも不十分なら労働法を見直せば済むことで、役に立たない制度ばかり導入してきた経緯がある。結局、働き方改革と言っても得体のしれない制度で、これまでの秩序が破壊されるか、労働形態が破壊されるかのどちらかであろう。
本当にこんな法案意通す意味がるのだろうか。一体、どこのどの労働者を対象にしたものかも依然わからない。
森友・加計と同じで掛け声に合わせて官僚が無理やりこじつけて作った法案としか思えない。犠牲者は、労働者側に出るだろう。国会は、また紛糾し、誰も責任を取らないままやり過ごされる。同じことを何度繰り返せば気が済むのか。適当に物を言う総理大臣に振り回されて屋台骨はガタガタである。
誰か止める人はいないのか?

森友・加計に見る日本の問題点

2018-06-04 23:25:41 | 時事
森友・加計問題がいよいよ終息に向かっている。これ以上の進展は見られそうもないが、これらの事件からはっきりと日本の問題点が明確になった。
1.国会
  国会議員は国民の代弁者として位置づけられているが、与党議員は政府側の人間と勘違いし
 ている。政府官僚は行政府でそれをチェックし、明らかにしていくのが国会の仕事であるが、
 与党議員は他人事のように、まるで自分たちが政府側であり、多数派なのだからそれだけで偉
 いと勘違いしている。とてもまっとうな人たちの集団ではなく、自浄作用のかけらもないとい
 うことである。先生と呼ばれてちやほやされた人間の集まりなのだろう。

2.行政
  行政は、国民に変わって国の事務を担当する。事務というのは、予算の執行と会計その他、
 他国間の関する事務を行う。もっぱら大臣以下、公務員が該当する。彼らは国会で決められたことを忠実に実行し、国益を国民に還元する義務を負っている。しかし、大臣は与党議員から選ばれるから、これらが結託して改ざん、隠蔽、虚偽答弁を平気で行う始末である。問題は、本来法案の議決権数であるはずなのに、多数与党はこういった問題についても無力である。国家が国民を騙すようになったら、これはもはや独裁国家と言わざる負えない。

3.司法
  司法は法の番人として位置づけられ、法を犯した者を処罰する機関である。そして、人を裁く権利を模ている以上、公平・中立に行われるよう独立した機関となっている。しかし、実際は法に反して利得を得た者、得ようとした者に対する事件に限定されている。森友・加計のようなケースでは、政治家、官僚が関与しているため、政治的な問題でもないのに一切の捜査も行わない。また、関与したとされる人物を一向に暴こうとしない。民間人だけは必要に監禁・押収・逮捕までしておきながら、法を犯した側の刑事責任は問わない。

もう終わり。完

行きすぎた指導 今と昔

2018-06-02 12:55:39 | 時事
日大アメフト部の行き過ぎた指導が社会を賑わせている。行為そのものの是非は論じない。勝負の世界では潰せとか、やっつけろ、痛めつけろ、等と言う言葉はよく使われる。これは、今も昔も変わらないのか。少なくとも、昭和の時代では、殴る蹴るといった体罰は当然のこととされていた。特に運動部では炎天下のグラウンドでの練習でも水を飲むことは許されなかった。これが、精神を鍛えることになると信じられていた。日大アメフト部の監督はそういう時代を生きてきた。ところが、平成になり、時代は次第に変わっていった。スポーツに医学的な側面が追加され、単なる精神論は無意味であり、体罰により人間の精神は鍛えられるどころか委縮することもわかってきた。所謂、欧米型指導である。日本では選手を痛めつけることにより、反骨精神を喚起させようとしていたのに対し、欧米では行き過ぎた練習、過度のプレッシャーは逆効果であるという科学的、医学的要素が取り入れられていた。野球なんかも、投手はと途中降板が当たり前、中休みも当たり前のように受け入れられる世になった。そこに、昭和の産物と現代の進化との間にギャップが生まれている。これは、学校の指導やスポーツの世界に限ったことではない。ところが、問題はその進化の過程でどちらとも判断できない世代がいることである。幼い時は、昭和の精神論を叩き込まれ、成人したときはすでに欧米型に変わってしまった。この世代は、自己が破綻してしまっている。それまで身に染みていたやり方が、180度違った方向へと向いてしまったからである。この世代はもはや自分で考えて行動することができず、ひたすら強いものに巻かれろ的な発想をする。日大アメフト部のコーチ陣である。彼らは、誰も監督に意見することもできずに従うのみであった。こうして、悲劇は生まれた。
政治の世界でも同じことが言える。60台以上の年寄りが幅を利かせ、50代以下の党員は物も言えない。当然、一般的常識から言って間違っていると見えることも彼らにとってみれば従うしかないのである。こうして、政治の世界では多くの問題が噴出している。これまでは、昭和の理論同志がぶつかって問題が起きないようになっていたシステムが、新しいせい代官ギャップとその中間世代により、ネジが外れた様になってしまっている。
国民の間にも蔓延し、何故か70%の反対の政党が過半数以上を占めている。選挙となれば、国民の世代ギャップが施行を停止してしまい、昭和の産物に従ってしまう。所謂、長いものに巻かれろとなり、悲劇が起きる。
このような世代間ギャップは、まだもうしばらく続くだろう。その後には、完全に新しい欧米型のシステムが取り入れられることとなろう。そこに明るい未来があることを期待する。