暇人のぐうたら日記

暇人がぐうたらな日々をつづる

2019/11/11

2019-11-11 07:58:41 | たわごと
歯車が狂い始めた。ある日突然起こったのかと思ったが、その前から徐々に狂っていた。その狂いはさいしょは小さかったから気づかなかっただけだった。その後は歯車はドンドン狂い続け今や完全に壊れてしまい修復困難となった。新しい歯車なんてものは存在しない。歯車は1人あたり一つしか与えられていない。一度壊れたらどうしょうもない。後は朽ち果てるのを待つしかない。歯車が狂い始める原因は一つの選択の間違いからだった事は後から分かった。人が事業に手を出して失敗し破産に追い込まれるようなものだ。流石に未だ破産した訳ではないが、時間の問題の様な気がする。その時はどうすれば良いかまったく見当がつかない。その前に肉体が朽ち果てるかもしれない。或いはこの世の地獄を見ることになるかもしれない。

ゆでガエル

2019-08-18 01:50:57 | たわごと

暑い日が続きエアコンなしでは過ごせない。ゆでガエル状態だ。しかし、ここでいうゆでガエルとはちょっと意味合いが違う。ゆでガエルは、ある温度で動けなくなってしまった為に最後はゆで上がってしまうという意味である。人間で言えば一定の適温に浸かってそれに慣れ切ってしまい動かないでいると知らない間に適応能力が失われ、周囲の変化に気が付かず近づいている危機に対応できないといったところ。今や長期政権、低失業率に慣れ切ってしまっているが、政界景気は悪化しておりいつ経済状態が悪化し火の粉が降ってくるかもわかかない。しかし、ゆでガエル状態に慣れ切ってしまっているため危機感は感じられない。株価が暴落し始めているのに投資を煽ったり、リストラされないと信じこんでいたり、今の状態がいつまでも持続可能と信じ切っている。好景気の後には不景気が来るのは景気循環という点からも至極当然のことである。ゆでガエル状態は知らない間に神経が麻痺されるから始末が悪い。一度ゆでガエル状態になると決してそこから抜け出せなくなる。ゆでガエルにならないためには、環境を変えて適応力を身に着ける以外にない。環境を変えるのはエネルギーがいるから年を追うごとに難しくなる。年寄りはゆでガエルではなく、干上がったカエルなのである。


超管理社会

2019-08-13 02:45:47 | サイエンス
超管理社会とはすべての人が政府において管理され統制される社会である。あらゆる場所に監視カメラが取り付けられ、余程の山奥へ行かない限り、
あらゆる行動が監視されている。更に労働と所得管理である。労働者は企業に属する事から個人情報を管理され、個人情報保護法は政府のご都合法となっているため、基本的には個人情報はインターネットを含めて監視され、管理されている。仮に社会が要求することと反する事をすれば超管理社会では即逮捕され、抹殺はれる。マイナンバーによる縛りがかけられれば経済活動も管理されるようになり、政府、自治体により監視化に置かれ、生産性の低い、所謂、社会のお荷物は徹底的に排除されるだろう。たとえば、年間の医療費が嵩む事が分かれば健康保険の使用が制限されたり、高い治療費は医療レベルを下げることで削減される。生活保護は基本的には自治体の厳しい管理のもとで削減されている。現代社会が何か分からない窮屈さ、閉塞感を感じるのは超管理社会にある。個人資産は減少する様にできており、収入は労働の対価としてしか受け取れない。すると人は従順な蟻の如く働くしかない。排除されたら終わりだからである。権力やお金を持っている資産家は優遇され、労働者や庶民など社会的立場の弱い人は冷遇される。反旗を翻そうにも超管理社会では圧倒的力の差により不可能である。唯一の砦である憲法の自由も人権もかなり危機的な状態にある。超管理社会は自由を管理された範囲でしか行使できない様に制限されるからである。超管理社会はカプセルに閉じ込められた閉鎖的な社会なのである。

薄っぺらい人間

2019-08-12 23:49:17 | たわごと

僕は自分が薄っぺらい人間だと思う。浅はかな人間とは違う。薄っぺらい人間とは文字通り薄っぺらいのであって、奥深さというものがない。薄っぺらい人間という表現は知っている限り日本独自の表現だと思う。明確な解釈というものがない。お前は薄っぺらい人間だなと言われることもあまりないだろう。包容力の欠如とも異なる。どちらかというと表現力の欠如に起因する面が大きいように思える。言葉をあまり知らないという面もある。学歴とも違う。例えば、仲間で会話をしていると誰かに引き込まれてあまり会話に入れなかったりという経験がある。言い争いをしてもいつも負けてしまい、あの時ああ言えればと後悔することも多い。そんな時に自分は薄っぺらい人間なんだと思う。もちろん恋愛上手でもないし、交渉上手でもない。人を惹きつける魅力もない。自分は生まれ持っての才能だと思い才能がないのだと諦めている。才能って言うのは努力して身につくものではない。だらしがないとかそんなものではない。人間味がないというのが最も適当だろう。


思い出作り

2019-08-09 17:41:13 | たわごと

夏休み。ここ数年は何もしていない。若いころは体が良く動いたせいもあり、休みのたびに旅行に行き思い出作りをしていた。今しかできないからと焦って何かしないといけないという強迫観念に取りつかれた様に懸命に思い出作りをしていた。しかし、年を取るたびに思い出作りをしなくなった。する気もなくなった。その原因は、若いころに一生懸命思い出作りと思ってやっていたことが思い出せなくなってしまい、思い出作りに対する意識が遠のいたからだ。行ったことがあるって記憶はあるが、体に染みついていないから思い出として感慨深いものとして残っていない。そうなると思い出作りに対する執着もなくなった。むしろ家にいてのんびり過ごす方が良くなった。近場に出かけることも面倒だし、人の喧騒の中にいるより静かなところでのんびり過ごしていた方が楽である。極めて省エネ的になった。若いころは好奇心も旺盛だからだったのだろう。老いてゆくということは荷物を一つ一つ捨ててゆくようなものというのを聞いたことがあるが、このような心境なのかなと理解できる気がする。最期に脳裏に焼き付いた思い出が死ぬ間際にわっと溢れ出て来るのだろうか。思い出の数々が走馬灯のように駆け巡るのだろうか。特に予定はない。蝉の鳴き声を聞きながらのんびり過ごす。