
先日、日経新聞を読んでいたところ、落語から学ぶ人生訓についての特集記事が載っていた。確かに、落語の中には人生についていろんなヒントになるコンテンツが含まれている。
大昔、小生が学生だった頃、談志師に言われた言葉を今でも覚えている。「お前ら、授業なんて出る必要はねえよ。全部、落語に入ってるから、落語だけやってればいいんだ」と。
その頃からのことである。談志師が、「落語は業の肯定だ」などと高座で盛んに言うようになったのが・・・
さて、人生訓という目で落語を眺めるとなかなか面白い。新聞で、第一位になった「百年目」などは、今のアメリカ流の経営感覚では成立しないような展開だが、経営者たるもの、かくあるべしと思ってしまう。
また、「井戸の茶碗」や「文七元結」、「柳田格之進」などはいわゆる悪人が出てこない。そんな美しい話があるかよって感じだが、それもまた落語のいいところだ。
一方で先日談春の「厩火事」を聞いたが、この話は昔から個人的には解決しないテーマである。文字通りの髪結いの亭主の本音を確認するために芝居を打つ奥さん、その奥さんに「ケガはないか」と答える亭主。「お前さん、そんなに私が大事かい」「当たり前じゃねえか、お前にケガでもされてみろ。遊んでて酒が飲めねえ」
有名なサゲだが、問題はこの亭主の台詞が、「亭主の本音なのか、愛妻へのテレ隠しのための台詞なのか」である。
前者の場合は、かなり救いのない話になってしまう。後者の場合はほのぼのとした余韻が漂う話となり、心が温かくなるように思う。
談春の場合は、「夫婦であってもお互いの了見なんぞはわからない」という前提を噺の中に折り込んでいた。だから、サゲについてもあっさりとやっていた。
どちらかといえば、前者に近い整理なのかなと・・・個人的に彼の噺に小生がのめりこめなかったのもそのせいかも・・・
しかし、そのくらい落語のテーマって、いくらでも議論できるくらいに深いし、それぞれの立場から演じ方も変えてやることもできる。
やはり、「落語には人生のすべてが入っている」という言い方ができそうだ。これからもいろんな落語を聴きに行こうっと・・・もちろんエルメスと・・・って、久しぶりにこの台詞を吐いたような気も(汗)










大昔、小生が学生だった頃、談志師に言われた言葉を今でも覚えている。「お前ら、授業なんて出る必要はねえよ。全部、落語に入ってるから、落語だけやってればいいんだ」と。
その頃からのことである。談志師が、「落語は業の肯定だ」などと高座で盛んに言うようになったのが・・・
さて、人生訓という目で落語を眺めるとなかなか面白い。新聞で、第一位になった「百年目」などは、今のアメリカ流の経営感覚では成立しないような展開だが、経営者たるもの、かくあるべしと思ってしまう。
また、「井戸の茶碗」や「文七元結」、「柳田格之進」などはいわゆる悪人が出てこない。そんな美しい話があるかよって感じだが、それもまた落語のいいところだ。
一方で先日談春の「厩火事」を聞いたが、この話は昔から個人的には解決しないテーマである。文字通りの髪結いの亭主の本音を確認するために芝居を打つ奥さん、その奥さんに「ケガはないか」と答える亭主。「お前さん、そんなに私が大事かい」「当たり前じゃねえか、お前にケガでもされてみろ。遊んでて酒が飲めねえ」
有名なサゲだが、問題はこの亭主の台詞が、「亭主の本音なのか、愛妻へのテレ隠しのための台詞なのか」である。
前者の場合は、かなり救いのない話になってしまう。後者の場合はほのぼのとした余韻が漂う話となり、心が温かくなるように思う。
談春の場合は、「夫婦であってもお互いの了見なんぞはわからない」という前提を噺の中に折り込んでいた。だから、サゲについてもあっさりとやっていた。
どちらかといえば、前者に近い整理なのかなと・・・個人的に彼の噺に小生がのめりこめなかったのもそのせいかも・・・
しかし、そのくらい落語のテーマって、いくらでも議論できるくらいに深いし、それぞれの立場から演じ方も変えてやることもできる。
やはり、「落語には人生のすべてが入っている」という言い方ができそうだ。これからもいろんな落語を聴きに行こうっと・・・もちろんエルメスと・・・って、久しぶりにこの台詞を吐いたような気も(汗)











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