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煉獄(れんごく)についての聖ドン・ボスコの教え

2022-09-04 15:32:50 | 日記
煉獄(れんごく)についての聖ドン・ボスコの教え
 
牧師
「カトリックの公会議で宣言されていることの中には、"煉獄に関する教えが聖書にもとづいている"といっていますが、実は、聖書の中にわたしは煉獄についての記事を一つも見つけないのです」。
 
この第一の注意に対して、ドン・ボスコは、まず、力トリック教会は、聖書と聖伝を同程度に尊敬していることを前提としていいました。
 
ドン・ボスコ
「その結果、聖書が提供する真理が聖書にもとづくものであるという教えと、カトリック教会が聖伝にもとづいて認めて提供する真理の教えとは、両方とも神のみことばとして認められねばならないものです。しかし、あなたとの会話では、聖書だけを引用することにします」。
 
こうして、ドン・ボスコは、旧約聖書のなかに、煉獄のことを考えさせるいろいろの箇所を引用し、カトリック側が伝統的に解釈しているところを紹介しました。そして次に新約聖書に移り、マタイ福音書第5章(25-26節)に出るイエズスのことばを引用します。
 
「反対者と、道の途中で和解せよ。そうしないと、相手はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、ついに牢に入れてしまう。まことに、わたしはいう。一厘の残らず返すまで、あなたはその牢を出られない」
 
という福音書のこのところは、いつも最近のプロテスタントが認めていますが、カトリック解釈者は、このように解釈しています。すなわち、反対者とは神であって、わたしたちは、神に対して犯した罪をつぐなうために全力をつくさねばなりません。道とは、地上における生活であり、裁判官は、キリストです。また、下役とは悪魔のことで、牢は煉獄のことです。最後の一厘というのは、煉獄でつぐなわれる小罪を意味します。それから、同じ福音書の12章に、これはたとえの形でなく、決定的な教えとして、イエズス・キリストは、次のように断言しておられます、
 
「ことばで人の子にさからう者は許されるが、ことばで聖霊にさからう者は、この世においても、来世においても、許されることはない」(マタイ12章32節)
 
と。救い主のこの教えで来世において許される罪のあることが明らかになります。もし、そうでないなら、イエズスのみことばは、無意味なものとなってしまいます。でも、大罪は、その神に対する侮辱のうえからも、永遠の罰ということからしても、来世において、もう許されることはあり得ません。すると、すでに許していただいた罪だけが、一時的な罰として来世で許されることができます。しかし、これは地獄においてではあり得ません、なぜなら、地獄におちた人にとって、もう救いはないからです。それで、来世で許されるのは、煉獄においてだけです」。
 
 (「死者のための祈り- 聖ドン・ボスコの教え」アロイジオ・デルコル神父編より)
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【死者の月の動画】https://www.youtube.com/watch?v=RlvbFUXsVC4&feature=share
 長崎大司教区の家庭委員会では、毎月さまざまなコンテンツの動画をアップしています。今月は「死者の月」がイラストを使ってとても分かりやすく説明されています。
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