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聖ラファエラ・マリア・ポラスの名言集・内的生活

2022-09-05 13:05:51 | 日記
聖ラファエラ・マリア・ポラスの名言集


(聖ラファエラ・マリア・ポラス:聖心侍女修道会の創立者:1850~1925年)

・今年こそ主の喜びとなりたい。

・わたしの生涯を愛の絶え間ない業としよう。

・心が愛で満たされれば満たされるほど神はいっそう喜ばれる。

・わたしのまわりにいるすべての人を幸せにするよう働くこと、
 それが本当の愛。

 すべてのことをどんなに平凡なありふれたことでも、神のみ前で 
 神のためにしよう。

・主がわたしたちを、主の支えなしに自分の力だけにされるとき、
 わたしたちはなんと弱い者だろう。

・主はわたしをご自分の目のひとみのように大切にしてくださる。

・私たちはほんとに小さな弱く貧しいもの。だからこそ、
 神の恵みに信頼し、大きな望みをもとう。

・わたしの軛は負いやすく、その荷は軽いと、主は言われた。
 私たちにそれが重くなるのは自分の力に頼ってしまうから。

・主はわたしのすべてを心配してくださる。それで わたしは
 主に信頼しきっている。

・人々が 神をおよろこばせするように…… そのための道具に
 していただいたことをどんなに感謝し、よろこばなければならないだろう。

・人々の救いのために一生けんめいに祈ろう。そしてこの決心が 
 中途半端なものにならないようつとめよう。

・わたしの道は数多くの祈りを唱えることではなく、深く祈る道。

・心をそっくりそのまま神に捧げよう。利己心のかげもない 
 神への愛に満ちた心しなびた心ではなく、はちきれそうな心を 
 まるごと 差し上げよう。

・神のために わたしにできる 一番すばらしいことは、み旨に
 すっかり自分を委ねどんな小さな妨げも置かないこと。

・心が騒いでいるときは 口をつぐみ、一眠りするまで 
 それについて考えないようにしよう。

・聖人たちについていちばん感嘆することは試練のときに
 彼らが示す深い謙遜。

・わたしの生涯を信仰と寛大さによって織り上げていく布としよう。

・大いに奮発しゆがんだ傾きに力いっぱい逆らって生きるよう 
 つとめよう。自分に打ち勝てば打ち勝つほどもっと力を得る。 
 そう望んでおられるお方が力強い助けを確実にくださるのだから。

・苦しみ、侮辱、遺棄が多ければ多いほど、後にはもっと素晴らしい
 ものとなる。

・神のために働きそして地上で十字架を受ける人は本当に幸い。

・苦しみがやってくるときも 喜んでいてください。苦しみは
 ご自分のいのちをかけてあなたを愛されたお方の優しいみ手から 
 来るものなのですから。

・わたしたちの心は 衰えるどころか、むしろ年を重ねるに
 したがって 若くなっていきます。神の恵みで豊かにされるからです。

・キリストの心をもって苦しみを忍ばない人はキリストと
 一致することはできない。

・自分の貧しさを知っている謙遜な素朴な人の願いは、神のこころを
 動かしてしまう。

・一人ひとりは、尊い神の子イエスの御血に贖われたのです。

・すべての人を神の像として尊敬しよう。本当にそうなのだから。

・すべての人は神の子キリストの生涯をかけた血によって贖われた。
 その御血は一滴ですら失われてはならない高価なもの。

・神を愛し、神に仕えるために聖なる人になろう。 



聖ラファエラ・マリアの内的生活

★魂の糧

・ラファエラは神のいのちに生きるために、神から自分を遠ざけようと
 する誘惑が何であるかを見抜いていた。そのため、誘惑と正反対の
 道をいさぎよく歩み続けようと努めた。ラファエラが特に戦ったのは
 名誉心に対してであった。彼女は名誉心が、いかに深く人の心の奥底に
 潜む願望であり、これがどれほど自分を堕落させる罠となるかをよく
 悟っていた。そのため、屈辱や卑下を受ける機会を、自分の内面に
 神のいのちを養う不可欠の糧として抱きしめた。

・わが主イエス

・キリストと聖母とは私たちの模範である。主イエスも、聖母も、
 この世にいらしたときには、何の例外も特権もお望みにならなかった。
 この世において最も名誉なことは、このお二方に倣うことであり、
 またこれは最も完全で聖なることである。

・私の精神は自愛心にとりつかれ、全く弱っている。今、必要な糧は
 自己卑下である。それはきわめて必要であり、私はそれをしきりに望み、
 しつこく願い求めなければならない。ところで、始終、心の内と外、
 特に心のうちで沈黙を保っていることが必要である。

・侮辱、はずかしめ、誤解など、これらを私の霊魂の糧として
 受けなければならない。これによって、キリストはその霊魂の
 うちに生き、このような苦しみによって鍛えられた霊魂を純粋な愛
 で満たし、緊密に一致してこれと一体となられる。

・私は賛辞を屈辱であると考え、悪魔をおそれる以上に恐れる。

・たとえ、人々の目には何の役にも立たないつまらない者と見え、
 忘れられてしまおうとも、苦しみの道をキリストに従って歩みたい。

★神と私

・神は弱き者のうちにご自分の力を発揮されると、聖書に書かれている。
 神にとって、傲慢な者ほど愚かな者はなく、貧しい人、罪深い人を招き、
 愛するとも書かれている。

 しかし、現実世界には、自分が神のあわれみを必要とする貧しい、
 罪多い者であるという認識を持つ人は多くない。というのもこの
 自己認識は神を知る恵みによって生まれるからであろう。
 ラファエラはこの自己認識を常に新たにしていた。

・自分のありのままの姿、つまり、自分は神の憐れみに支えられ、
 かろうじて存在する弱い、もろい、罪に汚れた器であることを
 常に心得ていなければならない。

・私は自分が小さな何もできない者であるのを見ると、ほっと
 安堵の気持ちを覚える。
 なぜなら、私と私にかかわることの中でなさる神のお働きが
 すべて明らかに見えるからである。これこそ、私の望んでいる
 ところである。

・私たちは何の役にも立たない無に等しいものであり、たまたま
 何かうまくやり遂げることがあったなら、そのとき、主が自分を
 道具に用いられたからであることを、はっきり悟ることが大切である。
 私がしたのである、それをしたのは私であると自負する者があるなら、
 主は、私たちの愚かな自惚れを何とおかしなことだと笑われるだろう。

・主こそはすべての善の源であり、私たちはひとりでは何事もなし得ない。
 かえって時には、神を拒むほどの大きな悪をなすに至る者であることを
 認めねばならない。

★使徒の心

・ラファエラの心の中には、常に全世界の人々が生きていた。
 彼女の隠れた生活への望みは厭世的な気持からではなく、
 神と人への強い愛から生まれたものであった。

・世に隠れ、人々に忘れられて生きることを大きな恵みと
 みなさなければならない。かといって、決して怠惰に流れ、
 無為に過ごすことなく、イエスが聖母マリアの胎内におられた時
 のように、始終、全世界の人々のために、自分を犠牲にして
 捧げなければならない。

・人々の救いを熱望する心を燃え立たせましょう。けれども、
 たった十人足らずの人々ではなく、何億何千万人もの人々を
 念頭に置きましょう。聖心侍女の心は、ある限られた特定の
 人々のためだけでなく、全世界に開かれていなければなり
 ません。すべての人間はイエスのみ心に愛された子らであって、
 イエスの御血はすべての人のために流されたのです。

★神の子らの道

・ラファエラは、神に創造されたものとして人間はどのように
 生きるべきかを、いつも透明な心で、曖昧にではなく、実に
 はっきりと語っていた。

・被造物―地上にあるものはことごとく神のものである。
 人間がそれを神の栄光のために用いないならば、神のものを盗み、
 乱用することになる。あたかも、それらを自分のものと考えて
 しまうのと同じようだ。

・神のみ旨に最も適う業は、神だけを証人として行う業である。

・現世は何とはかないものであろう。善人も悪人も、
 すべて過ぎ去ってしまう。
 ただ一つのこと、つまり、イエスのためにした善とイエスのために
 苦しんだことだけが永遠に残る。それは消すことのできない
 神の摂理の本に書き留められるからである。

・聖人が少ない理由は、私たちが、他人の才能や徳に支えられて
 はじめて徳を積むことができると思うからであって、もし、
 神の力を頼りにし、その導きに強力して聖なる生活を送るなら、
 私たちは聖人になり、神が私たちをお選びになった使命を
 全うすることができる。

ラファエラ・マリアの内的生活は、24 歳で生涯を閉じたリジュの
聖テレジア、そして、この若い聖人を師と仰いだマザー・テレサの
霊性と驚くほどよく似ている。外面に現れた姿はそれぞれ全く
ことなるのだが。マザー・テレサはキリスト教徒だけでなく、
世界のどの宗教の人々にもまた無宗教の人々にも親しまれた
現代の聖人である。

最後に彼女のことばを紹介してこの「小伝」を閉じよう。

「すべての些細なことを、愛による行為として活用しよう」。
マザー・テレサはシスターたちにこのことを説明した。
「神は非常に偉大で、わたくしたちはとても小さいので、
善良な神に対して小さいというものは、全くありません。
だからこそ神は、わたくしたちの神に対する愛を証する
チャンスを与えるため、身を低くされて、小さなことを創る
手間をとってくださるのです。

神が小さいチャンスを創ってくださるのですから、それらは偉大です。
神が創られるものに小さなものはなく、それらは無限です。
そうです、わたくしの愛する娘たちよ、愛の小さな行い、
小さな犠牲会則に対する小さな忠実、小さな内的克己などへの
誠実さが、あなたがたの内に聖性の命を育み、キリストに似た者と
するでしょう。」

(1960 年11 月初金曜日、マザーテレサから、神の愛の宣教者会シスターたちへ)

「大きなことを求めないでください。大きな愛をもってほんの
 小さなことをしなさい。小さければ小さいほど、わたくしたちの
 愛はもっと大きくなければなりません」
 (1981 年10 月30 日、マザーテレサから、神の愛の宣教者会
 シスターたちへ の講話)


(ローマのヴェインテ・セッテンブレ修道院聖堂に安置されている聖ラファエラ)

「ラファエラは見かけ以上に温かい愛情の持ち主であり、このことは
家族やその他、精神的にしろ、肉体的にしろ、何か悩みのある者たちを
交わるときに、特にはっきりと認められました。

 私に手紙をよこすときには、そのようなことについてしか話しません。
ラファエラは外面より内面が豊かですから、もっと私より優れています。
私は外に表しますけれど、決して心にないことを言っているのでは
ありません。とにかく、ラファエラが私よりも優れているのは自制
することを知っている点で、それによってあのように周囲によい
影響を与えているのです。…… 修道生活において、特にラファエラが
神さまの御前でよい性格を作り上げてゆき、私も劣らずに
そうしていることをお聞きになれば喜んでいただけるでしょう…… 」

謙遜な神のはしためであったラファエラの名声は、この世での隠れた
生涯を終えると驚くべき速さで世界の果てにまで伝わり、教会事務の
複雑な車輪を激しく揺り動かした。ラファエラに祈ることによって、
恵みが与えられたという便りがローマに次々に届いた。死後11 年目の
1936 年に列福調査が開始され、1949 年、ラファエラの英雄的徳が
カトリック教会から宣言された。神はラファエラの取次を求める
人々の願いに応えて、多くの癒しの奇跡も行われた。

1952 年5 月18 日、ラファエラは福者と宣言され、さらに
1977 年1 月23 日、教皇パウロ6 世によって聖人として認められ、
称揚された。

ラファエラ・マリアは非常に謙遜で、優しく、柔和で、物静かで、
溢れるばかりの精神的豊かさと、すばらしい感化力の持ち主です。
…… 彼女の声が聞こえてくるようです。私たちが一人ひとり自分に
適した方法で、聖性の道を歩むようにと招く声です。……

さあ、いらっしゃい”と優しく説得力のある声で、彼女は
呼びかけているかのようです。“いらっしゃい、試してごらんなさい。
聖人たちの道を辿ってみましょう。それはまず、祈りの道です。
聖体のうちに姿を隠して現存しておられるイエスに対して、
我を忘れるほどの状態で沈黙のうちに礼拝に専心するのです…… 

”イエスご自身が言われたように、イエス・キリストは小さい者に
ご自分を現されます。すなわち、謙遜な人、単純な人、心の清い人、
汚れのない人、善良な人、信仰・希望・愛のうちに生きるご自分の
弟子たちにです…… その時、イエスの声が聞こえます。行って、
助けを必要としている兄弟姉妹に仕えなさい。特に、教育、援助、
愛を必要としている人々のところへ」

                 
                 (聖心侍女修道会日本管区)

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第1部 信経

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ー以上―




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