また当初の目的を忘れかえって萌えてました。
そもそも『老翁聞書』でどこらへんが見たかったのかと言えば、秀吉から田村三春を小十郎が受け取ったのか断ったのかというあたりの話だったんです。それがもう、「挙止閑冶」で舞い上がって……まったくもう。
気を取り直して天正十八年、太閤秀吉と宇都宮でデートのまーくん。かなり苦虫。その時小十郎は。
「(前略)米沢御立 宇都宮まで御迎えに御出なされ候時、景綱公御供也。御圍に於いて太閤様御手前にて御茶下され、景綱公(三十四歳)御一人御相伴仰せ付けられ候。一段の御首尾にて、田村の地五万石、小十郎に御下し置き候旨仰せ渡さる。太閤様御前へも度々御出、諸事言上等直々に仰せ上げられ武功の者に候由、御仰出、右の地下し置かれ候」
勝手に送り仮名入れたりしてますので、間違ってる可能性も大です。ご了承ください。
どうでもいいんですが、「景綱公(三十四歳)」は原文のままです。これは東京都が画策している条例にひっかからないよう、この小十郎は十四歳以下ではないですよ、との注意書きを……違いますね、そうですね。続きいきましょう。
「其頃景綱公大森へ成られ御座候。彼の地より三春へ御所地入。
天正十九年の頃、御与力衆御手数人数三千騎美々しき御事。仙道七郡の御歴々御見舞御使者、海道よけかね候程の大勢、言語に尽くし難し。
鳥魚酒 方々より参り、酒は大半切に移し置き、数々並べ置き之有るを、御供衆水に取り違え手足を洗い申す程の事也。役人呵(叱り)申し候を御聞き成られ、必ず叱り申すまじく候。すべて御進物に参候魚鳥酒共に帳面致し御目に懸くべく候。皆々心次第に給させならるべき由にて、夜の明くまで御酒興無申し付け候也」
やはりいったん受け取って治めに入ってるんですね。そして各地からすっごいお祝い。そこらじゅうにお酒置いてあるもんだから水と間違えて足洗っちゃったって。つまり濁り酒じゃなくて清酒? 豪華!
そして、きちんと受け取り記録つけた後には皆にパーッと振る舞っちゃったってことですか? 豪気!
「彼の地に一両年御座成られ候ところに、政宗公方へ、忠義薄く罷り成り候間、御朱印指し上げ申したき旨仰せ上げられ御返上。政宗公にて彼の地御拝領なされ候。慶長五年、権現様より政宗公御拝領の御判物に、田村は八万七千六百八十二石八斗七升と有るの由也」
出ました!「忠義薄く罷り成り候間」! よっ!政宗バカ!(ホメ言葉)
一両年とありますが、まあ天正十八年の夏から天正十九年の正月をはさんでのちょっとの期間ではないでしょうか。天正十九年にはご存じ鶺鴒の花押に針穴の目でもって、田村を含む仙道五郡は政宗から取り上げられていますから、その前に小十郎から政宗に移っていたのでしょう。もしも、その時にまだ小十郎が田村を治めていたら、秀吉の処遇はどうなっていたんでしょうかね?
ここらへん整理してみると、まず秀吉の申し出を全否定することは難しかった。でも、秀吉の主要意図である、小十郎直臣化はガッツリ断った。そして田村領だけはニッコリ受け取ってきた、と。やるな、策士めが。秀吉としても「直臣になってくれないんだったら田村もあげないー」なんてカッコ悪いことはできなかったんでしょうね。
「一緒にホテルには行かないけど、エルメスのバッグは嬉しいわ、ありがとう。」
「えっ、ホテル行かないんだったらバッグ返せよ。」
うん、言えないよね。 ……いや、その比喩はどうよ。
あ、「道中活火縄勝手」の特例ももらってるから、ティファニーのリングも一緒にもらっちゃってる感じかしらん。(違)
そして、天正十四年の田村清顕死去からこっち、ドタバタした挙句に田村家廃絶という最悪のシナリオになってしまった土地を集中管理。これは結構難しかったんじゃないかと想像するんですが、実は白石城主片倉家の家臣には、この田村から小十郎を慕ってついてきたという人たちが見られます。おそらくほんの短い間の統治。その間に小十郎は、もしかしたら伊達家イメージアップキャンペーン的統治を遂行したんじゃないかしら。もちろん、長い目で見て政宗様のために。
なーんて、穿った見方を仮定としてメモし、今後の萌え…違った、研究課題のひとつといたしましょう。
そもそも『老翁聞書』でどこらへんが見たかったのかと言えば、秀吉から田村三春を小十郎が受け取ったのか断ったのかというあたりの話だったんです。それがもう、「挙止閑冶」で舞い上がって……まったくもう。
気を取り直して天正十八年、太閤秀吉と宇都宮でデートのまーくん。かなり苦虫。その時小十郎は。
「(前略)米沢御立 宇都宮まで御迎えに御出なされ候時、景綱公御供也。御圍に於いて太閤様御手前にて御茶下され、景綱公(三十四歳)御一人御相伴仰せ付けられ候。一段の御首尾にて、田村の地五万石、小十郎に御下し置き候旨仰せ渡さる。太閤様御前へも度々御出、諸事言上等直々に仰せ上げられ武功の者に候由、御仰出、右の地下し置かれ候」
勝手に送り仮名入れたりしてますので、間違ってる可能性も大です。ご了承ください。
どうでもいいんですが、「景綱公(三十四歳)」は原文のままです。これは東京都が画策している条例にひっかからないよう、この小十郎は十四歳以下ではないですよ、との注意書きを……違いますね、そうですね。続きいきましょう。
「其頃景綱公大森へ成られ御座候。彼の地より三春へ御所地入。
天正十九年の頃、御与力衆御手数人数三千騎美々しき御事。仙道七郡の御歴々御見舞御使者、海道よけかね候程の大勢、言語に尽くし難し。
鳥魚酒 方々より参り、酒は大半切に移し置き、数々並べ置き之有るを、御供衆水に取り違え手足を洗い申す程の事也。役人呵(叱り)申し候を御聞き成られ、必ず叱り申すまじく候。すべて御進物に参候魚鳥酒共に帳面致し御目に懸くべく候。皆々心次第に給させならるべき由にて、夜の明くまで御酒興無申し付け候也」
やはりいったん受け取って治めに入ってるんですね。そして各地からすっごいお祝い。そこらじゅうにお酒置いてあるもんだから水と間違えて足洗っちゃったって。つまり濁り酒じゃなくて清酒? 豪華!
そして、きちんと受け取り記録つけた後には皆にパーッと振る舞っちゃったってことですか? 豪気!
「彼の地に一両年御座成られ候ところに、政宗公方へ、忠義薄く罷り成り候間、御朱印指し上げ申したき旨仰せ上げられ御返上。政宗公にて彼の地御拝領なされ候。慶長五年、権現様より政宗公御拝領の御判物に、田村は八万七千六百八十二石八斗七升と有るの由也」
出ました!「忠義薄く罷り成り候間」! よっ!政宗バカ!(ホメ言葉)
一両年とありますが、まあ天正十八年の夏から天正十九年の正月をはさんでのちょっとの期間ではないでしょうか。天正十九年にはご存じ鶺鴒の花押に針穴の目でもって、田村を含む仙道五郡は政宗から取り上げられていますから、その前に小十郎から政宗に移っていたのでしょう。もしも、その時にまだ小十郎が田村を治めていたら、秀吉の処遇はどうなっていたんでしょうかね?
ここらへん整理してみると、まず秀吉の申し出を全否定することは難しかった。でも、秀吉の主要意図である、小十郎直臣化はガッツリ断った。そして田村領だけはニッコリ受け取ってきた、と。やるな、策士めが。秀吉としても「直臣になってくれないんだったら田村もあげないー」なんてカッコ悪いことはできなかったんでしょうね。
「一緒にホテルには行かないけど、エルメスのバッグは嬉しいわ、ありがとう。」
「えっ、ホテル行かないんだったらバッグ返せよ。」
うん、言えないよね。 ……いや、その比喩はどうよ。
あ、「道中活火縄勝手」の特例ももらってるから、ティファニーのリングも一緒にもらっちゃってる感じかしらん。(違)
そして、天正十四年の田村清顕死去からこっち、ドタバタした挙句に田村家廃絶という最悪のシナリオになってしまった土地を集中管理。これは結構難しかったんじゃないかと想像するんですが、実は白石城主片倉家の家臣には、この田村から小十郎を慕ってついてきたという人たちが見られます。おそらくほんの短い間の統治。その間に小十郎は、もしかしたら伊達家イメージアップキャンペーン的統治を遂行したんじゃないかしら。もちろん、長い目で見て政宗様のために。
なーんて、穿った見方を仮定としてメモし、今後の萌え…違った、研究課題のひとつといたしましょう。