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きもちばかりで

片倉小十郎景綱に興味津々

そもそも何のために『老翁聞書』を

2010-05-04 21:11:12 | 片倉小十郎を知りたい
また当初の目的を忘れかえって萌えてました。

そもそも『老翁聞書』でどこらへんが見たかったのかと言えば、秀吉から田村三春を小十郎が受け取ったのか断ったのかというあたりの話だったんです。それがもう、「挙止閑冶」で舞い上がって……まったくもう。

気を取り直して天正十八年、太閤秀吉と宇都宮でデートのまーくん。かなり苦虫。その時小十郎は。

「(前略)米沢御立 宇都宮まで御迎えに御出なされ候時、景綱公御供也。御圍に於いて太閤様御手前にて御茶下され、景綱公(三十四歳)御一人御相伴仰せ付けられ候。一段の御首尾にて、田村の地五万石、小十郎に御下し置き候旨仰せ渡さる。太閤様御前へも度々御出、諸事言上等直々に仰せ上げられ武功の者に候由、御仰出、右の地下し置かれ候」

勝手に送り仮名入れたりしてますので、間違ってる可能性も大です。ご了承ください。
どうでもいいんですが、「景綱公(三十四歳)」は原文のままです。これは東京都が画策している条例にひっかからないよう、この小十郎は十四歳以下ではないですよ、との注意書きを……違いますね、そうですね。続きいきましょう。

「其頃景綱公大森へ成られ御座候。彼の地より三春へ御所地入。
天正十九年の頃、御与力衆御手数人数三千騎美々しき御事。仙道七郡の御歴々御見舞御使者、海道よけかね候程の大勢、言語に尽くし難し。
鳥魚酒 方々より参り、酒は大半切に移し置き、数々並べ置き之有るを、御供衆水に取り違え手足を洗い申す程の事也。役人呵(叱り)申し候を御聞き成られ、必ず叱り申すまじく候。すべて御進物に参候魚鳥酒共に帳面致し御目に懸くべく候。皆々心次第に給させならるべき由にて、夜の明くまで御酒興無申し付け候也」


やはりいったん受け取って治めに入ってるんですね。そして各地からすっごいお祝い。そこらじゅうにお酒置いてあるもんだから水と間違えて足洗っちゃったって。つまり濁り酒じゃなくて清酒? 豪華!
そして、きちんと受け取り記録つけた後には皆にパーッと振る舞っちゃったってことですか? 豪気!

「彼の地に一両年御座成られ候ところに、政宗公方へ、忠義薄く罷り成り候間、御朱印指し上げ申したき旨仰せ上げられ御返上。政宗公にて彼の地御拝領なされ候。慶長五年、権現様より政宗公御拝領の御判物に、田村は八万七千六百八十二石八斗七升と有るの由也」

出ました!「忠義薄く罷り成り候間」! よっ!政宗バカ!(ホメ言葉)

一両年とありますが、まあ天正十八年の夏から天正十九年の正月をはさんでのちょっとの期間ではないでしょうか。天正十九年にはご存じ鶺鴒の花押に針穴の目でもって、田村を含む仙道五郡は政宗から取り上げられていますから、その前に小十郎から政宗に移っていたのでしょう。もしも、その時にまだ小十郎が田村を治めていたら、秀吉の処遇はどうなっていたんでしょうかね?

ここらへん整理してみると、まず秀吉の申し出を全否定することは難しかった。でも、秀吉の主要意図である、小十郎直臣化はガッツリ断った。そして田村領だけはニッコリ受け取ってきた、と。やるな、策士めが。秀吉としても「直臣になってくれないんだったら田村もあげないー」なんてカッコ悪いことはできなかったんでしょうね。
「一緒にホテルには行かないけど、エルメスのバッグは嬉しいわ、ありがとう。」
「えっ、ホテル行かないんだったらバッグ返せよ。」
うん、言えないよね。 ……いや、その比喩はどうよ。
あ、「道中活火縄勝手」の特例ももらってるから、ティファニーのリングも一緒にもらっちゃってる感じかしらん。(違)

そして、天正十四年の田村清顕死去からこっち、ドタバタした挙句に田村家廃絶という最悪のシナリオになってしまった土地を集中管理。これは結構難しかったんじゃないかと想像するんですが、実は白石城主片倉家の家臣には、この田村から小十郎を慕ってついてきたという人たちが見られます。おそらくほんの短い間の統治。その間に小十郎は、もしかしたら伊達家イメージアップキャンペーン的統治を遂行したんじゃないかしら。もちろん、長い目で見て政宗様のために。

なーんて、穿った見方を仮定としてメモし、今後の萌え…違った、研究課題のひとつといたしましょう。

一晩寝ても続く妄想

2010-05-04 13:13:13 | 片倉小十郎を知りたい
むしろ夢の中でも続いていたのかもしれない妄想。昨日UPした内容から派生。

1.一生手疵を負わざる人 から 戦国BASARAへ妄想飛躍

史実小十郎が戦場で「一生手疵を負わざる人」であったとしても、「身体には傷一つない」というのは間違いでした。
例の、政宗の癪の手当てをした時に自分でつけた腿の火傷がありましたね。

ここで妄想飛躍。(ちゃらららっちゃちゃ~ん)

BASARA小十郎の頬の傷はそれを表しているってのはどうでしょう! 政宗様のためなら我が身の一つや二つ、という政宗バカっぷりの象徴とも言えるのではないでしょうか。
(小十郎を「政宗バカ」と呼ぶことについては冒涜だと思わないあたり。「親バカ」って言葉が一概に悪口とは言えない微笑ましさを内包しているのと同様の感覚です。えーっと、「傅役バカ」?)

まさか常時内股をさらしてる衣装にするわけにはいきませんからね。表現するためには顔に移動して、と。
……一瞬、短パン生足のBASARA小十郎コスチュームを想像してしまった。(でも脛当て付き)
このように、妄想が飛躍しすぎて自滅するのはよくあることです。


2.「御能有之」 と 八幡宮神職の二男 の合わせ技で妄想飛躍

伊達家当主が観覧する能公演に、10代半ばの小倅が出演って子役とか?と疑問を呈している頭の空洞に、安久津八幡宮例祭の神事、舞楽・稚児舞の歴史がピッタリフィット。混ぜるな危険。

現在、無形文化財指定の素晴らしい歴史。舞師は大地家代々の大地権太夫が務めます。平安時代の終わりから続いてるそうですよ!(ブログ 山形旅行-観光、温泉、名所、宿泊より)
稚児舞は、現在は3人ですが元は5人舞で、15歳までの稚児が舞います。
まず、大人の舞師が振鉾式を舞って四方固めを行い、それから稚児舞が五番(拝舞、眺望楽、三代楽(三躰舞)、太平楽、蛇取舞)、最後にまた舞師が山姥(姥舞)で完成させます。
拝見したことはありませんが、構成を見ただけでも流石の神事。大地の霊との交流と鎮魂を求めた呪術色が感じられます。エネルギーの強い人がきちんと舞ったら物凄い清めの儀式だろうなぁ…

で、そんな神事の記録を見て妄想飛躍(ちゃらららっちゃちゃ~ん)。罰当たりにも程がありますが強引に進めます。

たとえば景重パパが安久津八幡宮神職だったとして。14歳くらいで藤田さんちから帰ってきた挙止閑冶な二男あり。「舞曲を好み、句象を舞の志あり」と来たもんだ。権太夫さんの下で稚児舞キャストに入ってても不思議はないんじゃないかと!
東の八幡の例祭神事です。信仰厚い伊達家当主が観に来ない筈は無い。むしろメインゲストでしょう。
後には政宗の武術指南役も勤める、潜在エネルギーの強そうな年長さん組の稚児舞は、そりゃあ挙止閑冶であったに違いありません。太平楽では年上・次年の稚児2人による刀合わせというシーンもあり。

あああ、もう頭の中で「絶対小十郎が舞ったよ!」という妄想ができあがっております。(本気にしないでください本気にしないでください。ただの妄想です!)

成島八幡宮の神事についてはまだ何も読んでいませんが、舞楽の奉納はあったでしょう。同じように稚児舞があれば舞台を移してもイケるぜベイベー。
逆に成島八幡には稚児舞がなかったなら、景重パパの勤め先が安久津八幡で上記設定って脚本が自然な気がするんですがどうでしょうプロデューサー。(誰?)

ティーンエイジャーの片倉家次男坊が出演して伊達家当主が観覧する能舞台、というだけでここまで突っ走りました。小人閑居して不善をなす平和なGWです。

逃避行動に萌え読書

2010-05-03 22:42:42 | 片倉小十郎を知りたい
懸田さん黒木さん藤田さんの系図を書き出そうとして頭が混乱の極致に達したので逃避行動。

国会図書館サイトの近代デジタルライブラリーに行ったら、4日~6日はメンテナンスのため使えませんとのことなので、なんとなく慌てて『老翁聞書』をダウンロード。慌てる必要は何もないんですけどね。

『老翁聞書』
大正6年 白石志道会 発行
大正4年に片倉景綱公頌徳碑が建立され、その記念に開催された景綱公の記念物展覧会(うわー、それ行きたかったわー)のために集められた資料の中に、朝倉秀雄氏所蔵の写本2冊があり、それを活字にして出版したのがこの大正6年版の本だそうな。内容は、藩祖以下三代に亘る藩公事跡随筆録。

オリジナルがいつの時代に書かれたものなのかまでは知らないんですが、『片倉代々記』も読んだことがある人が書いたのかな。かといって似たり寄ったりな物ではなく、上方の動向なんかも織り交ぜた箇条書きで視点がマクロになったりミクロになったり。でもそのミクロの焦点は片倉氏ですから私にとってはむしろ萌え文書(コラ)。

しょっぱなから、景綱のプロフィールに美辞麗句です! 褒めて~もっと褒めて~! と同時に……口に出すのも憚られますが……腐女子的に萌え。

「稟賦聡明也 挙止閑治 舞曲を好み、句象を舞の志あり」
稟賦聡明也は、生まれもって聡明、ってことでしょう。次の挙止閑治がわからず辞書を引いたんですが、おそらく挙止閑冶のことかと。
 挙止=立ち居ふるまい
 閑冶=女が、物静かで美しい
 冶=2.女のなまめかしいさま。
どんだけ美しかったんだ小十郎~~!!!
はぁはぁ、これ以上の妄想は、東京都が画策している条例に抵触しそうなので自粛します。(ところで件の条例が施行されると、源氏物語も発禁本になるって本当ですか)

そんな、舞も好きで上手で笛もプロ級な美少年(私の中で確定)の、輝宗様とのなれそめはといえば。
「御能有之。役に連なって出、輝宗公御覧なされ其姓名を問給ふ是仕君の初めなり」
YOU、スカウトしちゃいなYO!

……不適切な発言がありましたことをお詫びいたします(棒読み)
いやね、イケナイことだとはわかってますよ、所謂、その、腐女子的妄想をね、アナタ、歴史に名を残した立派な方にね、でもこれらの記述を深読みして萌えないようでは、むしろ腐女子としての女が廃るってゆーかね。

真面目な話としては、才色兼備の少年たちを小姓として召し抱えるのは戦国大名のステータス。他家の例を見ると、中身に問題が無きにしも非ずなクソガキ…もとい子供も散見されるので、どちらかというと容姿優先なところもあったんじゃないかと。
そんな中で、Human Resourceのスペシャリスト・輝宗様の見る目には恐ろしいものがありますな。
「へー、キミ連歌好きなの? オレも好きなんだよね。気が合うな!」と言いながら遠藤基信ゲット。(誇張含む)
「舞姿キレイだねー、笛も上手なんだって? 吹いて吹いて!」と言いながら片倉景綱ゲット。(妄想含む)
こう書くとナンパとしか思えませんが、その実、超有能な側近2代を譜代以外から新規雇用です。これはもう、輝宗様の手腕に萌えざるを得ないでしょう!(萌えんでもよろしい)

『老翁聞書』の史料的信憑性はと言えば、景綱他界のあたりに「度々の戦場に臨み、一生手疵を負わざる人は、源九郎判官義経公、武田信玄之御内・馬場美濃、片倉小十郎景綱公の三人となり。」とか書いてあって、歴史素人の私に「忠勝は?」とツッコミを入れられるような感じなので推して知るべしですが、萌えはプライスレス。とりあえず、私の中に「片倉小十郎景綱美少年説」を確立させてくれた恩人と呼ばせていただきましょう。あ、そんなお顔なさらず、気にせず成仏してくだされ、著者の人。

それでも寄り道は続く

2010-05-01 15:26:37 | 片倉小十郎を知りたい
思えば件の歌の歌い出しだって、How many roads must a man walk down before they call him a man? とかいうんじゃなかったっけ。これはきっとたくさん寄り道していいってことなんだよ、うん。

このように、自分に都合の良い受け取り方を重ねる史料の読み方はよろしくありません。
よろしくないということは、≒楽しい!ということですね。

というワケで、徘徊を続けることとしましてその徘徊途中の景色。

 藤田某さんと藤田四郎さんは違う人物なのではないだろうか。

あれっ?! 片倉家の系図と関係ないぞっ?! どっからどうしてここに来たんだ???

「初心忘るべからず」とは

2010-05-01 13:56:03 | 片倉小十郎を知りたい
「学び始めた当時の未熟さや経験を忘れてはならない。常に志した時の意気込みと謙虚さをもって事に当らねばならないの意」広辞苑にありました。

どっちかというと、「最初何を目的にこれ調べてたんだっけ?」という意味で初心を忘れかえっております今日この頃。

家臣録系資料のコピーから、片倉家関連を家系図に起こす作業がマイブームです。本家筋の方々(意休斎おじさまの流れ)の諱が2つとかあるのは何故なんだろうな~と思って、各種資料を同じ形のツリーに起こして比べてみたら何かわかるかも…と始めたんですがこれがなかなか難しい。いや、難しいというより、めんどくさい、というのが正確か(笑)
まだ2冊めです。我がいとしの『白石城主片倉氏と家臣の系譜』と、『私本仙台藩士事典』。これを、『伊達世臣家譜』から起こしたという『長井市史』にあった系譜と見比べています。さーて次は『仙台藩家臣録』だー! いやちょっとその前に『私本仙台藩士事典』から藤田さんの記録も……

なんてことをやっている途中ではたと気付いたんですが、もともと私『片倉代々記』の筆文字を読めるようになろうと思ってたんじゃなかったっけ???

人はどこから来て、どこに向かっているのだろう。The answer, my friend, is blowing in the wind. The answer is blowing in the wind...
などとスカして歌ってみても、心に去来するものは「…老人ボケ?」の一言でございました。