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きもちばかりで

片倉小十郎景綱に興味津々

幕末の景綱ファンクラブ

2013-10-19 23:20:00 | 片倉小十郎を知りたい
なんていうタイトルにすると、伊達家へ失礼にあたるでしょうか。
小十郎の直筆を譲ってもらったーやったーうれしー!な歌をつけて普請役申付状(傑山寺所蔵)をコレクションしていらした、幕末の伊達家当主・慶邦公が、他にも小十郎についてのコメントを残していてくれました。ファンクラブですか? ファンクラブ会員No.1ですか慶邦公?! 私も是非入会させてください!

『樂山公御随筆』 より。(『仙台叢書 18巻』収録。『やくたい草』もこの巻にあります。)

「片倉景綱は武勇尤差勝れ、世に名高き人なれど、戦国に生れし人なれば、学問の事などはうとうと敷もありぬべしと思はるに、宗景(景綱の子孫)と話の序に、景綱戦場にて論語と荘子の解を書きしものある由申に付、借受侍るに、平かなにて書きしものなり、尤皆々はなく、折々はかり書記しけるなり、右本写取り置侍りぬ、流石戦場にてかかる心得は格別、夫れ故高名の者とこさくなから存侍る。」

ひ、ら、か、な…?

ラストの「こさくなから」の日本語がわからないのですが、全体的には「やっぱ景綱さんパねぇ」とおっしゃってるんでいいんですよね?

以前仙台市博物館で、小十郎が持ち歩いていたという『深薨抄』という書物が展示されていました。説明文には「孔子の言葉や、弟子との問答などについてまとめた『論語』の細かな注釈書」とありましたが、それとはまた別なんでしょうか。中身が気になります。ひらがな?ひらがななの?

小十郎と平仮名というのは、何かキーワード的なものを感じますね。 先日発見された急いで書いた書状もひらがな、政宗から小十郎宛の書状にもひらがなが多い。直筆があるのかどうかはわかりませんが、漢文のお仕事文書の写しはたくさんありますから、別にひらがなしか書けないわけじゃない。ささーっと書く自分メモはひらがなのほうが楽だったのでしょうかね。それにしてもフリーダム。

政宗から小十郎への手紙がひらがな多用なのは、親しみの表れというか身内への甘えというかといったものを感じますが、考えてみれば小十郎から政宗への手紙は……あらやだ、見たことないかも私。不覚っ! でも、ひらがなってことないですよね?流石に主君宛にひらがなの手紙出せませんよね?

針生氏は葦名氏

2013-05-29 18:18:18 | 片倉小十郎を知りたい
例によって、田村氏を調べてみたり大内氏を調べてみたり、あっちゃこっちゃしているうちに混乱してしまいますが、私は片倉小十郎景綱について調べているのでありましたことよ。

てなワケで、田村氏を調べていたところ(おいおい)、伊達家中に「葦名」さんというおうちがある。これってあの葦名氏?いやいやそんなことないよね。でも理由なく同じ苗字名乗るかな?と見てみたら:
「葦名、姓は平。始め針生を称する。会津前主葦名家の庶流」
正にあの葦名氏。そして「ん?針生?」

私が「針生」でひっかかると言えば勿論片倉小十郎重長の奥様・指月院。針生小太郎盛直の娘さんです。片倉家臣団リストでも伊達家臣団リストでも索引に「針生」が無くて、家中じゃないのかな、途中で断絶しちゃったのかな、まさかここも最上関連だったりして…とか思いつつpendingになっておりました。
そして今、葦名氏系図で目に入る「片倉小十郎重長夫人」の文字。うっきゃあー!指月院さま、葦名(傍系)のお姫さまだったんじゃん!

これは大発見!と大喜びして、さっきWikipedia見たらちゃんと載ってました、葦名氏と針生氏の関係。アッハッハ。
とにもかくにも、備忘にここに書きとめておきます(汗)

指月院の五代前の葦名盛滋、嗣子のないまま隠居となり、弟の盛舜が家督。ところが隠居したらば盛滋に男の子が生まれる。これが盛幸。
葦名宗家は盛舜に譲ったまま、盛幸は針生に別に家を立て、針生盛幸を名乗り葦名家の外交などを担当する家となる。(外交担当同志の縁で、片倉家との縁組になったのかなー?なんて想像するところ。)
盛幸-盛秋-盛信ときて、摺上原で葦名義広が伊達政宗に敗れ、関ヶ原では西軍につき、で浪人の後、慶長七年(1602) 政宗の下、準一家に列せられる。(ここらへん、小十郎から政宗にお・願・い・してたら萌えるにゃあ←腐女子のたわごと)
承応二年(1653)、葦名宗家をわずか1歳で継いだ千鶴丸が3歳のとき、縁側から沓脱石の上に落ちて亡くなるという不幸な事故が起こり、葦名家は断絶する。
延宝四年(1676)、針生氏は盛信-盛直-重信ときて、指月院の甥っ子盛定の代。伊達家は綱村、盛定に葦名宗家の名跡を称するよう命じる。

とまあ、こんな感じ?で針生氏は葦名氏より出でて葦名氏に還ったんですね。
いかんわー、正直そんな大物だとは思ってませんでした、針生氏。ごめんなさい!

もひとつ加えれば、指月院さまの妹さん(針生重信のチイ姉様)、茂庭周防実元夫人なんですね。ご縁でつながってるわー。

土浦市立博物館 第34回特別展

2013-04-14 01:00:00 | 片倉小十郎を知りたい
戦国BASARAとコラボした、その名も『土浦市立博物館開館25周年記念 婆裟羅たちの武装 -戦国を駆け抜けた武将達の甲冑と刀剣-』

長っ! 改めて書いてみたら長っ!

先着1万名様プレゼントの公式ガイドブックには間に合いませんでしたが、やっと行って参りました。
博物館の予想を超えた人数のお客様がみえたそうで、図録も売り切れ増刷中。お言葉に甘えて通販を申し込んでから入場したのですが、図録が手元にないと展示品の説明文が掲載されているかどうかわからないのでメモをとる量が多くなって大変。そんな私を哀れんでくれたのか、神様降臨! 印刷所の納入という神様が! そしてそれをわざわざ教えてくれる博物館の場内係員さん!感涙です。

なにしろ、ゲームのキャラになるくらいのビッグネーム武将の関連グッズでございます。本やTVで見たことある甲冑がずらり。刀のことはよくわかりませんが、どれも迫力の美しさでした。(どのくらいわからないかというと、「変わった形の刀だなー」としげしげと見ていた品が、あとで図録をよく読んだら「長巻の磨あげ」だったというくらいorz)

やはり当世具足が多めですが、中にはすっごく保存状態の良い室町期の大鎧などもありまして、「ほほー」とか「ふわー」とか唸りっぱなしでした。

中でも圧巻は徳川家康所用 『金小札緋威具足』の豪華さ。これ着て戦陣にいたのか家康、歩く美術工芸品だね家康。
もう舐めるように見てましたら、臑当に不思議な生き物。顔は竜みたいなんですが身体が魚、バックは水。なんだこれ?と思いながら見上げると籠手には細めの竜、バックは雲。おおっ!と兜を見れば前立てには宝珠を持った立派な竜。なるほど全身これ昇り竜。
(注1)

そんな風にひとつひとつじっくりゆっくり見られる程度の混み具合もいい感じの展覧会。
しかし一番のお目当てはもちろん片倉小十郎関連グッズです。残念ながら小十郎本人の具足ではありませんが、面白いものが見られました。

「雪下胴」 ホントに胴部分だけ。草摺もみんな取れちゃっててボックス状態。おかげで構造がよくわかる。内側には「雪下政家作 天正十三年八月吉日」と作者名が彫ってある上に、「片倉小十郎内 □室惣左衛門」と持主の名前が朱で書かれているのが残っています。My バイブルによれば、二番座五にいらっしゃいます、小室惣左衛門さん。おそらく伊達家または片倉家からこの方に下賜されたものでしょう。

天正十三年八月 雪下政家により作成される。
慶長五年七月  惣左衛門、白石城攻めで片倉配下に。
慶長十九年十月 重綱の大坂の陣出陣に参加。

もちろん、惣左衛門の手に渡った日付が書いてあるわけではないのですが、なんとなく慶長年間な気がしませんか? しますよね? しましょうよ! だってそれなら景綱からもらったことになるもん!(結局それか)

……実は、迷ったんですが、勇気を出して質問しました。お忙しい学芸員さんをとっつかまえて。

やはりどの小十郎だかはわからないそうです。ただ、雪下胴は政宗をはじめ伊達家の上級武士の愛用品であり、上の者が作って下賜したのだろうことは想像に難くないでしょう。

(注1)の家康の具足についてもお話うかがったのですが、私が感銘を受けていた部分はおそらく後世の修復だろうとのことでした。がっちょーん。
水戸の徳川=竜デザイン大好き=斉昭つぁんが命じて修復させたそうで、実はオリジナル部分がどこなのかは詳しく調査しないとわからないって。まあ確かに戦場で、歩く美術品ルックの家康ってイメージに違和感ありますよね。
ちなみに、今回の展示のためにこの具足を選んで(徳川ミュージアムに)貸し出しをお願いした理由は 「BASARAの家康が金色だから」。
ありがとうBASARA家康! 眼福だったよ!

もっといろいろ書きたいんですが、長くなるのであとひとつだけ。

幸村の具足の草摺と袖、最下段にある透かし彫りがハートマークになってて和みました。

予定した訂正と予期せぬ訂正

2013-04-13 19:50:00 | 片倉小十郎を知りたい
粘着質に追いかけている「小十郎が番代を務めた藤田家」ですが、以前の記事で言っていた大物の藤田家じゃないんだろうな、という方向に落ち着きかけております。

藤田の地に全く関係ないわけじゃないけど(なにしろ元伊達郡藤田城主)、黒木さんちの藤田四郎宗和よりは、後に片倉家中となった藤田道休さんちというほうがすんなりくる。
ただ、この藤田道休さんの正体がよくわからないので(なにしろ元伊達郡藤田城主。2回言った。)、まだまだ粘着を要するんですが。

そんなこんなで、過去記事は過去記事で、自分の通ってきた道として残しておいて、注釈の追記だけしておこうかなーっと。
そもそもどこに書いたっけーっと。

自分の書いたものを読み直していたらば。

「逸山様(=重綱)」とか書いてあることを発見!!!

謹んで訂正いたします。 「逸山様(=三代景長)」です。

初代 景綱 → 傑山
二代 重綱 → 一法
三代 景長 → 逸山(初め忠山)

ああ、知識が身についてないからこういうことに…
こんなのいっぱいあるんだろうなあ。私のことだからなあ。

元の記事は、しれっと訂正しておきました。ええ、しれっと。

安久津八幡推しウィーク

2011-02-24 14:17:17 | 片倉小十郎を知りたい
ブログが愚痴で止まっているのも情けないので、今日の収穫を。たった10文字の収穫ですが(笑)

体調崩して仕事を休んだので、今日こそは!と出かけたのですが途中で倒れました。コートのポケットひっかけて破いちゃったよ、トホホ…
会社には電話して、休み休み家まで帰る途中、やっぱり気が遠くなり少し休みたい…でも飲食はしたくない…どっか雨風しのげて座れるところ…タダで……
といって、図書館に入るのはどうかと思います。私。

地元の区立図書館に入り込んで、日本史禁帯出本コーナーにふらふらと寄っていったのは、人が少ないからよね? ちょっと休みたいだけなんだから…えーっと、あ、こんな本あった。(確信犯)

『神道大辞典』 臨川書店
昭和12年 初版(平凡社)、昭和55年 複製第8刷

神道に関する用語解説とか、全国の神社とかが載ってました。で、「八幡神社」の項目にずらーっと各地の八幡さんが並んでて、もちろん探すのは山形県、東西米沢八幡さん情報です。

・山形県東置賜郡高畠町字安久津に鎮座。郷社。品田別命・伊邪那美命を祀る。一に屋代八幡宮といふ。康平年間、源義家、安倍氏追討の時勧請せるものと伝へ、中世、伊達氏の崇敬が篤かつた。江戸時代には藩主上杉氏深く尊信し、慶長年間、上杉景勝、この地に入部するや五十石の社殿修復料を寄進、寛永七年、同定勝は社殿を造営する等見るべきものが多かった。なほ延宝元年六月、幕府より別当金蔵院に朱印領五十石を寄せらる。境内二万六千余坪、古杉老松蔚然として森厳の気に満つ。例祭日、九月十五日。

・山形県南置賜郡広幡村成島に鎮座。郷社。誉田別命を祀る。正安二年、長井掃部頭大江親秀の創立と云ふ。近世は藩主上杉氏より社領二十石を寄進せられ崇敬を享く。例祭日、陰暦四月十五日・八月十五日。


えっと、お気付きかと存じますが、「一に屋代八幡宮といふ。」という部分! 片倉景重パパのプロフィール「屋代長井之庄八幡宮神職也。」とぶつけてみると、またちょっと安久津八幡に近づいたような気がしませんか?(誰に聞いとる)

いやー、一気に血行が良くなってるんるんで家に帰りましたよ。現金なもんですわ。明日は元気に会社に行こーっと!