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きもちばかりで

片倉小十郎景綱に興味津々

『仙台藩家臣録』とか『伊達世臣家譜』とか

2010-04-25 23:23:23 | 片倉小十郎を知りたい
こないだ閲覧したのは『仙台藩家臣録』、今回閲覧したのは『伊達世臣家譜』
あと『伊達家世臣録』とか『伊達家世臣伝記』とか『伊達世臣家譜略記』とか『伊達正統世次考』とか……

ええ~いっ、混ざるわぁぁぁ~っ!!

『仙台藩家臣録』は、所謂伊達騒動の後に作成を始めたものでつまり4代藩主・綱村の時代。
『伊達世臣家譜』は、6代藩主・宗村の命で作成を始めたもので、当初は一門~太刀上までを編纂して『世臣家譜略記』とする。
・その後、7代藩主・重村の時に召出~平士を編纂したものと合わせて完成。全17巻。
・さらに『伊達世臣家譜 続編』というのがあって、これは『伊達世臣家譜』のupdate版で文政七年(1825)までの追加情報書き継ぎ。続編・31巻32冊、続編乙集・17巻70冊。

そういう順番なので、私が今必要としている情報は前半の方でした。
それでも見つからない名前はつまり……3代までになくなっちゃった家ってことなんでしょうか。しょぼん。
もしくは、別の藩に行っちゃったとか。宇和島について行っちゃったとか。はなから伊達家に臣従してなかったとか。
……………うお。

「ふりだしにもどれ」のコマに止まったような気がします。(ふりだし=晴宗公采地下賜録)

もうひとつ古い話

2010-04-25 03:03:03 | 片倉小十郎を知りたい
もうひとつ思い出して、2008年に遡った話を。
いとしの神田古本屋街で出会った『戦国文書聚影 伊達氏篇』
昭和49年発行 編者: 戦国文書研究会 発行: 柏書房
定価: 3,000円 古書店価格: 3,000円 良心的!

古文書を写真にとって印刷したものと、解説本のセット。
輝宗様や政宗様の水茎の跡が!とミーハー心全開で手を伸ばしてしまったのですが、その中に思いもよらない一枚がありました。小十郎のお仕事です。
『天正十二年 下長井段銭帳』
当時は今よりももっと知識ゼロで、大学に行けなかったのはわかるが果して本当に高校は卒業したのかおまえ?という学歴を遺憾なく発揮しておりました。
段銭って何?ええっとー、臨時徴収税みたいなもん?小十郎が徴収事務処理担当した書類ってことかしら?なんでもいいけど天正十二年ってことは筆頭18歳でちょうどBASARA年代じゃーん。その頃の小十郎の花押だわきゃあきゃあ。

うーん、痛い。だがこれを書いていてもっと痛いのは、今の自分もさっぱり変わっていないという点です。

その後ちょっと本を読んでみただけでも、段銭受領は責任ある立場の者がAuthorizeする性質のもので、私が想像していた事務官の事務処理ってなものではなく、伊達家首脳陣No.2ポジションとしてのお仕事でした。小十郎さんごめんなさい。

伊達家の段銭徴収記録で現存しているのは:
 天文七年(1538)九月 御段銭古帳
 天正十二年(1584)霜月 下長井段銭帳
 天正十三年(1585)霜月 北條段銭帳
 天正十五年(1587)霜月 上長井段銭帳
だそうで、晴宗公采地下賜録と合わせて見たりするとこの頃には誰の知行地で…なんてことがわかってすっごく面白い、ということを学びました。
ちなみに下長井段銭帳と北條段銭帳に小十郎のサインがあるそうです。上長井段銭帳にはサインの部分が無いらしい。
 ←その花押。

解説書に書いてなければ景綱だなんてわかりません(汗)
本文の字は、骨太の男らしい筆跡でした。間違ったトコの塗りつぶし方も男らしい(笑) この人、仕事速かったんだろうなー。

政宗が家督を継いだことによって、輝宗&基信ラインから政宗&小十郎ラインに引き継がれてほやほやのお仕事が下長井段銭帳でしょうか。尊敬する遠藤山城守からお仕事引継ぎする小十郎とかって、想像すると萌えですよね!(コラコラ)
そして、霜月~極月に段銭の徴収をして、極月二十五日には弥左衛門が生まれたんだから、例の『彼のむまれ子のこと』のメールですったもんだあった頃の小十郎ということに…うわあ~~きゃあきゃあ。(机をバンバン叩きながら)

やあ、さっぱり変わってないわ、私。
腐女子の魂百までとはこのことですな。(そんなことわざはない。)

小十郎景綱木像の目

2010-04-24 18:03:30 | 片倉小十郎を知りたい
「そうだ、白石、行こう」と東北新幹線に飛び乗った2009年10月、白石城歴史探訪ミュージアムではちょうど「片倉小十郎景綱画像」「片倉小十郎景綱・石川昭光起請文」「片倉小十郎景綱木彫像」のレプリカが展示されていました。

何故そんなことを今頃ブログに書くのかといいますと、例によって別のことを調べようと検索していたら、その複製を作成した株式会社京都科学様のニュースレターに出会ったのです。(Vol.11 & Vol.12)

欠けてた鼻も修復してもらって美しくなった小十郎の、白皙の美貌の中の目のことなんですが、実は以前から、どうしてこんなに黒目がちなんだろう?と思っていました。重綱の像も結構黒目がち。
誌面で見る正面から撮った木像の写真はちょっと怖い印象だったんですが、ミュージアムでレプリカをいろいろな角度から見ることができたとき、初めて理解したんです。

 「この人、想像以上の美形だったんだ」

いや、マジでマジで!
名香智子が描いたらシャルトル公爵家シリーズのアンリ・ド・シャルトル系のキャラクターになるね。(ルックスだけの話)

そんなことを公言して憚らない私の目にこのニュースレター。
「眼球(実物は水晶)の曲面に合わせてアクリル板を加工したものに内側から瞳を描き、実物と見比べて微調整をしますが十分の一ミリ以下の誤差でまなざしの表情がすっかり変わってしまうため、非常に神経を使う作業です。」

水晶の瞳。

ほわわわわ~ぁん……

「勝手に萌えてろ」と吐き捨てたアナタ。
それが正解です。

地方史ってすばらしい

2010-04-18 18:44:44 | 片倉小十郎を知りたい
充実の地方史コーナー。
目移りしちゃってあっちをパラパラこっちをパラパラ。二兎追うものは一兎をも得ず、を地でいってます。
だって書棚にいっぱいウサギちゃんがぁぁ~~!

でも、地方史って面白いですね。全国共通・一般的な知識からは想像もできないことが書いてあったりすると雄叫びをあげそうに嬉しいです。
実際にその土地に足を運んだら、きっとこれ以上に面白いことがたくさんあるんでしょうね。行きたいなぁ……山形、福島、宮城。
そこここで雄叫びをあげる観光客にはならないよう注意しますのでよろしくお願いします。

さて、パラパラしてみたウサギちゃん、もとい、今回はいとしの『白石市史』
これまたその土地の方しか知りえないことを見つけました。

「領主である片倉氏は 御内証様(ごないしょうさま)という名称で実質的に領主権を行使した。」
※内証とは奥向きとか身内という意味で、仙台藩主を屋方(形)(やかた)というのに対して片倉当主を呼ぶのに使われていた。普通領民は殿様(とのさま)と呼び、家中武士を旦方(だんぽう)と呼んだという。


御内証様。

仙台藩主が御屋形様で、白石城主が御内証様。

それは…… 伊達家のオカンっていう意味?!(違)


言葉のニュアンスさえも、その土地の方しか知りえないものであるらしいです。

TVドラマと現実は違うよね

2010-04-18 18:07:07 | 片倉小十郎を知りたい
もうひとつ『仙台藩家臣録』で初めて知ったこと。

(前略)「太閤秀吉公田村の地下し置かれ候。右備中こと御先手をも仕り、太閤様御前へも度々罷り出、諸事言上等直々に申上げ候。これより武功の者に候の由仰せ出られ、右の地下し置かれ候。高は五・六万石の様に伝え承り候。彼の地に一両年罷り有り候の処、品御座候間、右の地御朱印とも差し上げ申し候。」

勝手にかなを入れたので、もしかしてレ点の位置間違ってるかもしれないけど! 「品御座候間」ってなんだかよくわからないけど!(多分「身分・立場的に自分には分不相応なので」って意味かしら?)
『独眼竜政宗』の名シーンみたいに、その場で即時に断ったわけではなかったんですねー。

もしかしてこちらも景長の聞いた勘違い情報だったら…なんて可能性を鑑み(失礼)、『片倉代々記』をめくってみますと…おお、断ってます断ってます。そしてその後、秀吉から景綱宛に田村の地仕置の御朱印が。
「待てやー、こらーっ!」 BASARA小十郎さんのヴィジュアルで叫びが聞こえたような気がします。

オトナの事情があったんでしょうかねぇ。田村住民から「新しいお殿様、俺たち田んぼ隠したりなんかしてませんよ」の誓詞を受け取ってたり、政宗から「おまえ行ってとにかく治めてこいや」と田村に行かされたり、蒲生氏郷から「キミんち(田村)の隣りの白川城と須賀川城にウチの関と田丸入れたから、よろしくお願いね」なんてお手紙もらっちゃったりしてるようです。

つまり、秀吉の直臣になることは断れたけど、伊達家臣として田村を治める仕事はもらっちゃったってことでしょうか。結果的に。大森城主なのに。仕事増えただけ?

小十郎さんはいつでも大忙しだね。