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きもちばかりで

片倉小十郎景綱に興味津々

御厄介豆腐:追記

2010-05-30 23:11:23 | 片倉小十郎を知りたい
風呂入ってきましたー。

風呂の中でまたうだうだと商品券、じゃないや、小十郎のことを考えていたわけですが。
いや、「小十郎が商品券の起源」というのは冗談ですよ、風が吹けば桶屋が儲かる的な論理ですよ、単に私の萌え回路が「商品券」と「片倉景綱」の間に開いてしまっただけですから。こと小十郎に関する脳ミソ部分には、ニューロンのつながりやすいことと言ったら。

そんな言い訳を考えていたワケではなく。何かひらめいて「ユリイカ!」とか叫んだワケでもなく。むしろまたも疑問が沸き起こってしまいました。
「仙台地方では冬至になると」 何故冬至?

冬至。今でいうと12月下旬、クリスマスの頃ですよね。つまり旧暦では十一月。慶長七年ときたら……(年号換算表カンニング中)十一月十日近辺かな?
十二月に辞令が出たとしたら、動き出すのはそれから。途中で動けずお世話になった人々に豆腐(と酒)をふるまったとしたら、一月とか二月とかにならないかしら。
後年日にちをずらしたとしても、一月の行事(?)を前年の十一月まではずらさないんじゃないかなぁ。
でも『やくたい草』「十月八日は~」で項目が始まっている。江戸時代半ばに冬至だった風習が、幕末には十月初旬にズレている?!
ええええ、そんなばかな。どこかが間違ってるのか、私の読解力がゼロなのか。(あ、後者な気がしてきた)

十月に辞令が出たとしたら、『やくたい草』の「十月八日は~」は日にちはともかくなんとなく落ち着く。
で、御厄介豆腐自体は十月八日なのではない、という文面だとしたら、慶邦さんったら文章ややこしい…じゃなかった、移動の途中で雪に阻まれ病人が滞在した地で十一月の冬至に豆腐(と酒)をふるまうのもなんとなく落ち着く。

じゃあ、極月晦日付の政宗様の書状は?

さあもうわからない。

てゆーか、なんで私がこんなに豆腐の日付が気になるかというと、十月八日って輝宗様の命日じゃんかよーぉ! 小十郎がその日に自分の何かを祝うとは思えないんですが。いや正確には、思いたくないんですが。
…思い込み、激しすぎだと自分でも思います。ハイ。

小十郎と商品券

2010-05-30 19:18:17 | 片倉小十郎を知りたい
『やくたい草』(やくたい草紙)という書物がありまして。最後の仙台藩主・伊達慶邦が記した「やくたいもないこと」。仙台藩主時代の思い出の中でもこまごまとした事柄をちょこっとずつ書き留めてくれています。当人としては本当にやくたいもないことメモだったのかもしれませんが、今となっては公式記録とかでは拝めない、時代の証言です。ありがとう、本当にありがとう、って感じです。

図書館でチラリと見つけた時にはもう閉館時刻が迫っていて、いつかゆっくり読もう!に分類されたたくさんの物のひとつです。そんなんがたくさんありすぎや。
私は『伊達世臣家譜』の巻末に見つけましたが、さっき国会図書館のNDL-OPACで検索したら『仙台叢書 第18』にも掲載されているようです。機会がありましたら是非。

時間がなくてパラパラめくっている中にも目ざとく見つける「片倉景綱」の文字。
「厄介豆腐」という項目がありました。そこだけコピーとってきたので引用いたします。仮名使い多少直しちゃうので、間違ってたらごめんなさい。だからこその、機会がありましたら原本を是非。

「十月八日は片倉景綱、白石城並びに土地を賜りし日なり。其の時祝儀せんとて肴をものするに、海遠くしてむつかしければ、豆腐をさかなにて、景綱主従祝儀の酒をとりかわしたるとなり。さて此所のものには、兎角厄介になるとて、酒飲ませしより、厄介豆腐を酒の肴にていほふ(祝う?)という。昔を忘れぬ風習、実に賞するにあまりあり。」

いい話だなー、とほんわかすると同時に「?」となるのは「十月八日」。白石城歴史ミュージアムでレプリカを見た政宗の手紙は、小十郎に白石をまかせるぞ!のなんとなくツンデレっぽい内容で、これが極月晦日の日付。
「其の身こと、白石の地へ罷り越すべく候。彼の地の事、境の義にて候間、自然斟酌に存ずべく候。見当を以って申し付け候と異儀存ずべからず候。猶、様躰はつぶさに石見守口上に申し付け候也。 極月晦 政宗  片倉備中」
十二月なんだよね。
まあここらへんは逆に成実が亘理城主に任命されたのはいつか、とか調べていけばいいとして。(上の手紙の「罷り越すべく候」が辞令ではなく「白石に行きなよー」ってことだとしたら、十月に辞令があったけど冬場に病身で移動できない小十郎に「白石行けよ、病気ってどうしたんだよ、石見(綱元)に詳しく話しといてよ」と政宗様ツンデレギレ全開だった可能性も。でも辞令っぽいよね。文面もそうだし、綱元を使者としてたてているあたりもそんな感じ。)

日付はともかく白石城主に任命されたときのこととすれば小十郎が厄介になった「此所のもの」とは前任地・亘理の人たちかと思いましたが、亘理はむしろ海側。となれば白石への移動途中で滞在した神宮寺村の人たちに相違ありません。病身、おそらく脳溢血か脳梗塞のダメージ直後であろう小十郎が「厄介をかける」と、村人たちに酒と豆腐をふるまった。
いい話だなー。…ほんわか。でもツライわ、病気の小十郎。…しくしく。 (ほんわかしながらしくしくするなー!うっとうしいっ!)

前振りが長くなりましたが(前振りかよ!)、続きを調べに図書館に行けない鬱憤で「ご厄介豆腐」をネット検索してみたら……
国税庁ホームページがひっかかりました。

マジでマジで!
検索してみて!国税庁ホーム>税務大学校>租税史料>NETWORK租税史料>明治2年の商品券

「商品券の発祥は意外と古く江戸時代の半ばごろで、仙台地方では冬至になると、懇意先へ平素の厄介に感謝するために豆腐を贈る風習があった。しかし一時に多数の豆腐が集中するのを避けたいところから、必要なときに随時に受け取ることができる「御厄介豆腐切手」を販売するようになったという。これが現在使われている商品券の起源とされている。」

商品券の起源が「御厄介豆腐切手」で、御厄介豆腐の起源が小十郎なら、商品券の起源は小十郎ということになるのでは。

どうしよう。明日、丸の内ポイントの貯まったヤツ商品券に換えに行こうと思ってたんだけど、「商品券」ってモノを手にしただけで小十郎に直結させてニヤニヤしそうだよ。またも不審者だよ。

真田源二郎幸村ーぁっ!

2010-05-16 21:03:03 | 片倉小十郎を知りたい
『紅蓮の花』は、正式タイトルとしては『紅蓮の花 真田幸村』というのでありました。さらに言うと、『合戦シリーズ 大坂夏の陣』が冠されます。

と、いうことを、今日改めてバンチを読み返していて気がつきました。ごめんなさい。

つまり、幸村=紅蓮の花である、と。真田の赤備えが戦場に咲く様を紅の蓮の花にたとえ、また紅蓮の炎の如く燃えさかる熱い魂を表しているのですね。略して、花のような真田幸村。……展開させすぎました。ごめんなさい。

さてその「幸村」という名前。現時点では真田信繁さんの芸名、じゃない、別名、というか、うーんと、役名?違うな…ともかくご本人あずかり知らぬところでつけられたニックネームだということになっておりますのは周知の事実。
軽くググってみますと、寛文十二年(1672)成立の『難波戦記』という軍記物語に出てくるのが初出で、この本が大ブームになったおかげでその後「真田幸村」が人口に膾炙したのだそうな。

ありがとう『難波戦記』! BASARAオヤカタサマの「ゆぅきぃむるぁぁあああっっ!」は偏にあなたのおかげです。武田信玄が「ぬぉおぶぅしげぇぇぇっ!」では、ダイレクトに弟さんを呼んでることになっちゃいますもんね。(本末転倒)

さて小十郎さんに立ち返りまして『片倉代々記 重長譜』
プロフィールには「後室真田左衛門佐幸村女」と書いてあります。
『難波戦記』が成立した寛文年間は、重長が亡くなって景長が跡を継いだ頃。正に寛文事件=伊達騒動の起こった時代。これを切り抜け、代々記の編纂に着手し始めた頃の初期原稿にはもしかしたらまだ「真田左衛門佐信繁」と書いてあったのかもしれないな、などと夢を見ているのでした。

きっと、編纂作業をしている人たちの間で 「これヤバくね?真田の直系とか書いちゃってヤバくね?」「別に、幕府に見せるワケじゃないし、いいんじゃねの?」「いや、もーちょいサ、オブラートにくるもうよ」「既に、大坂から知らないで連れてきましたー指月院様亡くなってから真田の娘さんだってわかったんですーなんて、白々しいオブラート付なのに何をこれ以上どうやって…」「だからホラ、真田幸村」「難波戦記かよ!」 なーんて会話が……(妄想注意報発令)

蛇足: 『片倉代々記』にはまた「金吾幸村」の表記も見えます。これは衛門府を唐名で言うと金吾になることから左衛門佐幸村と同じことを、ちょっとカッチョよく呼んでるのだそうです。
信長の「右府様」や、家康の「内府」も同じ唐風の呼び方。
「奥州」も、陸奥国の唐名。信濃国は信州、美濃国は濃州。ここらへんから、信濃と美濃を取り違えたりする結果も出てくるのかしら。(片倉氏の出自の件)

しかし、「金吾」って言われてパッと思い浮かぶのはどうしても小早川秀秋なんですよねぇ。彼は左衛門督(佐の上官)兼中納言であったので、金吾中納言。結構最近まで、金吾くんって名前だと思ってたよ。
さらに中納言の唐名が黄門なので、小早川秀秋は金吾黄門かしら。それはやりすぎってものかしら。「外国語を使いすぎるのはcoolじゃないぜ」 あなたに言われたくありませんBASARA政宗さま。

政宗も、60過ぎると中納言になっているので「仙台黄門」とか表記してあると「誰?」と思っちゃいますね。「松平陸奥守」までならなんとか…。

忙しい小十郎

2010-05-09 13:13:13 | 片倉小十郎を知りたい
先日の投稿で、小十郎の三春統治が短期間だったと書きましたが、確かに正式な統治は短期間でもその前の田村仕置でさんざっぱら出張してるみたいですね。
今日は大森、明日は三春、殿が会津で呼んでいる~。トテチンシャン、っとくらあ。

移動は馬だったんでしょうけど、昔の人ってやっぱ基礎体力が違いますね。新幹線移動だって疲れますよこんなの。
どこの記録だったか今確かめられませんが、記録自体に(別の地にいたはずなのに)どうして景綱がこの場にいるのかわからない、とか注釈つけられてるのがあったなぁ。

そこにまた、豊臣方から書状は来る、北条から来る、徳川から来る、義姫からも最上と仲良くする話どうなったのーっ!と手紙が来る、もちろん政宗様からも指示が来る。
書状はどこ宛に送って、どういうタイミングで小十郎が目を通していたんでしょうね。
飛脚が飛んできて「小十郎殿はいずこに?!」 「○○城へ向かわれました!」 「すわっ!」とまた追っかけて渡したんだったら大変だったろうなー。
飛脚が運んでくる書状ならまだしも、御使者が携えてくる書状だったら、待ってもらわなきゃなんないだろうし。どのくらいまで部下に分担できたのかな。分担できないほど格の高い御使者だったら、到着の先触れがあるか。それにしてもあわてて帰ってこなくちゃならないワケで。
この頃の小十郎ほどスマートフォンとか渡したい人もいない気がします。
いや、むしろそんなもん持ってたら更にこき使われちゃうか。

伊達の先陣。実際の戦闘の先陣は成実で決まりですが、その前段階の外交の先陣は小十郎。ああ忙しい。

女性週刊誌的視点で鬼庭家と片倉家

2010-05-05 13:50:00 | 片倉小十郎を知りたい
やあ、先週会社で何してたか思い出せないGW最終日です。
明日同僚に会って「GW何してたー?」とか聞かれたら「妄想してた」と答えるほかない生活でした。

女性週刊誌的な、と言いますものは結婚・離婚についてのお話です。
小十郎関連の小説・マンガを読むとどうしても出てくる鬼庭家と片倉家の関係。作家さんによって、喜多が鬼庭家にひっかかる気持ちを持っていたり、綱元と景綱が仲悪かったりするものもありますが、ほこほこ仲良しさん大好きな私としては両家が仲良しなお話だと嬉しいです。「喜多を通せば兄弟」(ビミョ~)な綱元と景綱。景綱が綱元を(非公式に)「あにうえ」なんて呼んでたりする設定のお話なんて、嬉しさのあまりゴロゴロ転がっちゃう。

考えてみれば、まず鬼庭周防良直&本沢刑部真直の娘・直子(仮名)というカップルがいまして、喜多が生まれました。
天文八年(1539)、時に良直27歳のパパ。
孫娘に、鬼庭露月斎もメロメロです。

でもその後、なかなか男子を授かることができません。
露月「いいじゃん、もう喜多に継がせようよー。わしが立派に教育してるからさー」
良直「父上! 喜多をそれ以上男らしく育てあげんでくだされ!」

捏造ギャグはともかく、その後も10年近く男子は生まれません。時代は天文の乱真っ盛り。明日は命がないかもしれない中で、嫡男がいないのはやはり不安です。側室という形であったかどうかはわかりませんが、おそらく直子も承知の上の第2夫人だったのではないでしょうか。
これが大当たりドンドン。鬼庭綱元の誕生です。
天文十八年(1549)、良直37歳にして嫡男誕生。

嫡男を生した側室を正室に置き換えるのは当時よくあることだそうで。そして、正室だった人が側室としてそのまま残る例は皆無ではありませんがあまり見あたらないようです。まあ、気持ち的なことを考えてもそうですよね……。
それに、鬼庭家が直子を正室のまま、妾腹の嫡男と側室を養えるような家だったかというとそれも疑問です。どうなんでしょう? 伊達家とかの大名家といわれるような家だったら、正室/側室の実家との政治的関係も絡まって対応が違うのでしょうが。(そして政宗はありゃーもう、甲斐性というかなんというか……ハァ)

というわけでA子さん(仮名)が良直室になり、直子は離縁、喜多を連れて本沢家に出戻りです。
割り切らなきゃやってらんねー、とは思っても、皆それぞれ辛かったんじゃないかなぁ。この場合、A子さん(仮名)もビミョーに気まずいでしょう。その後は鬼庭家正室として頑張ってくれたと思いますが。

喜多は10歳。弟ができた!と喜んでたら別れなきゃならない。その当時の10歳は、こういう事情は理解できてたんでしょうか。

露月「喜多~~いつでもおじいちゃんトコ遊びにおいで~~(ほろほろ)」
喜多「じいちゃん、泣くな!男だろう!」
良直「(うわあ、すっかり男らしくなって!)」
喜多「父上…左衛門抱っこしにきてもいい?」
良直「(ほろり)ああ、いつでもおいで。おまえの弟だ。可愛がってやっておくれ」

脳内で妄想劇場が繰り広げられておりますが。

実際問題、離縁した娘と実父の交流はどんなもんだったんでしょうかね。喜多が伊達家に就職したのには良直の推挙もあったんじゃないかなー?なんて。(16歳の時に、輝宗の侍女になったとの記述は見たことがありますが、おそらくそれ以前から働いていたのでは?と。いきなり嫡男の侍女になれるかなぁ…それもありかなぁ…ブツブツ)

ともかくバツイチとなった直子さん、縁あって片倉式部少輔景重に再嫁します。

 こ こ で す !

鬼庭家→本澤家の離縁事情はわかった。でも、片倉式部の離縁事情はわかってないのよ~~。
以前にブログに書いて「調べられないだろうし多分このまま無視かな」と思っていた式部さんの前妻さん。成島八幡の神職の娘だという方。最初の結婚は同業者のご縁ってことかしら。
でも一男一女を生してからどうして離縁になったのか???

「補に言う、一本系図には重継の母は長井庄八幡宮神職の女にして后離別す。重継及び妹一人を携え復籍して之を養えり。重継成人して后ち(=後)異母弟小十郎景綱に依て輝宗候に仕事し片倉氏を称す」

そして、直子の例とこの記述を見る限り、子供は奥さんに属する慣習なのかしら。あっ、ここらへん、塵芥集みてみればいいのかも!
何の事情で離縁したのかは書いてありませんが、式部さんとしては嫡男手放しちゃったってことじゃないですか。私ね、この記述を見るまでは奥さん亡くなっちゃって、長男長女を抱えた式部が後妻に直子さんもらったんだと思ってたんですよ。うぉー、気になる~「スクープ!! 片倉式部少輔・前妻が語る離婚原因一部始終!!」なんて見出しが出てたら喜んで買っちゃうんだけどな、女性週刊誌。