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きもちばかりで

片倉小十郎景綱に興味津々

「ふりだし」が変わった

2010-06-19 22:58:00 | 片倉小十郎を知りたい
5時ピタで飛び出して国際フォーラムをつっきり有楽町線で2駅。平日の国会図書館の受付は6時まで、閉館は7時です。お目当ての本をピンポイントで申し込めばなんとかなる!

今回の目的は私が「ふりだし」と目していた『晴宗公采地下賜録』です。研究書に解説付きで活字化されていて有難いったらありません。
やっぱり「ふりだし」は大切でした!! 初心者的には、いろいろな事が確認できましたよ。

1.天文二十二年(1553)の伊達晴宗の奥書と、延宝九年(1681)の伊達綱村の奥書があること。
2.晴宗の奥書で三巻ある旨触れられ、綱村の時点で既に一巻は紛失していること。
3.天文の乱中に発行した宛行状はキャンセル&リセットであること。
4.各宛行状の写しであるが、内容の控えという目的優先か、一字一句の写しではないこと。
5.晴宗の時の文書表題はシンプルに『判形之長張』であり、『晴宗公采地下賜録』とは綱村奥書の折のネーミングであろうこと。

……などなど。
「何を今更」って言わないで~。初心者なのよ~、何を見ても新鮮なのよ~。

かえすがえすも2.が惜しい……。あと4.も。でもこの4.の事実を知ることができたのは大収穫です。「晴宗様、ひらがな多いな~」なんて思ったままいなくてすんだし(笑)。宛名に「殿」などの敬称がついている/いないという点も、伊達家との関係性を示す目安になると思っていたので、写本として敬称略してる可能性に気付けたのは本当に大きいです。

で? つまり? この「ふりだし」をより密な情報源とするためにはもしかして…『伊達家文書』とつけあわせ確認する必要ありってか?!

載ってるものがどのくらいあるんだろう…(と、既にやる気になってる自分がいるよ)? 「ふりだし」から始めるのではなく、いつの日か「ふりだしにもどる」ことを目標としてみたいと思います。

今度は成島八幡に近づいた

2010-06-13 12:05:00 | 片倉小十郎を知りたい
図書館行きたい~、W杯も見たい~、と駄々をこねても体調はなかなか戻りません。年かね。年だね。
お医者さんに行ったら、ただいま流行中の気管支に入る風邪ドンピシャリだった模様。とりあえず気管支に訪れた方にはご退去いただいたので一安心です。図書館行きたいよ~(元気元気)

先日リンクをご紹介した「川西町にもうひとつの八幡宮」というお話から、自宅引きこもりで調べられる資料をパラパラとめくってまとめていたら、ふりだしにもどりました。
やっぱり先人が成島八幡だと仮説を立てるだけのものが、史料にはあるんですねぇ。

『晴宗公采地下賜録』 天文二十二年正月

何を今更、という史料ですね。でも実はまだ全文を拝見したことがありません。(ここでいう全文とは、もちろん先人が活字化してくれたものでございますよ。原本なんてそんな、この私に読めるわけがハッハッハ) それもあって、図書館行きたい熱が上がってます。知恵熱。

全3巻のうち、現存するのは2巻だけだそうで本当に惜しい。残る1巻が発見されたら研究者感涙でしょうねぇ。
で、何かと申しますと、この天文の乱論功行賞決定版とも言える采地下賜録で、片倉一族が主に上長井・下長井に知行地を賜っているのはご存じの通り。そこから「米沢八幡」を見極めようと思ったら成島八幡になるのも道理。安久津八幡も捨てがたい。そして小松に該当する八幡神社があれば万々歳。そんなどっちつかずを考えながら、采地下賜録より片倉三兄弟の知行をグーグルマップしてみました。下長井のみです。現在の地名と天文の頃の地名が一致してるかはわかりません。無責任!

クリックすると別窓で開く…はず。グーグルマップからちょっといじったことがわかるように、位置指定番号を漢数字にしてみました。ごめんなさい。
・寺泉、・宮。 片倉壱岐守、三兄弟長男の意休斎お兄ちゃんですね。
・小松、・黒沢。 片倉式部、二男で小十郎のお父さん。
・平山。 片倉修理亮、三男景広のことだと思います。後に小十郎の麾下に参じてくれるおじさま。彼はもうちょい米沢に近い所も下賜されました。

他に、源姓片倉家の祖となる片倉伊賀守(清水さんちからのお婿さん)の記録もありますが、ここは三兄弟のみにて失礼。
あと、天文の乱の最中にも晴宗公の知行宛行状は発行されており、その地域に関する記録がこの天文二十二年の書状にどう載っているのかを確認しに行きたい今日この頃。

ここで重いを承知でもひとつマップ。上記片倉式部の知行と東西米沢八幡宮の位置関係です。


なんかもう!どっちでもありじゃん!電車通勤だったら成島でマイカー通勤だったら安久津じゃん!って感じの位置関係です。
もちろん、知行地とは「そこのあがりがもらえる」(しかも小松・黒沢の各一けん分)場所ですから、景重パパが実際に住んでいた場所がどこなのかは断定できません。もしもこのどちらかの土地に住んでいたとしたらってだけの話です。(私はむしろ住居は別の場所なんじゃないかと思っています。疑い深い。)
なのに何故タイトルが「成島八幡に近づいた」なのかと申しますと。
『采地下賜録』に2人の名前を見つけたせいです。

・本沢玄蕃 上長井 - 小瀬・あら川
・藤田源四郎 上長井 - 小瀬

成島八幡にほど近い位置に知行を賜った、小十郎のママの実家と「藤田」さん。ちょっと興奮するのは、天文の乱後に伊達氏麾下にいる「藤田」さんってトコです。本沢さんちの三男が婿養子に行ったり、本沢さんちの孫で片倉二男の二男が番代に行ったりするのにいい感じだと思いません? で、藤田(源)四郎。無駄にときめきます。
あとは、藤田四郎宗知と藤田道休と藤田源四郎の関係さえわかれば……うん、ここでつまづくね。目に見えてるね。でもときめくわぁ。

あとね、あとね、鬼庭さんちの名宛人が「鬼庭左衛門」なんですよ。ここから妄想するに、天文二十二年なら綱元はまだ幼児(5歳くらい?)。この左衛門は良直ってことでしょう。前に離縁話のトコに書いた脳内妄想劇場では綱元の初名について左衛門までしか遡れなかったので「左衛門」と呼ばせましたが、良直パパが周防ではなく左衛門と呼ばれているなら、綱元には他の幼名があったってことですよね? キャーなんだろうなんだろう、どこに載ってるかなー?

おそるべし『晴宗公采地下賜録』。萌えまくり。

八幡宮新説!

2010-06-09 10:30:30 | 片倉小十郎を知りたい
ええっと、風邪ですが。気管支炎からちょっと肺系にもいった模様。まあ肺系に手当てをすると少し楽になるのでそうかなー?と思ったというだけですが。引き続き寝床でぐでぐでする前に、声が出ないので会社にはメールで連絡…とパソに火を入れ、ついでにちょっと検索などをば。

片倉景綱は川西生まれ? 町内に多い伊達家史跡、地元青年ら研究
山形新聞 2010/05/17

川西町で地元の歴史を研究している青年グループだそうです。わーい! がんばってー! やっぱり地元の研究者が一番!

私は現時点で安久津八幡宮派(「安久津八幡宮だったらいいなーと妄想しているだけで行動していない派」の略称)ですが、新説が出て研究が進むのは本当に嬉しい!

(成島八幡エリアを含めた)米沢・高畠・小松は、伊達家が福島県側から山形県側に進出した頃からの3大重要拠点だと、どれかの本に書いてありました(既に記憶があやふや)。地図を見てもその通りだと思います。

地図って重要ですねー。位置関係。陣地取り。当然っちゃ当然ですが。加増されても都から離れることを嘆いた蒲生氏郷さんもむべなるかな。そしてあの当時は、私みたいな地理オンチ・方向オンチは生きていけなかったんだろうなー。陣触れ、出陣、即迷子、みたいな? 連れていってねお願い組頭。

それはともかく。
小十郎の生家がどこの八幡宮だとしても、片倉一族が伊達家の重要拠点に土地を賜っていたことに違いはござんせん。さあどこなんでしょうね?わくわく……
地図帳や時刻表の地名・駅名見て萌え転げられる日がくるとは思わなかったなー。今は奥羽本線、米坂線のページがハートを鷲掴みです。昔からの由緒ある地名をいつまでも変えないで守ってほしいものです。(この流れで書くと萌えのために言っているようだがさにあらず!)
ちなみに羽前小松 - 成島間は2駅・7.3営業キロだそうです。成島 - 米沢間が3駅・9.6営業キロ、米沢 - 高畠間が2駅・9.8営業キロ。高畠 - 小松間はバッチリ道路がつないでますな。あー、なんかカ・ン・ペ・キ。(何が?)

ブログカテゴリー変更

2010-06-02 20:40:40 | 片倉小十郎を知りたい
カテゴリーの「わからないことだらけ」というヤツを無くして、全部「片倉小十郎(を知りたい)」につっこんでみました。

理由: 全部が「わからないこと」だから。

うおおおお、情けない。

さらに、新しいカテゴリー名も、「片倉小十郎 "を" 知りたい」がいいか「片倉小十郎 "が" 知りたい」がいいのか、日本語がわからずしばらく悩みました。幸村ネタや成実ネタも含まれていたので「片倉小十郎と愉快な仲間たち」にすべきかとも思いましたが、寸前で 何かが違う と気付きました。

新聞で総理大臣と仲間たちのサヨナラコメントを読んで、日本のトップをはる人たちも日本語の使い方がてんでなっちゃないことを知り、どっちでもいいや、と変更官僚、じゃない、完了いたしました。

……最近PCが最初に提示する変換が偏ってきてびっくりすることが多いです。武家PCと呼んでやりたい今日この頃。

豆腐求めて宮城福島

2010-06-02 11:00:00 | 片倉小十郎を知りたい
平日にブログ更新。はい、また風邪ひきました。声出ないです熱がぐぐーっとあがりました。寝てろ。

「病気の小十郎」という言葉にうっとうしくもしくしくしながら神宮寺村を検索したんですが、この逢隈神宮寺ってところ???
だとしたら思ったより亘理と離れてないんですね! もっと白石寄りかと思ってた。てゆーかほぼ亘理じゃん。

ここから伸びる妄想の羽。風邪熱も後押ししているのでキョーレツです。ご注意を。
まず、辞令があって兎にも角にも亘理城から退去することはした。でも遠くまで移動することはかなわなかった、と?

うおぅうおぅ小十郎おぅ (勝手に想像して号泣中)

白石までどういうルートで行こうとしていたんだろう? 箕輪峠を越えて船岡を通って行くのかな? ここらへん歴史オンチに加えて地理オンチなので要猛勉強です。(なんでこんななのに歴史に興味持っちゃったんだ…)
てゆーか、だとしたら箕輪峠も越えられなかったんだ…

うおぅうおぅ小十郎おぅ (しつこい)

小十郎が、ほとんど亘理な神宮寺に滞留して安静中とあれば、亘理城後任の成実も心配だったでしょうね……。

「脳血管障害」は、突然意識を失って倒れ、昏睡状態に陥ることがあるため、「脳卒中」と昔から呼ばれています。また、「脳血管障害」は、脳虚血によって起こる「脳梗塞」と脳血管の出血によって起こる「脳出血(=脳溢血)に大きく分けられ、その他に慢性脳循環不全なども含みます。(TMG保険新報・常勤医師による医療のページ より)
小十郎の病気は中風と言われています。「悪い風に中って突然倒れる病気」です。その後半身が不自由にもなったとのこと。
↑のお医者さんの定義を見るに、虚血とは思えないので脳出血じゃないかなぁ、と。働きすぎや。これがホントの伊達家過労職じゃ。冗談はさておき40代半ばの働き盛りですよ。もったいないったらありゃしない。
さらに晩年は肥満して、政宗公が重い具足は大変だろうと軽い具足をくれた、という話が『片倉代々記』にあります。「年月日不知」で慶長八年の末尾に載ってますが、常に飛び回ってたご過労サマがいきなり病床に臥したらそりゃ太るでしょうね。プロスポーツ選手引退後みたいな。さらにその上、中風を患えばむくみも出るでしょう。いずれにせよ不健康な太り方をしたのかと思うとまたうおぅうおぅ。
そして『片倉代々記』を読み進めると、慶長十九年四月に「公(政宗)越後へ御出として江戸御発駕御供の輩景綱其外数輩也」ってあるんですよね。どこまで行ったんだ、越後まで御供したんか。リハビリ成功か。でもその年十月の記録には「此節景綱は中風の症にて気色弥指重る」とある。で、翌年が元和元年。うおぅうおぅ。

そんな脱線妄想もしつつ、地理的に神宮寺がほとんど亘理だと知って、「海遠くしてむつかしければ」のイメージが変わりました。
じゃあ、豆腐(と酒)を振る舞った場所はどこ?
 1.神宮寺村(亘理郡亘理町逢隈神宮寺と仮定)
 海、遠いっちゃ遠いけど結構近いよね。
 2.刈田郡宮村(刈田郡蔵王町宮と仮定)
  『片倉代々記』によると、神宮寺村から宮村に移った後に白石に入城したとのこと。わざわざ地名を書いて「移し」と記すからには通過しただけじゃなくてしばらく滞在したのだろうと。こっちなら確かに海遠い。
 3.白石入城後

1か2だと思うんですけどね。景綱が白石城に入城できた時期というのも慶長八年説と慶長十年説がある模様。この2年の差が重いわー。
慶長十年説の根拠になるだろう政宗から景綱への手紙に「こっちはだいじょぶだから安心してねー」と二回書いてあって深読みしちゃう。(「可心安候」

もうちょっと御厄介豆腐の記録がないかしら、ともう一度検索してみたらありました。「おやっけ豆腐」という名称でおいしそうなお豆腐。じゅるり。で、その場所が。
 福島県二本松市

うわあ、また離れたーあ!!!