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きもちばかりで

片倉小十郎景綱に興味津々

都合のいい情報を集めて妄想

2011-02-20 00:43:00 | 片倉小十郎を知りたい
ありがたいコメントからの情報を、妄想につなげてしまう自分に自己嫌悪を感じつつ敢行してみます。

まず自分(の妄想)に都合のいい情報をピックアップして並べてみると。

(1) 「米沢八幡」を、米沢の東西二大八幡と言われる高畠の安久津八幡と、成島の成島八幡のどちらかと仮定する。(※現在、川西町でも伊達家・片倉家関連の史跡調査が進んでおり、そちらの可能性もゼロではない。)
(2) 成島八幡の神主家は代々戸内家で、片倉家の名は記録にない。
(3) 安久津八幡の古記録は、幾度かの火災で失われたものがあるらしい。(焼失した記録に片倉家の名はあったのか?)

さて、これらの(都合のいい)情報から片倉式部景重の人生を捏造してみましょう。主に婚姻に関してなのでとても女性週刊誌的。

安久津八幡の神職・片倉式部が、成島八幡の神職の女と結婚しました。同業者の友好な結婚でしょうかね。
しかし一男一女をもうけた後、何故か離婚します。長男と長女は奥さんがひきとって成島に帰りました。

鬼庭良直の奥さん・本沢玄蕃の女が男子を生めずに離縁になり、小瀬の実家に戻ってきました。良直との間にもうけた長女・喜多を連れての出戻りです。

ここらで何があったんでしょうか。この仮定にすると、前妻と後妻が両方成島近辺にいる、というのがちょっとポイントな気がします。そして、鬼庭さんのおうちは米沢から東側、安久津八幡のある高畠(しばらく前まで伊達家の本拠地でもある)にちょっと近いです。
なーにーかー、オトナのネゴシエーションがあったようなにおいがしませんかー?(大変に女性週刊誌的見解)

……更に前後のオハナシを妄想してはいるのですが、はたから見ると結構ドロドロ・ストーリーで、でも当事者たちは結構ドライで、という代物なのでこれはもう少し裏を取らないといけないなぁと。(既に女性週刊誌記者と化す私。しかもフリーで持ち込みだな。パパラッチ?)

もしかして、戸内さんちについて調べたら何か手がかりがあったりしないだろうか。つまり、成島八幡神職の女、という方が、神主・戸内さんの女ってことはないだろうか。

あああ~、また調べたい家が増えちゃった~!

ありがたいコメントをいただきました

2011-02-19 23:40:40 | 片倉小十郎を知りたい
今まで当ブログにコメントをくださった皆様、本当にありがとうございます。連絡先がわかる方には極力お返事申上げておりますが、なにしろこのような腐れたネタブログですので、この場でのコメント公開は差し控えさせていただいております。申し訳ありません。
(むしろコメントしてくださった方の沽券に関わる気がいたしまして…)

ですが今回、洋の東西を問わぬ歴史・語学など幅広く学究されている方からお言葉をいただきまして(ありがとうございます!)、その中に是非、こんなブログに訪れてくださる皆様と分かち合いたい情報がありましたのでここに一部引用させていただきます。

(前略)…ネット上でも他の方が書かれていますが、成島八幡の神主家は、南北朝の頃から現在に至るまで「戸内(とのうち)」姓を名乗っているからです。 戦国時代には同社に複数の神主家が存在し、片倉一族が景綱と共に仙台へ集団移住した結果、戸内家が神主職を独占するようになった、そんな仮説も考えられます。ですが、もし残存史料がこの点に沈黙しているようであれば、安久津八幡か、今はなき他の八幡社を比定した方が妥当な気もします。…(後略)

おおう!! 安久津八幡に一歩近づいた気が!!

話を変えるかのように政宗話

2011-01-29 20:08:20 | 片倉小十郎を知りたい
いったんUPした記事をチェックのために読み返してみて……なんつーか、気持ちの悪いブログでごめんなさい。
まっ!腐女子ブログだもん、しかたないよね!(コラ) 腐女子も腐女子、馬齢を重ねて貴腐人と呼ばれる歳でしてからに。今更まともには戻れない~
 晴海少女過
 世平白髪多
 残躯天所赦
 不萌是如何
有明じゃないよ、晴海なんだよ、若い人にわかるかな。

それはそうと、輝宗様萌えで書き留めるのを忘れそうでしたが、こないだからアレ?と思っていることを備忘に書いとこう。

ちょっと前の記事で、政宗が年少さん組であることを自分に言い聞かせたくって並べた吉野の花見メンバー。お公家さんと連歌師などの「文化人」を除いたリスト。これを年長さん年少さんのところで切ってみると。
 細川玄旨(幽斎) 61歳
 豊臣秀吉 59歳
 前田利家 57歳
 徳川家康 53歳
 織田常真(信雄) 37歳
--------------------------
 伊達政宗 28歳
 豊臣秀次 27歳
 宇喜多秀家 23歳
 豊臣秀保 16歳
 豊臣秀俊(小早川秀秋) 13歳

上半分は文句無く実力者の顔ぶれ。
下半分の5人中4人って、秀吉の身内じゃないっすか? 秀家も含めてカワイイ(?)子供たち。
政宗だけ異質な気がするの。秀次くんのおともだち枠かなぁ?(政宗「実力者枠に決まっておろうが!」)
まあ、この頃の秀次くんは秀吉にとってカワイイ子供たちとは言えなくなってる(秀頼誕生後)わけですから、彼自身も関白として実力者枠に入るとして:(政宗「俺も実力者枠だっつーの!」)

 豊臣秀吉 59歳
 前田利家 57歳
 徳川家康 53歳
 豊臣秀次 27歳
--------------------------
 細川玄旨(幽斎) 61歳
 織田常真(信雄) 37歳
--------------------------
 伊達政宗 28歳
--------------------------
 宇喜多秀家 23歳
 豊臣秀保 16歳
 豊臣秀俊(小早川秀秋) 13歳

上2グループは文句なし中央の実力者枠/中央&歌の実力者枠ですよね。(政宗「何故俺を分ける!」)
政宗の立ち位置がねー、上に入りそうな、下に入りそうな…どっちとも言えるビミョーな位置な気がするんですよ。

まあ実際秀吉にとっちゃ、若くて歌が上手くて、地方の実力派大名で在京・在坂も既に長いし、何やらかすかわからない面白いヤツだしで、とにかく特別枠設けても参加させたいカワイイ若造だったんだろうなー、と妄想してます。

小十郎は吉野の花見は随行しなかったのかな。そもそもまだ京にいたのかな。足跡をたどる作業もやってみたいな。それやるとまた、行ってみたい土地が増えるんだろうなー(笑)

片倉小十郎景綱 : 史伝

2011-01-27 00:16:16 | 片倉小十郎を知りたい
先日ひっさびさに国会図書館に行けたのでちょっとごきげんです。るんるん。
今回は『近代デジタルライブラリー』の閲覧とプリントアウトの方法を教えてもらってきました。国会図書館のサイトからインターネットを通して読める本もあります。是非検索してみてください。『真田幸村諸国漫遊記』ってなんなんだ。あ、立川文庫か。

ただ、著作権等の問題をクリアしきれない作品は「館内限定公開」になっています。それでも館内であれば、ある程度のページ数はプリントサービスを利用することが出来ます。

今回目をつけたのは:
『片倉小十郎景綱 : 史伝』 庄司一郎著
大正4年

何かと思えば、大正4年11月に白石町(現・白石市)で催された『片倉公三百年祭』を記念して出版された本だそうです。
そうかー、大正ってもう今から100年前くらいになるのかー。平成・昭和・大正と年号2つしか遡らないからあんまりそんな気がしてませんでした。

たったそれだけ、されどそれだけ。既に文章は今と全く違います。内容的にもこれは景綱公が見たら「かゆい」とか言い出すんじゃないかという持ち上げっぷり。つまりファンにはたまらない感じです(笑) …いや、ファンでもちょっと「かゆい」かしら。

「独り吾が片倉候、伊達政宗が股肱の大参謀となり、終始変わらず、忠誠の二字、片倉候の全人格をなし…」
「吾人の最も彼に敬服する所以のものは、徹頭徹尾其の行動の充実し緊急せる事也。毫末微塵も空虚なく弛緩無き事也」

著者前書きで既にこんな感じ。言ってることには全面同意ですが、なにしろ文体が立派すぎて恐れ入ってしまう。100年前の人たちはこれフツーの文章として読んでたんだろうなぁ…。ああ、既に感覚がつかめない。今だったら言わないよね「大参謀」とか。

本文の書き出しもカッコイイっす。
「『一将功成って萬卒枯る』 将軍抜山蓋世の大功名も、あに独り将軍の勲功を以ってのみ論すべけんや。」
「時は維れ弘治三年、奥羽は裏日本、出羽は置賜郡屋代長井荘(後米沢)正八幡神社社掌片倉景重の家に呱々の声を挙ぐる一男あり。之れやがて片倉小十郎景綱にして、母は本澤刑部の女たり。后年実に伊達一門知謀の将なる也。」


不思議と、政宗が疱瘡にかかった話が元服・結婚の後に書いてあったり、政宗の眼球を切り取ったあとに自分の片目も切り取ったとか、BASARA小十郎の切腹癖も真っ青なストーリーが展開されてたりします。どっから取ったんだこのエピソード。

また、ずっと気になっている「伯父・藤田四郎」の名前が出てきます。ただ、これはちょっとひどいんじゃね?というストーリーになっておりまして、四郎伯父さんに養われていた小十郎が、「元来志は青雲にあり、文武聡明学を好む、勤勉大に努力す、才知既に伯父の上にあり」と14歳にして大変立派になりすぎたおかげで伯父さんがほっぽり出したという。更にその後、小十郎は伊達氏の家老・遠藤山城守基信に会って仕官の希望を熱く語り、基信は「小十郎の英才を喝破し、直に自が家庭の人となして、文武の教養怠らず」となります。えええええ、基信さんちで暮らしたってことぉぉ?!

そして、お城の舞踏会に連れて行ってもらったシンデレラは…じゃなかった、伊達の館であった能の宴に小十郎を同伴した基信は、小十郎に飛び入りで一曲舞わせます。その美しいダンスを見た王子様はガラスの靴を…じゃなかった、「輝宗公、御感殊の外深く、近く招きて其の名を問い給ふ。小十郎端姿礼容麗しく、其の応答大に殿の御気に入り、直に仕官の儀許され…」ときたもんだ。

……すみません、ちょっと、席はずして鼻血拭いてきていいっすか?
言わないよね、これ! 誰も萌えちゃいけないなんて言わないよね?!

いろんな方がいろんな話を作っています。ヘタな鉄砲も数撃ちゃあたるで、読み比べていくとそれぞれ元となった古記録にたどりつけそうな気がします。特に、飯田勝彦氏の『伊達政宗と片倉小十郎』からきて初の「藤田四郎」(藤田某ではなくて)さんに出会えたので、ちょっとこの本の考証参考資料を少しずつあたってみたいなー、と考えております。
あっ!そこのページプリントしてくんの忘れた!

MGM48メンバーのイイダちゃん

2010-09-26 20:13:30 | 片倉小十郎を知りたい
奥州片倉組がお昼くらいで、本命の用事である観劇が夜の部。時間が空いた。うん!図書館だね!
ずーっと行けてなかったので理性も何もあったものではありません。まっすぐ広尾へGO!

今回はまた予定と違う本に手を出しておりました。
『最上四十八館の研究』 丸山茂
『天正二年最上の乱の基礎的研究』 大澤慶尋


私が最上を調べると言えば、小十郎の名前のルーツ、飯田小十郎さんを求めてのことでございます。でもやっぱり知らないことばかりが並んでいるので別の方向にのめり込んで読みふけったりしてました。
「所謂義光知行」 いわゆる、って言われるくらい有名なのね!全然知らなかった!!
義光の貢租は「四ツ物成」といって、なんと四公六民だったそうです。豊臣の文禄検地では「三ヶ二公、三ヶ一民」であったことを考えれば、地元の人々に名君と慕われるのも当然です。公共事業もしっかりやってたし、すごいな義光おじさん。

で、MGM48ですが、こちらはTKD24みたいな直接の武将の数ではありません。館、城塞、つまり拠点の数ですね。そして48箇所あったということですらなく、「たくさん」の意味をいろは48文字の語呂のよさになぞらえての呼び名だそうです。伊達家にもあるみたいですね、伊達四十八館。うーん、Dateだと3文字のアルファベットにならないにゃあ。(する必要はない)

飯田さん、お名前いくつか出てきました。「飯田播磨」「飯田五郎三郎」「飯田摂津」「飯田大和」「飯田伊賀」
さーて、どの人がどれやら。
「五郎三郎」「摂津守」は、同一人物で天童八館のひとり…らしい。延沢能登が義光に降ったときに一緒に麾下に属したのかな。
その飯田館が、天童メンバーのエリア・北村山の本飯田(村山市本飯田)にあったのだそうですが、それが南村山の飯田(山形市飯田)に拠点を移した可能性も残る、と書いてありました。
元和八年、最上家改易の折に館の授受記録に残る名前は「飯田大和守 五千石」。没収者は佐竹義宣扱いです。
他に、改易後に他家預かりになった人々の名前の中に「飯田伊賀 七千石」
それより前、1600年畑谷城の戦いで見事に散ったのが「飯田播磨守」

ええっと、羅列してるだけ、ということは、お察しの通り混乱しています。

とりあえず、連綿と続く誇りある「片倉小十郎」という名前のルーツ、「飯田小十郎」は最上の臣という方向性はこのままで行こうと思います。でもまだ「伊達郡南飯田を賜ったの飯田播磨」さんの可能性も捨てきらないままで。

今回の収穫は、最上義光すげー!と、最上おもしれー!でござった。しばらく山形県から抜け出せそうにありません。