先日ひっさびさに国会図書館に行けたのでちょっとごきげんです。るんるん。
今回は『近代デジタルライブラリー』の閲覧とプリントアウトの方法を教えてもらってきました。国会図書館のサイトからインターネットを通して読める本もあります。是非検索してみてください。『真田幸村諸国漫遊記』ってなんなんだ。あ、立川文庫か。
ただ、著作権等の問題をクリアしきれない作品は「館内限定公開」になっています。それでも館内であれば、ある程度のページ数はプリントサービスを利用することが出来ます。
今回目をつけたのは:
『片倉小十郎景綱 : 史伝』 庄司一郎著
大正4年
何かと思えば、大正4年11月に白石町(現・白石市)で催された『片倉公三百年祭』を記念して出版された本だそうです。
そうかー、大正ってもう今から100年前くらいになるのかー。平成・昭和・大正と年号2つしか遡らないからあんまりそんな気がしてませんでした。
たったそれだけ、されどそれだけ。既に文章は今と全く違います。内容的にもこれは景綱公が見たら「かゆい」とか言い出すんじゃないかという持ち上げっぷり。つまりファンにはたまらない感じです(笑) …いや、ファンでもちょっと「かゆい」かしら。
「独り吾が片倉候、伊達政宗が股肱の大参謀となり、終始変わらず、忠誠の二字、片倉候の全人格をなし…」
「吾人の最も彼に敬服する所以のものは、徹頭徹尾其の行動の充実し緊急せる事也。毫末微塵も空虚なく弛緩無き事也」
著者前書きで既にこんな感じ。言ってることには全面同意ですが、なにしろ文体が立派すぎて恐れ入ってしまう。100年前の人たちはこれフツーの文章として読んでたんだろうなぁ…。ああ、既に感覚がつかめない。今だったら言わないよね「大参謀」とか。
本文の書き出しもカッコイイっす。
「『一将功成って萬卒枯る』 将軍抜山蓋世の大功名も、あに独り将軍の勲功を以ってのみ論すべけんや。」
「時は維れ弘治三年、奥羽は裏日本、出羽は置賜郡屋代長井荘(後米沢)正八幡神社社掌片倉景重の家に呱々の声を挙ぐる一男あり。之れやがて片倉小十郎景綱にして、母は本澤刑部の女たり。后年実に伊達一門知謀の将なる也。」
不思議と、政宗が疱瘡にかかった話が元服・結婚の後に書いてあったり、政宗の眼球を切り取ったあとに自分の片目も切り取ったとか、BASARA小十郎の切腹癖も真っ青なストーリーが展開されてたりします。どっから取ったんだこのエピソード。
また、ずっと気になっている「伯父・藤田四郎」の名前が出てきます。ただ、これはちょっとひどいんじゃね?というストーリーになっておりまして、四郎伯父さんに養われていた小十郎が、「元来志は青雲にあり、文武聡明学を好む、勤勉大に努力す、才知既に伯父の上にあり」と14歳にして大変立派になりすぎたおかげで伯父さんがほっぽり出したという。更にその後、小十郎は伊達氏の家老・遠藤山城守基信に会って仕官の希望を熱く語り、基信は「小十郎の英才を喝破し、直に自が家庭の人となして、文武の教養怠らず」となります。えええええ、基信さんちで暮らしたってことぉぉ?!
そして、お城の舞踏会に連れて行ってもらったシンデレラは…じゃなかった、伊達の館であった能の宴に小十郎を同伴した基信は、小十郎に飛び入りで一曲舞わせます。その美しいダンスを見た王子様はガラスの靴を…じゃなかった、「輝宗公、御感殊の外深く、近く招きて其の名を問い給ふ。小十郎端姿礼容麗しく、其の応答大に殿の御気に入り、直に仕官の儀許され…」ときたもんだ。
……すみません、ちょっと、席はずして鼻血拭いてきていいっすか?
言わないよね、これ! 誰も萌えちゃいけないなんて言わないよね?!
いろんな方がいろんな話を作っています。ヘタな鉄砲も数撃ちゃあたるで、読み比べていくとそれぞれ元となった古記録にたどりつけそうな気がします。特に、飯田勝彦氏の『伊達政宗と片倉小十郎』からきて初の「藤田四郎」(藤田某ではなくて)さんに出会えたので、ちょっとこの本の考証参考資料を少しずつあたってみたいなー、と考えております。
あっ!そこのページプリントしてくんの忘れた!
今回は『近代デジタルライブラリー』の閲覧とプリントアウトの方法を教えてもらってきました。国会図書館のサイトからインターネットを通して読める本もあります。是非検索してみてください。『真田幸村諸国漫遊記』ってなんなんだ。あ、立川文庫か。
ただ、著作権等の問題をクリアしきれない作品は「館内限定公開」になっています。それでも館内であれば、ある程度のページ数はプリントサービスを利用することが出来ます。
今回目をつけたのは:
『片倉小十郎景綱 : 史伝』 庄司一郎著
大正4年
何かと思えば、大正4年11月に白石町(現・白石市)で催された『片倉公三百年祭』を記念して出版された本だそうです。
そうかー、大正ってもう今から100年前くらいになるのかー。平成・昭和・大正と年号2つしか遡らないからあんまりそんな気がしてませんでした。
たったそれだけ、されどそれだけ。既に文章は今と全く違います。内容的にもこれは景綱公が見たら「かゆい」とか言い出すんじゃないかという持ち上げっぷり。つまりファンにはたまらない感じです(笑) …いや、ファンでもちょっと「かゆい」かしら。
「独り吾が片倉候、伊達政宗が股肱の大参謀となり、終始変わらず、忠誠の二字、片倉候の全人格をなし…」
「吾人の最も彼に敬服する所以のものは、徹頭徹尾其の行動の充実し緊急せる事也。毫末微塵も空虚なく弛緩無き事也」
著者前書きで既にこんな感じ。言ってることには全面同意ですが、なにしろ文体が立派すぎて恐れ入ってしまう。100年前の人たちはこれフツーの文章として読んでたんだろうなぁ…。ああ、既に感覚がつかめない。今だったら言わないよね「大参謀」とか。
本文の書き出しもカッコイイっす。
「『一将功成って萬卒枯る』 将軍抜山蓋世の大功名も、あに独り将軍の勲功を以ってのみ論すべけんや。」
「時は維れ弘治三年、奥羽は裏日本、出羽は置賜郡屋代長井荘(後米沢)正八幡神社社掌片倉景重の家に呱々の声を挙ぐる一男あり。之れやがて片倉小十郎景綱にして、母は本澤刑部の女たり。后年実に伊達一門知謀の将なる也。」
不思議と、政宗が疱瘡にかかった話が元服・結婚の後に書いてあったり、政宗の眼球を切り取ったあとに自分の片目も切り取ったとか、BASARA小十郎の切腹癖も真っ青なストーリーが展開されてたりします。どっから取ったんだこのエピソード。
また、ずっと気になっている「伯父・藤田四郎」の名前が出てきます。ただ、これはちょっとひどいんじゃね?というストーリーになっておりまして、四郎伯父さんに養われていた小十郎が、「元来志は青雲にあり、文武聡明学を好む、勤勉大に努力す、才知既に伯父の上にあり」と14歳にして大変立派になりすぎたおかげで伯父さんがほっぽり出したという。更にその後、小十郎は伊達氏の家老・遠藤山城守基信に会って仕官の希望を熱く語り、基信は「小十郎の英才を喝破し、直に自が家庭の人となして、文武の教養怠らず」となります。えええええ、基信さんちで暮らしたってことぉぉ?!
そして、お城の舞踏会に連れて行ってもらったシンデレラは…じゃなかった、伊達の館であった能の宴に小十郎を同伴した基信は、小十郎に飛び入りで一曲舞わせます。その美しいダンスを見た王子様はガラスの靴を…じゃなかった、「輝宗公、御感殊の外深く、近く招きて其の名を問い給ふ。小十郎端姿礼容麗しく、其の応答大に殿の御気に入り、直に仕官の儀許され…」ときたもんだ。
……すみません、ちょっと、席はずして鼻血拭いてきていいっすか?
言わないよね、これ! 誰も萌えちゃいけないなんて言わないよね?!
いろんな方がいろんな話を作っています。ヘタな鉄砲も数撃ちゃあたるで、読み比べていくとそれぞれ元となった古記録にたどりつけそうな気がします。特に、飯田勝彦氏の『伊達政宗と片倉小十郎』からきて初の「藤田四郎」(藤田某ではなくて)さんに出会えたので、ちょっとこの本の考証参考資料を少しずつあたってみたいなー、と考えております。
あっ!そこのページプリントしてくんの忘れた!
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