近代の岡山で本格的にキリスト教の布教が行われたのは1878年(明治11年)のことだそうです。来岡した宣教師たちは、岡山駅から路面電車で約15分の東山近くの東山公園内の居留地に県内初の洋館を建築し、活動拠点「岡山ミッションステーション」を設立しました。(現在、その痕跡はありません)
そこから西へ歩いて5分のところに三友寺があります。
(三友寺山門)
宮崎県出身で岡山県甲種医学校(現、岡山大学医学部)を卒業し、医師でありまたキリスト教徒であった石井十次が、この寺の一室を借りて日本初の孤児院「岡山孤児院」を1887年に開設しました。キリスト教徒や実業家大原孫三郎らの支援ものと、一時は全国から1200人もの孤児をを収容していたそうです。現在三友寺には石井十次をしのぶものはないそうです。2軒隣の岡山博愛会病院(最近移転し現在は診療所のみ)の前に、十次の胸像が建っています。
(石井十次胸像)
ここも、かっては孤児院の敷地だったそうです。(石井十次については調べているうちに別の資料と現地が判明、後記の予定でしたが長くなるので、また別途の時にでも・・・)
なお、この岡山博愛会病院の母体である岡山博愛会は、米国人の宣教師アダムス女史により設立されたそうです。アダムス女史は「岡山ミッションステーション」において宣教活動を行っていた従兄のペテーをたよって1891年、25歳のときに来岡しました。以降、70歳で帰国するまで貧困地区の改善運動に取り組み、日曜学校・小学校・公衆浴場・無料診療所の開設など、日本で最初のセツルメント(隣保活動)を行ったことで知られています。
話は遡りますが、三友寺の現在は境内に本堂らしきものもなく、大きな民家が建っているのみです。裏手に回ってみますと、三友保育園がありました。孤児院とは全く違った普通の保育園でした。どこか接点があるかと探ってみましたがなんにもありません(笑)
(三友保育園)
もう一つ、話はそれるのですが、三友寺山門の脇に「ピンポン伝来の地岡山」という石碑があります。
(ピンポン伝来石碑)
この石碑によると『旧制第六高等学校の言語学教授として明治32年に来岡した英個人エドワード・カンホレットは、ここ三友寺に寄宿していた。彼の義弟にあたる山田耕作、明治19年―昭和40年はその自叙伝、「若き日の狂詩曲」の中で「義兄より、作曲・エスペラント語等と共にピンポンの指導を受けた」と記述している。これは、坪井玄道教授の日本に卓球を伝えたと言われている明治35年よりも3年早いことである。ここに、耕作生誕120周年を記念してこの碑を建立し、後世に伝えるものである。 平成18年9月9日 岡山県卓球協会』と記してありました。
近くに暮らしていても気のつかない、知らないことって沢山あるものですね。
さて、お話は本題に戻ります、博愛会病院の斜め向かいにあるのが山陽女子中学校・高等学校です。前身の山陽英和女学校は1886年10月にプロテスタント教徒によって設立されたそうです。
(山陽学園正門)
この校門から入ってすぐ右手に上代淑(カジロヨシ)記念館があります。
(上代淑記念館)
上代淑は、同じプロテスタント教徒によって設立された大阪の梅花女学校を卒業後、山陽英和女学校からの強い招聘をうけて1889年に着任しました。以来、その死の直前まで教壇に立ち続け、女子教育のために生涯をささげた女性です。
記念館の中には上代女史の胸像が設置してありました。
(上代淑先生胸像)
上代淑記念館の解説版に記されている内容です。
『山陽学園は、明治19年女子教育の先覚者ともいうべき日本キリスト教徒たちならびにその賛同者たちによって設立されました。以来一世紀の間、幾たびかの苦難を経ながらも、一貫して愛と奉仕の精神を教育理念として掲げ発展してきました。
上代淑先生は、明治22年から70年間にわたって本学園に在職され、そのうち4年間マウントホリヨーク女子大学に留学、さらに51年間校長として、生涯を女子教育に捧げられました。先生はその人格に愛と奉仕の精神を体現して、わが学園のよき校風よき伝統を築かれ、広く県民に親しまれるとともに山陽学園の名声を世に高められました。先生は今なお数多くの同窓生はもとろん学園関係者のひとしく敬慕するところであります。
先生の教えは時代を超えて揺らぐことなく、今日激動の社会にあってますます輝きをましております。いま山陽学園創立100周年にあたり、学園関係者一同、上代淑先生の遺徳を偲び、学園の一層の発展を期して本記念館を建設しました。
この記念館が末永く山陽学園のシンボルとしてここに学ぶ乙女たちをはぐくみ、上代淑先生の遺訓に培われた幾多の女性が巣立ち続けて止まないことを願うものであります。』とあります。
昭和61年8月25日 学校法人山陽学園 理事長 巽 誠三
さて、山陽学園前の「門田屋敷」から、岡山駅行きの路面電車にのります。電停「城下」の手前、高いビルにはさまれた木造の建物が【禁酒会館】です。
(禁酒会館)
明治から大正にかけて盛んであった、キリスト教徒が中心となった社会改良運動の一つである禁酒運動に結集した人たち1300人の寄付によってつくられたそうです。木造3階建て、屋根はスレート葺き。1923(大正12)年建築。禁酒運動は大正期にはいって高まり、1915(大正4年)に倉敷禁酒会が貴族院・衆議院に「酒類醸造・販売禁止請願書」を提出。その後1922年飲酒年齢を20歳からと決めた「未成年者飲酒禁止法」制定に結び付いたとのことです。
現在は、一階に聖書をはじめキリスト関係の各種書籍、CD、やグッズ類を専門に扱う本屋さんと、カフェのお店が出ています。このお店でボクの大事な「聖書」等の書籍を購入しました。
「城下」の電停から「岡山駅前」まで、ふたたび路面電車に乗ります。
新装なったJR岡山駅西口ターミナルから北へ徒歩10分のところに、中四国で最初の4年制女子大学としての歴史をもつ、「ノートルダム清心女子大学」があります。
(ノートルダム清心女子大学)
歴史が古く、1886年(明治19年)岡山市における最初の女学校「私立岡山女学校」として創立、後に「清心高等女学校」と改名されました。1924年(大正13年)ナミュール・ノートルダム修道女会アメリカ合衆国ウォルサム管区(マサチューセッツ州)から6名のシスターが来岡しこの清心高等女学校の運営を引き継ぎ、キリスト教系の女学校となったそうです。
そして、1929(昭和4年)に現在のノートルダムホール本館及び中心部に聖堂を配した東棟が落成しました。
(ノートルダムホール本館)
(ノートルダム東棟)
これら二つの建物は、日本の建築史の大きな足跡を残したチェコ人のアントニン・レーモンドの設計による建物で昭和初期のモダニズムを代表する建築物で国の登録有形文化財に登録されています。
また、1948(昭和23年)にはヘレン・ケラー女史も来校されたそうです。そして1949(昭和24年)に「ノートルダム清心女子大学」が創立されました。その教育理念は、キリスト教精神に基づいて、真なるもの・善なるもの・美なるものの追求においています。
1963(昭和38年)、渡辺和子さんが第3代学長に就任されました。渡辺女史は現在本学の理事長として、また、教育界、宗教界でもご活躍中のことは多くの方の知るところでしょう。
(清心女子大学理事長:渡辺和子女史)
理事長から頂いた言葉を引用します。
『今から460年ほど前に、日本に初めてキリスト教が渡来した時に、宣教師たちは神の愛を伝えるのに「デウスのごたいせつ」という言葉を用いました。つまり、人間は性別、年齢、能力などといっさい関わりなく「ごたいせつ」な存在だということこと、したがって自分自身をぞんざいに、粗末に扱ってはいけないということを伝えようとしたのです。
ノートルダム清心女子大学は、この宣教師たちの流れを汲む4年生のカトリック大学として、今日同じように学生の一人ひとりに、「あなたはごたいせつな存在なのですよ」と呼びかけ、学生たちの中にも、他人の一人ひとりを「ごたいせつ」に温かく見つめてゆく眼差しを育てていきたいと願っています』
このお話は、ボクが直接渡辺女史からお聞きしたものではありいありません。実は、このブログ作成のため、先日、大学構内に入り写真を撮ったりしながらうろうろしていました。おそらく事務所の職員の方ではないかと見えましたが、「どこかお探しですか?」と話しかけられました。ボクは訳をお話しブログ作成のために拝見させて頂いていることを話しました。その方は、ご親切に、それじゃこの大学の案内冊子を差し上げましょう、ということで、事務室まで案内されました。途中、学長室や渡辺理事長室も案内頂き事務室で75頁にわたる立派な大学案内書を頂きました。その冒頭に記されていた渡辺和子理事長のあいさつ文の抜粋です。
更に、写真撮影スポットなども教えていただき、さすがキリスト教系大学の方だなとそのご親切に感謝していくつかの撮影を終え心清々しく退出しました。
(構内、石掘内のマリヤ像)
(構内、マリア像)
他に、構内の各所に聖母マリア像がたたずんでいます。また、由緒ある聖堂など歴史を感じさせる建築遺産と最新設備を備えた教育環境が調和して美しい空間を構成していました。
(ノートルダムホール中央棟)
この中央棟は1995年に完成した地上12階建ての新校舎です。講義室や研究室、会議室のほか、最上階に小礼拝堂、塔屋にカリヨン(組鐘)を設けています。JR岡山駅ホームからもよく見え、当学の新しいシンボルとなっているようです。
長文、駄文、最後までおつきあいいただきありがとうございます。
次回の岡山散歩日記は、近代以降、岡山の文学者の足跡を、坪田譲治・内田百を中心に、そのゆかりの地を歩いてみたいと思っています。何時のことになるやら・・・
ものすごく詳細なお散歩記録を残されています。ほぼ、検証...驚きました。
天神町に「カトリック岡山教会」があります。私は、時々 土曜ミサに与りに行きますが...禁酒会館のCLCで時間を潰すことも。。。
倉敷に『若竹の園』という保育園があります。
http://www.city.kurashiki.okayama.jp/dd.aspx?menuid=11369
ここは、倉敷紡績の女工さんたちのために開園した保育園で、大原美術館の真南に建っています。 石井十次、大原孫三郎、キリスト教、保育園、孤児院。岡山と倉敷はリンクしていますから、機会がございましたら、この散歩の続きを是非、倉敷で。
符合するのは、「日本基督教団・倉敷教会」「若竹の園」「祐安洋館群」「大原美術館」「倉敷アイビースクエア」などですが。
ちなみに、私の姉は清心の文学部で、当時の渡辺和子学長から卒業証書を受けた年代です(-^〇^-)
今回、パピーさまが書かれた世界に自分がいるようで嬉しくなってしまいました。
ありがとうございます。
(-^〇^-)
授業や学校行事で、大学の施設もよく使っていました。
大学の建物は古い石造りで、廊下の天井もアーチになっています。
石窟のマリア像の近くの建物内部に教会がありますが、この中はとてもステキですよ。
教会で授業が行われる宗教の時間は大好きでした。(でもクリスチャンではありません)
日曜ミサやクリスマスミサには、誰でも教会に入れると思います。
理事長様も、私が現役小学生の頃には、ここの大学の学長様でいらっしゃって、よくご挨拶していました。
すごく上品な方で、声も笑顔も優しくて、みんな大好きな学長様でした。
子どもながらに、憧れのような気持ちを抱いていた気がします。
懐かしいです(^^)
でも、身近すぎて地元の人間は知らない事が多いんです。
私の地元も明治時代から続く由緒ある劇場「村国座」があって、今でも伝統の子供歌舞伎や音楽リサイタルなどがよく開催されます。
パピーさんの記事を読んで私ももっと地元の歴史について調べてみようと感じました。
天神町の教会って、新しい建物の綺麗な
教会ですよね、そこなら2,3度覗いたこと
あります。
禁酒会館の喫茶室は入ったことありません。
なんだか暗いでしょう・・・
気を付けないと何処かで遭遇するかも・・・
でも、すれ違っても解りませんよね(笑)
それが、バーチャルの世界の良い処。
倉敷も大原さんの関係でキリスト教関連施設
があるでしょうね。
地元でも知らない事が沢山あることを改めて
認識しました。テーマを決めての探索もまた
老いの楽しみでしょうか・・・
コメントありがとう
幼少時は、お嬢さんだったんだ。
今では、バイク乗りだけど(笑)
廊下の天井も見ました、建物内にも小さな
マリア像が所々にありましたね。
落ち着いた雰囲気の素晴しい学舎内でした。
懐かしい想い出のひと時を差し上げること
が出来て嬉しいです。
でも、宵っ張りですね・・・
コメントありがとう
こうして何か目的を作って散歩すれば、楽しく
散歩が出来ますよ。
遠くまで出かけなくても、毎日暮らしている
近くでも、その気になれば色んな歴史や物語
を見ることができます。
また、機会を見て「村国座」の紹介記事
など、よろしくですね。
コメントありがとう
でも、パピーさんのおかげで行ってきたような気分です。ありがとう
渡辺和子さん、笑顔のステキな女性ですね♪
ありますよね。
自分の暮らしている街に今少し感心を持つ
必要性をこの記事作成しながら感じました。
歴史だけじゃなく特有の産業とかも対象に
なりそうです。
図書館の郷土資料室へ行けばいいのだ、
ということも学びました。
「流氷が見たいです」寒がりには無理ですね。
コメントありがとう
郷土の事、知りたい好奇心ってありますよね。
北海道はほとんどの人が移り住んだという事もあって
その前の事をいつかは調べたいと思っています。
私は新潟にルーツがあります。
一度だけ通りすがった事はありますが。。。
いつか時間をかけて訪ねてみたいと思っています。
それにしても丁寧な下調べの上に構成された記事には
驚きます。
拝見しているうちに岡山通になれるかも知れませんね
散歩してみようかな~
地域の歴史の講演などは何度も聞きにいきましたが
学校の勉強としての歴史は好きじゃないけれど
自分の身近にある歴史は面白いと感じました^^
そこから広げていって
近隣の街、県・・いつか岡山にも~
なんて楽しいかもしれないです。
でも・・いつになることやらです(笑)