現在、アメリカではトランプ大統領とバイデン候補の一騎打ちが行われ、日本では日本学術会議の推薦候補を管政権が受け入れなかった件で世間の話題は持ちきりの模様です。この二つの事件には共通点があるものと推察されます。それは、国際都市の世界市民には国民国家のルールがどこまで有効か、という問題です。世界共和国憲法はまだ批准されている状況ではありませんが、一見しますと国民国家の人員よりも国際都市の世界市民が、あまりにも有利な環境となっております。ここで言葉を定義いたしますが、国民国家の人員というのは習慣に根ざし、国際都市の世界市民は経済的有利な状況で国民国家の支配からの自由を志向する存在である、とします。たとえばですよ、リベラル・フェミニストは、習慣に根ざした国民国家の人員を配偶者として認めない傾向にあるのではないか。種の俗流定義で、雌雄が配偶者となるかどうかという点を見据えますと、リベラル・フェミニストは習慣にこだわる国民国家の男性を同じ種とは見なしてはいないのではないかと思われます。リベラル・フェミニスト全てに同じ傾向が見られるという確証があるわけではありませんが、だいたいの反論は予想されます。ここで問題は、国際都市の世界市民が国民国家をどのように思っているのか、ということであります。日本国憲法は世界共和国憲法への移行を想定しているのではないかと推察されるように、国際都市の世界市民も国民国家の人員を下僕であると認識しているのではないか。もちろんこちらも確証があるわけではないのですが、げんざい日本を揺るがしている日本学術会議の問題に接していますと、国際都市の世界市民の側は、国民国家のルールに明らかに苛立っています。日本国憲法15条第1項と、日本学術会議法のどちらが有利であるのか、下流社会を生きる私には一目瞭然であるのですが、国際都市の世界市民の方々は納得していない模様です。問題は、この時代はそれぞれの人間が若い時分から優れた価値を自分の中に全力で積み上げ、経済的対価を勝ち取ることを勧められる社会であり、経済的優位にある国際都市の世界市民が、習慣にこだわる国民国家の人員に対して強い自我を抱くことへの非難が意外に難しい点にあります。そして次の問題は、ここではあえて国際都市の世界市民とリベラルをイコールで結びつけますが、彼らの唱道する市民的対等や平等と言った徳目を、彼ら自身が国民国家の人員との関係に当てはめることが少ないのではないか、と推察される面が多々あることであります。優れた存在が劣った存在となじもうとしないのです。しかしそれでは単なるほら吹きになってしまう。ですので、先の話題を元に戻しますが、国民国家のルールは、どこまで国際都市の世界市民に有効か、あるいは国際都市の世界市民のためのルールも必要なのではないか、といった観点で多くの方々が煩悶するのではありませんか。種が上位であると自覚する存在が、対等や平等を唱道している。同種というのなら、たとえばですよ、リベラル・フェミニストは国民国家の男性をもっと受け入れる必要が生まれます。彼女たちは下降婚を否定するために封建制の優性遺伝の差別性を意図的にあげつらっている。リベラル・フェミニストのみなさんは、こうした国民国家の男性からの批判に、どのようにお答えしますか。ところで、アメリカ大統領選は舌戦もたけなわですが、反トランプという風力を得てバイデン候補は自身の親中姿勢を隠す戦略の模様ですが、欧米は日本よりずっと強い反中の風向きですから、実際に大統領選に勝利をしても早晩行き詰まる可能性もあるのではないか。オールド・メディアは買収されているものと推察されますが、一部の意見で賭サイトを持ち出してバイデン有利とみていますが、営利団体である以上どこも買収が進んでいる状態にも推察されるものです。日本の日本学術会議の問題は、もし憲法15条第1項よりも日本学術会議法が優位だと考えるのでしたら、左派はぜひ管政権を裁判で訴えるべきであります。率直に言いますと、国際都市の世界市民には国民国家の法律はどこまで有効かという問題は、グローバル経済が一方的に発展をし、彼らが国民国家のルールを過小評価しているという問題であると愚考いたします。人間は自分を中心に社会の発展を願いますが、互いに自分が中心だと考えることで争いが生まれます。アメリカ大統領選に意見をすることは他者の目にはアメリカへの内政干渉として映るかも知れません。しかし日本国内の日本学術会議の問題につきましては、憲法23条学問の自由を憲法15条第1項に対して優位だとするとしても、自由というのは責任を持って自分の仕事を拡大する姿勢の中に生まれるものであります。日本の国際都市の世界市民の方々は、日本のルールに対して無責任です。中世の貴族には社会的規範がありましたが、国際都市の世界市民のみなさんは、封建制の優性遺伝を差別的であると排除することでご自身が富を築かれる大義名分にしてしまいましたね。封建制の優性遺伝が社会の秩序を組み立てることに暴力は必要とされましたが、国際都市の世界市民のみなさんはそうした積極的な抑圧を否定されました。暴力の行使には憎悪を晴らすだけでなく責任感が背景にあったのだと思われますが、無責任な自由への志向は混乱以外に、なにを生み出すのでしょうか。
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