電気通信の源流 東北大学 7.東北大学工学部電気工学科の創設
大正8年、「大学令」が施行され、私立大学、公立大学、単科大学が生まれることになった。帝国大学の分科大学が、それぞれ学部制に改められた。このとき、東北大学にも、理学部より8年遅れて工学部が設置された。
新設の工学部は応用化学、機械、電気の3学科で開講した。創設時の教授は平山毅(40歳)、八木秀次(33歳)、抜山平一(29歳)である。いずれも東北帝大工学専門部教授からの移籍であった。
八木は、講義では他大学と同様に強電工学も教えるが、研究では弱電工学を中心とすることを提唱した。
「市電も走っていない仙台で電車工学を研究しても役に立たない。それよりも仙台では、日本が遅れている電波や電話研究をやろう。弱電の研究は強電の研究よりも金がかからないから、世界最先端の研究ができる。力を合わせて10年やれば、弱電では世界一流の大学になれる」と言ったという。
八木は抜山を工学専門部時代から弱電研究に引き込んでいた。抜山は、八木と入れ替わるようにしてアメリカに留学、ハーバード大学で電気音響学を研究した。抜山は電話振動板研究の大家となり、八木と共に東北大の電気工学科を引っ張る存在となったが、後に八木が大阪大学に転出した後は東北大電気の「天皇」となるのである。
八木が電気工学科をあげて弱電研究を推進する体制を作っても、当初、学界はもとより学内でさえも理解されなかった。大正9年に日立製作所と三菱電機が設立、12年には富士電機が創設されたが、これらはすべて強電メーカーであった。東北大の学生は真空管など弱電の研究ばかりやっていることで、自分たちの就職に不安を抱く者もいた。これに対し
「間もなく日本にも真空管の時代が来る。就職の心配はさせない。」
「大学の研究は世の中にすぐ役立つものであってはいけない。世の中に先駆けた研究をやる者は世の中には理解されないが、責任を自覚して進まなければいけない。それが新しいものをやろうとする者の道なのだ」
と言いきかせた。半分は自分自身に言いきかせていたのかもしれない。
<6.弱電と強電
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます