勘太郎爺奮闘記

滞在合計26ケ国、21年の海外生活が終りました
振り返りながら 日々の生活も綴ります

1978年カタール赴任

2017-10-25 | 風景・地形2

アメリカ留学に失敗し、くさっている折(1978年)、中東のカタール赴任となった。
 

カタールは中東のサウジアラビアの東のペルシャ湾に突出た半島の小さな国です。一般の人には1993年10月のサッカーワールドカップ予選でのドーハの悲劇で知られるようになりましたが、ほとんど、この国のことは知られていなかった。      

 

南北約160Km、東西は広いところで約80Km、国土面積は約1,1430平方Kmで、日本の約10分の3です。秋田県とほぼ同じくらいです。
古くは、メソポタミヤで栄えたアッシリア帝国(紀元前2500年~紀元前605年)、その後の数々のペルシャを支配した王朝に支配されていたようです。インドとこれらの王朝が交易を行っていた時の寄留港であったように思われます。
 

商業規模の石油埋蔵は1939年に確認されたが、第2次世界大戦の為、1949年まで待たねばなりませんでした。また、港、道路、輸送、通信など産業基盤をゼロから構築しなければならなく、1950年代に近代国家としての主要開発(発電所、道路、病院、学校など)が開始されました。
ドーハなどの都会では古い建物はほとんど残っておりません。スーク(市場)、博物館などに利用されている建物などに見られるだけです。

 


西側のドハーン(Duhkan)の油田地帯からは原油が産出され、油及び随伴ガスは、ドーハの約45Km南のウムサイド(Ummsaid)にある精油所、天然ガス液化プラント、肥料プラント、直接還元製鉄プラント、石油化学プラントなどに送られています。
また、1974年に,ロイヤル・ダッチ・シェルによって発見された,世界最大級の ノース・フィールド・天然ガス田を誇り,2016年12月時点において,年間輸出能力7,700 万トンを超える,世界最大のLNG(液化天然ガス)輸出国となっている。  

 

赴任した折は、まだ発展途上で、Ummsaidでは、警察、モスク、工場、会社の社宅などがあるが、我々は、キャンプのコンテナで作った小屋で、寝泊まりしてました。

 

1980年代のドーハ(Doha)

 

 

Doha・Ummsaid間の砂漠の中の道路

 

ドハーン油田地帯の随伴ガス(自然に燃えている)

 

Ummsaidのキャンプに残飯をあさりに来る放牧ラクダ。

 

日の出とともに、放牧場に向かうラクダ。

 

 

Ummsaidの天然ガス処理場

 

冬場には温度が下がると共に、濃霧が出て、完全に前方が見えないくらいになります。夜、ドーハに向かう道を車で走っていると、目の前に突然、ラクダが現れたりして衝突する事故があります。ラクダは1Ton近くもあるので、ラクダが車の上に乗かってしまうと車も潰れ運転手も押しつぶされることになり、大変危険です。

ラクダとぶつかった時はそのまま突っ走れと言われてました。本当か嘘か知れませんが、そうすれば、ラクダの足をすくい押しつぶされるのを免れると。道路で、潰れた車を何度か見ましたが、私はそんな事故には幸い遭わなかった。

砂嵐の時にはラクダの集団はすべて同じ方向を向いて座っています。目に砂が入るのを避けて、風下を向いて座っているのです。その光景は面白いものがあります。

 

 

 

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