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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

神田旅籠町会

2007-05-13 10:24:03 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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神田旅籠【はたご】町は、昌平橋【しょうへいばし】の北側にあたり、中山道【なかせんどう】の第一の宿場である板橋宿【いたばししゅく】、日光御成街道【にっこうおなりかいどう】の宿場町である川口宿【かわぐちしゅく】への街街道として、旅籠【はたご】が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町【はたごちょう】」と呼ばれるようになりました。「ハタゴ」とは旅の食物雑品【しょくもつざっぴん】を入れる籠【かご】のことです。
 
 また、この土地には有名な寺子屋【てらこや】の、「芳林堂【ほうりんどう】」がありました。芳林堂【ほうりんどう】は、有馬藩士金子政成【かねこまさなり】が安政4年(1857)に開業しました。その後に火災にあって旅籠町【はたごちょう】に移ってきました。芳林小学校【ほうりんしょうがっこう】(現在の昌平【しょうへい】小学校)の名前も、この芳林堂【ほうりんどう】に由来していると言われています。現在この地は、日本の最先端を行くIT産業のメッカとなっています。
 
 町会の該当区域は、外神田一丁目1番地5~7号、3番地、4番地1~8号、18~23号、5~9番地及び外神田三丁目1・12・13番地となっています。


 当町会の神輿は昭和33年に南部屋五郎右衛門【なんぶや ごろうえもん】によって作られました。平成17年3月13日に神輿を、2尺5寸から2尺7寸へと大きくし、ますます迫力を増しました。当町会の御輿の迫力を感じて下さい。総勢300名の担ぎ手により、宮入します。
また今年は、いつもは裏方を勤めている婦人部の皆様が初めて宮入で担ぎます。



外神田三丁目金沢会

2007-05-13 10:15:57 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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金沢町【かなざわちょう】は神田明神下にあり、御成街道【おなりかいどう】に沿った町屋【まちや】でした。1657年の明暦【めいれき】の大火【たいか】以前は東本願寺【ひがしほんがんじ】の境内地【けいだいち】でした。その後は加賀【かが】金沢藩前田家の中屋敷【なかやしき】となりました。加賀藩は、藩主の居城【きょじょう】が金沢にあったことから「金澤【かなざわ】藩」ともいわれていました。つまり、外神田三丁目に「金澤【かなざわ】」という町名が伝わるのは、かつて加賀藩の藩邸【はんてい】があったからである、といわれています。

 前田家の上屋敷は、天和【てんな】2年(1682)の火事で類焼【るいしょう】し、幕府に没収されます。その翌年になると、湯島一丁目の職人や商人たちがそこに代地を与えられて移転してきましたが、金沢という町名はそのまま受け継がれていきました。  

 町会の該当区域は、外神田三丁目2・3・4・11番地となっています。


 当町会の神輿は昭和36年に宮本重義【みやもと しげよし】により作られました。美しい神輿、迫力の担ぎぶりをご堪能下さい。



神田同朋町会

2007-05-13 10:05:52 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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同朋町【どうぼうちょう】会は、明暦【めいれき】の大火【たいか】以前までは寺地【てらち】でしたが、明暦【めいれき】の大火【たいか】(1657)後に寺地を外に移し、幕府同朋衆【ばくふどうぼうしゅう】の屋敷としました。「同朋【どうぼう】」というのは、室町時代に始まり、幕府の雑務【ざつむ】、茶事【ちゃじ】を務めた僧体【そうたい】の小史【しょうし】のことをいいます。江戸幕府では、城中における大名の案内・更衣【こうい】・刀剣【とうけん】の上げ下げ・茶弁当【ちゃべんとう】の世話をし、将軍外出の際には、長刀【なぎなた】を持って従っていました。

 同朋町会北隣の妻恋坂【つまごいざか】を挟んで妻恋神社【つまごいじんじゃ】があります。この神社は同朋町と文京区の妻恋町【つまごいちょう】(湯島三丁目)の二町会で昭和52年から共同管理しています。同朋町は妻恋神社【つまごいじんじゃ】の氏子町会【うじこちょうかい】にもなっていて、平成8年3月に新調した神輿【みこし】の屋根紋【やねもん】には、妻恋神社、神田明神両方の御紋【ごもん】を付けて、同年5月の神田明神例大祭に「担ぎ初め」をしました。

 町会の該当区域は、外神田二丁目【そとかんだにちょうめ】10~15番地、6丁目1・2番地及び3番地3・4・7・8号となっています。


 当町会の神輿は平成8年に新しく作り直しました。宮本重義【みやもと しげよし】の作品です。当連合の中でも、一番新しい神輿です。美しい仕上がりの中にも下町の落着きを調和した風情【ふぜい】になっています。



外神田四丁目田代会

2007-05-13 09:56:13 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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田代町【たしろちょう】は、江戸時代中頃までは武家屋敷【ぶけやしき】でしたが、寛政【かんせい】5年(1793)の大火【たいか】で神田川周辺にあった町が燃え、町の一部が火除地【ひよけち】となりました。翌年、その町に住んでいた人々が、御成道【おなりみち】の旗本【はたもと】永井 伊織【ながい いおり】の屋敷跡【やしきあと】を代地【だいち】として与えられて移転してきました。当初は「神代町【じんだいちょう】」としましたが、あまりにも名前が立派すぎるので「神田代地【かんだだいち】」を省略して、「田代町【たしろちょう】」と改めました。

 町内には花房稲荷【はなぶさいなり】が祀【まつ】られています。現在の社【やしろ】は戦後、地元住民が再建したものですが、神社そのものは江戸時代からこの地にあったとされ、古くから地域のシンボルとして人々に親しまれています。 現在も4月にお祭りをしており、田代町の人々が大切に守っています。

 町会の該当区域は外神田四丁目2~6番地となっていなす。


 当町会の神輿は、昭和35年に生まれました。他の神輿に比べ、引き締まっている作りです。当町会の神輿に是非ご注目下さい。



外神田三丁目末広町会

2007-05-13 09:51:21 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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末広町【すえひろちょう】は、明治2年(1869)に「神田平永町(かんだひらながちょう)・神田山本町(かんだやまもとちょう)・柳原岩井町(やないはらいわいちょう)・麹町平川町(こうじまちひらかわちょう)の代地」を合併し、設立しました。

 末広町【すえひろちょう】と五軒町【ごけんちょう】(現在の末広町交差点付近)にあった辻番所【つじばんしょ】は御府内【ごふない】随一との評判でした。辻番と言えば、川柳【せんりゅう】に『辻番は生きた親父の捨て所』とあるように、大概【たいがい】、老人と決まっていました。しかし、この辻番所では番人を雇う際に、武芸【ぶげい】の心得のあるものを厳選して選考し、日々稽古を怠【おこた】る事がなかった、といわれています。事件があれば六尺棒【ろくしゃくぼう】で応戦し、逃亡者がいればその棒を投げて足に絡ませて倒していたそうです。

 また、明治5年(1868)5月の薩長連合軍【さっちょうれんごうぐん】と彰義隊【しょうぎたい】との戦いの始まりは、この辻番所前【つじばんしょまえ】で開かれたものである、といわれています。

 町会の該当区域は、外神田三丁目5~10番地、及び14~16番地となっています。


 大正15年、神田名匠【めいしょう】、「だし鉄【てつ】」作の神輿です。大きさは2尺3寸です。屋根金梨【きんなし】造りで、神田神社氏子町会で現存する神輿の中では一番古い神輿です。