神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

多町一丁目町会

2005-05-15 15:35:00 | 神輿(中神田十三ヶ町連合)

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 さぁ、とうとう中神田十三ヶ町連合の最後となりました。多町一丁目町会の宮入りです。

 田町一丁目は江戸時代は、神田堅大工町(かんだたてだいくちょう)とよばれ、大工職・左官職・屋根屋等の職人が多く住む町であった、といわれています。また江戸名物と言われた「纏屋治郎右衛門(まといやじろうえもん) 」の店があり、江戸でただ一軒の纏屋でありました。町火消しの旗印たる「纏」はいずれもこの店で造ったものであり、「いろは」四十七組はもとより、他の地方の分までも一手に手掛け、その名は広く知れ渡っていた、といわれています。
 
 町会の道路下には、東京都指定史跡である「神田下水」が埋設されています。この下水は明治17年に、一般市民の衛生や都市環境を改善する目的に、近代工学に基づいて建設された我が国初の近代下水道と、いわれています。その構造は現在の下水道管とは異なり、レンガで積まれ強固に築かれています。
 
 町会の該当区域は内神田三丁目7、12~14、17、18、22、23番地となっています。



旭町町会

2005-05-15 15:27:00 | 神輿(中神田十三ヶ町連合)

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 旭町町会の宮入りです。

 江戸時代、この辺りは出羽(でわ)秋田藩藩主佐竹義宣(さたけよしのぶ)及び能楽師幸若太夫(こうわかだゆう)の屋敷地でした。天和(てんな) 2年(1682年)の大火でこの付近一帯が焼失した後、佐竹氏は下谷(現台東区)三味線掘(したやしゃみせんぼり)に移転し、跡地は町人地となり、永富町(ながとみちょう)二~四丁目、新革屋町代地(しんかわやちょうだいち)、元乗物町代地(もとのりものちょうだいち)の一部となりました。明治2年(1869年)、これらの地域は「旭町」と改名されました。 「旭町」の由来は佐竹氏の家紋「扇に日の丸」に因んでいる、といわれています。

 町内にある『佐竹稲荷神社』は寛永12年(1635年)に江戸佐竹候藩邸内の創建と伝えられ、同町の鎮護の神として丑寅の一隅に安置されていましたが、大震災後の区画整理の際に現在地(内神田三丁目10番地)に移されました。

 昭和41年に住居表示が実施されると、内神田二丁目(うちかんだにちょうめ)と三丁目(さんちょうめ)の一部となり、旭町の名前は地図から消えてしまいましたが、昔を語り継ぐように町会の名前として今でも存続しています。

 町会の該当区域は内神田二丁目8、9、13、14、16番地、内神田三丁目5、6、8~11、15、16、24番地となっています。



内神田美土代町会

2005-05-15 15:12:00 | 神輿(中神田十三ヶ町連合)

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 内神田美土代町会が宮入りしてまいりました。

 内神田美土代町会は、江戸時代は武家地と町人地でした。武家屋敷としては五代将軍徳川綱吉(つなよし)の側近として活躍した柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が屋敷を構えていました。そのほか、老中や若年寄を輩出した由緒正しい武家の屋敷が軒を連ねていました。武家屋敷だけではなく、商人や職人が住む町屋もありました。江戸時代の美土代町(みとしろちょう)周辺は重要な武家屋敷地でもあり、新たな風俗・流行を生み出すこともできる、懐(ふところ)の深い町でした。

 明治時代以後は、鹿児島藩邸、姫路藩邸となりました。明治2年(1869年)に三田古河町、麻布永坂町、麻布今井町、鮫河橋北横町等の代地となり、町名を新三河町としました。明治5年(1872年)には町名を美土代町一丁目に改め、武家地を同二・四丁目、元々の町人地を同三丁目としました。

 町名の由来は、この周辺に伊勢神宮(いせじんぐう)にささげるための稲を育てる水田「みとしろ」があったことにちなんで、生まれたものであるとも、「神田」を訓読みすると「みとしろ」になるため「美土代町」とした、ともいわれています。

 昭和10年(1935年)の区画整理により、周辺を「美土代町」としました。明治期の美土代町は、一~四丁目まである広大な町域をもっていましたが、時代を経るに従い、その範囲は狭くなっていきました。現在の千代田区神田美土代町が誕生したのは昭和二十二年(1947)のことです。

 町会の該当区域は美土代町及び内神田一丁目2~4・12~15番地となっています。


須田町北部町会

2005-05-15 15:00:00 | 神輿(中神田十三ヶ町連合)

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 須田町北部町会が宮入りしてまいりました。
 
 「須田町一丁目」(北部)は昭和8年に「旧須田町二丁目、旧須田町一丁目北一部、旧淡路町二丁目東大部」が合併して出来ました。
 
 この辺りには、かつて、甲武鉄道(現中央線)の始発駅である、万世橋駅(現交通博物館)があり、東京で一番交通の便利な場所でした。須田町交差点の雑踏ぶりは「親知らず子知らず」と称されるほどで、交通巡査が日本で初めて立ったのもこの須田町交差点であった、といわれています。
 
 また、須田町北部町会には出世稲荷神社があります。祭神には倉稲魂命を祀り、町内の鎮守神であった、といわれています。現在の社殿は昭和3年に完成したもので、毎年9月15日に祭祀を行っています。
 
 町会の該当区域は須田町一丁目1・3・9・~25番地までの奇数番地と、淡路町一丁目2・4番地、淡路町二丁目2~12までの偶数番地となっています。


淡路町一丁目町会

2005-05-15 14:53:00 | 神輿(中神田十三ヶ町連合)

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 淡路町一丁目町会が宮入りしてまいりました。

 江戸時代のはじめ、この地には将軍家と関係が深い寺院がありました。観音坂(かんのんざか)を下りきったあたりに「西福寺(さいふくじ)」「西念寺(さいねんじ)」がありました。西福寺は慶長(けいちょう)3年(1598年)、徳川家康が故郷の三河(みかわ)から呼び寄せた寺です。

 神田淡路町一丁目(かんだあわじちょういっちょうめ)と名付けられたのは明治5年(1872年)になってからです。この名前は、鈴木淡路守(あわじのかみ)の屋敷があったことから名付けられたという「淡路坂(あわじざか)」に由来しています。

 当町会は、昔からのしきたりを尊重することを大切にしている町会です。

 町会の該当区域は淡路町一丁目の奇数番地となります。