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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

須田町中部町会

2007-05-13 13:16:00 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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 須田町中部町会【すだちょう ちゅうぶちょうかい】は「神田青物市場【かんだ あおものいちば】」発祥の地として有名です。水運【すいうん】を利用して神田川沿いの河岸【かし】や鎌倉河岸【かまくらがし】から荷揚げされた青物【あおもの】が、15,000坪(約4万9500㎡)におよぶ広大なこの青物市場【あおものいちば】で商【あきな】われていました。

 江戸、そして東京の食生活を支え続けたこの市場は、昭和3年には秋葉原西北【あきはばらせいほく】に、平成2年には大田区へと移転しました。それでも、現在の須田町町内【すだちょうちょうない】には、東京都の歴史的建造物に指定されるような老舗商店が数多く営業しています。須田町は、江戸からつづく活気あふれる商いの伝統が、いまだに息づく町です。
 
 町会の該当区域は須田町一丁目2~14番地までの偶数番地となっています。


 当町会の神輿は元祖女神輿【おんなみこし】です。昭和52年より女性のみの女神輿を続けてきました。女性ならではのきらびやかな神輿担ぎをどうぞ、御覧下さい。


大手・丸の内町会

2007-05-13 13:02:14 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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江戸時代この界隈【かいわい】は、江戸の中心地として発展し数々の大名屋敷が立ち並んでいました。また、かつて、この地には神田明神の創祀【そうし】の場所である、「将門塚【まさかどづか】」がありました。

 この丸の内一帯が大きく変貌【へんぼう】をとげたのは明治23年(1890)になります。陸軍が一帯を三菱社【みつびししゃ】に払い下げ、以後、三菱社【みつびししゃ】は大規模な再開発をしました。地域内の道路整備を行い、続々【つぎつぎ】と洋風の建築物を建てていきました。赤レンガの建築物を中心としたそれらの建物が、ロンドンの景観を思わせるようであったといわれています。

 さらに大正3年(1914)には東京駅も完成しました。第一次世界大戦による空前の好景気を追い風とし、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長を遂げました。

 こういった歴史を持つこの界隈が、正式に「まるのうち」と呼ばれるようになったのは昭和4年に、丸ノ内一~三丁目という町名が誕生してからのことです。そして昭和45年、町名の表記が片仮名の「 ノ」(丸ノ内)から平仮名の「の」(丸の内)へと変更され、現在に至っています。

 当町会は、この地域に所在する企業・団体及び商店等を会員として、昭和32年に設立されました。

 当町会の該当区域は、丸の内一・二・三丁目、大手町一丁目及び二丁目となっています。


 平将門公【たいらのまさかどこう】を思わせる勇壮【ゆうそう】な姿を、とくと御覧下さい。
 江戸時代よりご祭神【さいじん】・平将門公がお乗りになった神輿が関東大震災で焼失して以来、80年ぶりの復活です。この神輿は、史蹟【しせき】将門塚保存会【まさかどづか ほぞんかい】の参与【さんよ】法人会員を務め、大手町・将門塚の隣接する三井物産株式会社より地域社会との交流・史跡旧跡【しせき・きゅうせき】の保存・伝統文化の継承による町おこし・社会貢献活動の一環として史蹟【しせき】将門塚保存会に寄贈【きぞう】された神輿です。一般的な神輿の形式とは異なる「入母屋造【いりもやづくり】」で台輪【だいわ】3尺5寸の大神輿です。当町会内で働く男女、総勢950名の担ぎ手により宮入りします。日本有数の大手企業人の心意気を宮入参拝の担ぎで魅せます!



神田猿楽町町会

2007-05-13 12:45:46 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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猿楽町【さるがくちょう】は古来、芸術文化に関係の深い町です。

 今でいう「能楽【のうがく】」は、江戸時代には「猿楽【さるがく】」として、武士達に親しまれていました。「猿楽【さるがく】 」は芸術性を高め、江戸幕府の儀式の際に用いる音楽・舞踊【ぶよう】に指定されました。猿楽師の一人で、徳川家康と縁が深かった観世(かんぜ)座家元、観世太夫(かんぜだゆう)や、一座の人々の屋敷が現在の神田神保町(かんだじんぼうちょう)一~二丁目から西神田(にしかんだ)一~二丁目のあたりにあったことから、この一帯に「猿楽町【さるがくちょう】」という町名が生まれた、といわれています。

 他にも、文学では、夏目 漱石【なつめ そうせき】が青春時代にこの地の近くに住み、町内の錦華【きんか】小学校(現お茶の水小学校)に在籍していました。芥川 龍之介【あくたがわ りゅうのすけ】も恩師の下宿がこの町内にあったため、たびたび訪れていたといわれています。音楽においては、現在の東京音楽大学のもとである、東洋音楽学校が明治40年、猿楽町【さるがくちょう】に設立され、日本の音楽文化近代化に多大な影響をもたらしました。また、猿楽町は経済同友会代表幹事、北城 恪太郎【きたしろ かくたろう】氏、脚本家、大石 静【おおいし しずか】さんが生まれ育った町でもあります。
 
 猿楽町と駿河台【するがだい】の間に、男坂【おとこざか】・女坂【おんなざか】と呼ばれる2つの坂があります。いずれも大正13年(1924)につくられた坂で、男坂は七十三段、女坂は八十二段を数えます。どちらの坂も一気に上ると息が切れるほどの急傾斜ですが、女坂の途中には踊り場があり中休みできるのに対して、男坂のほうは踊り場がなく、より厳しい上りになっています。そのため、七十三段の坂は「男」、少しゆるやかで長い坂は「女」と呼ばれるようになったとのことです。

 町会の該当区域は、猿楽町一・二丁目全域となっています。 


 当町会の神輿は、名工といわれた後藤直光【ごとう なおみつ】氏によって、昭和8年に作られた由緒あるものです。台輪【だいわ】寸法2尺の繊細で豪華な彫刻は、今では見受けることのできない見事なものとなっています。

 この神輿は町会員や他の地域から馳せ参じる家族・親族、神輿好き、神輿同好会メンバー等、約300名によって担がれています。



錦連合

2007-05-13 12:44:31 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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錦連合【にしきれんごう】は「錦町二丁目町会【にしきちょう2ちょうめ ちょうかい】、錦町三丁目町会【にしきちょう3ちょうめ ちょうかい】 、錦町三丁目第一町会【にしきちょう3ちょうめ だい1ちょうかい】 、小川町三丁目南部町会【おがわまち3ちょうめ なんぶちょうかい】」の4つの町会の連合となっています。

 「錦町【にしきちょう】」の名前の由来は、かつて、「一色【いっしき】 」という旗本屋敷が二軒あったことから、あわせて「二色【にしき】 」または「二色小路【こうじ】」と呼ぶようになり、明治に入り「錦町【にしきちょう】 」と改められました。

 これらの町会は、明治以降、教育機関が立ち並ぶ文教【ぶんきょう】の町として発展を続けました。

 かつては学習院大学、一橋大学の前身である高等商業学校がありました。また、「英吉利法律学校【いぎりすほうりつがっこう】(現中央大学)」もこの地で開学しました。明治10年(1877)には、東京開成学校【とうきょう かいせいがっこう】と東京医学校【とうきょう いがっこう】が合併し「東京大学」が創立されました。電機学校(現東京電機大学)は、昭和に入りこの町内に移ってきました。その他、「東京外国語大学 」や「学習院」、「共立女子大学【きょうりつじょし だいがく】」など多くの優秀な学校がひしめきあっています。

町会の該当地域は、錦町二丁目、錦町三丁目全域、小川町二丁目1・3・5番地となっています。


 当町会の神輿は錦二【にしき2】と錦三【にしき3】の神輿を交互に使用しています。毎回、900~1000人前後の担ぎ手が参加する、大変大きな連合神輿です。
宮入の熱気もさる事ながら、午後2時頃から予定されています、神田中央連合の駿河台下【するがだいした】交差点での神輿振りは必見です。


小川町連合

2007-05-13 12:25:07 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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小川町連合【おがわまちれんごう】は小川町三丁目西町会【おがわまち3ちょうめ にしちょうかい】、小川町北部一丁目町会【おがわまち ほくぶ1ちょうめ ちょうかい】、小川町北部二丁目町会【おがわまち ほくぶ2ちょうめ ちょうかい】、小川町北三町会【おがわまち きた3 ちょうかい】の4つの町会の連合となっています。

 戦前小川町全地域は一つの町会であったが、靖国通りを境に北部と南部の二つに分離され、その後昭和22年に小川町北部町会が四町会に分割され、今の状態になりました。

 小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将、太田 道灌【おおた どうかん】が「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹【ねぜり】をあらひこそすれ」と詠んでいます。

 明治時代、小川町には西洋料理店やビリヤード場、小川町警察署などがあり、学生たちで賑わう街でした。また、町内で生まれ過ごした昭和期の小説家、永井 龍男【ながい たつお】を輩出した街です。

 町会の該当区域は小川町一・二・三丁目のほぼ全域となっています。


 戦後、子ども達にとってこれといった楽しみが無かった頃、神田祭は非常に待ち遠しいものでした。
当初町会には、子ども神輿と中神輿、そして太鼓の山車があり、子どもの数も多かったので活気に満ちていました。しかし、子ども達も大きくなってくると大きな神輿が欲しくなり、有志が集まり趣意書を作り、毎月の定額積み立てを2年間続け、ついに昭和61年3月に2尺5寸の大神輿を調製しました。
それ以来、祭の度に町会員やその知人が多数集まり、賑やかに楽しくお神輿を担いでいます。