
猿楽町【さるがくちょう】は古来、芸術文化に関係の深い町です。
今でいう「能楽【のうがく】」は、江戸時代には「猿楽【さるがく】」として、武士達に親しまれていました。「猿楽【さるがく】 」は芸術性を高め、江戸幕府の儀式の際に用いる音楽・舞踊【ぶよう】に指定されました。猿楽師の一人で、徳川家康と縁が深かった観世(かんぜ)座家元、観世太夫(かんぜだゆう)や、一座の人々の屋敷が現在の神田神保町(かんだじんぼうちょう)一~二丁目から西神田(にしかんだ)一~二丁目のあたりにあったことから、この一帯に「猿楽町【さるがくちょう】」という町名が生まれた、といわれています。
他にも、文学では、夏目 漱石【なつめ そうせき】が青春時代にこの地の近くに住み、町内の錦華【きんか】小学校(現お茶の水小学校)に在籍していました。芥川 龍之介【あくたがわ りゅうのすけ】も恩師の下宿がこの町内にあったため、たびたび訪れていたといわれています。音楽においては、現在の東京音楽大学のもとである、東洋音楽学校が明治40年、猿楽町【さるがくちょう】に設立され、日本の音楽文化近代化に多大な影響をもたらしました。また、猿楽町は経済同友会代表幹事、北城 恪太郎【きたしろ かくたろう】氏、脚本家、大石 静【おおいし しずか】さんが生まれ育った町でもあります。
猿楽町と駿河台【するがだい】の間に、男坂【おとこざか】・女坂【おんなざか】と呼ばれる2つの坂があります。いずれも大正13年(1924)につくられた坂で、男坂は七十三段、女坂は八十二段を数えます。どちらの坂も一気に上ると息が切れるほどの急傾斜ですが、女坂の途中には踊り場があり中休みできるのに対して、男坂のほうは踊り場がなく、より厳しい上りになっています。そのため、七十三段の坂は「男」、少しゆるやかで長い坂は「女」と呼ばれるようになったとのことです。
町会の該当区域は、猿楽町一・二丁目全域となっています。
当町会の神輿は、名工といわれた後藤直光【ごとう なおみつ】氏によって、昭和8年に作られた由緒あるものです。台輪【だいわ】寸法2尺の繊細で豪華な彫刻は、今では見受けることのできない見事なものとなっています。
この神輿は町会員や他の地域から馳せ参じる家族・親族、神輿好き、神輿同好会メンバー等、約300名によって担がれています。