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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

神保町一丁目町会

2007-05-13 12:22:36 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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江戸時代、この界隈【かいわい】には武家屋敷が立ち並んでいました。明治5年(1872)に表神保町【おもてじんぼうちょう】 、裏神保町【うらじんぼうちょう】などの町が誕生しました。大正11年(1922)に通神保町【とおりじんぼうちょう】と改称した後、表神保町、表猿楽町【おもてさるがくちょう】等とともに、昭和9年(1934)、神保町一丁目【じんぼうちょういっちょうめ】となりました。さらに昭和23年(1948)、神田区と麹町区【こうじまちく】が合併して千代田区ができると、現在の神田神保町一丁目になりました。
 
 町名の由来は、元禄【げんろく】年間(1688~1704)のころ、旗本【はたもと】の神保 長治【じんぼう ながはる】が広大な屋敷をかまえ、そこを通っていた小路【こうじ】が「神保小路【じんぼうこうじ】 」と呼ばれるようになったためといわれています。

 神保町一丁目町会は、靖国通りの南側にあり、町の東西に古書店街で有名な「神田すずらん通り【どおり】」が走っています。
この通りの名前は街路灯がスズラン式に変わったことから名付けられました。街路灯【がいろとう】が変わった理由は、明治20年頃、この辺りの道は「おばけ横町」や「怪物横町【かいぶつよこちょう】」と呼ばれたくらいに、人通りのない恐い道であり、暗く恐い道を少しでも明るくしようとしたものだといわれています。現在ではそのスズラン灯も無くなってしまいましたが、その名前だけは今も変わらずに残り、広く愛されています。
 
 神保町は神田すずらん通りに代表されるように、『本の街』ともいわれています。大型新刊書店や大小無数の古書店がひしめいて、独特の雰囲気を醸【かも】し出しています。その他にも、各国料理店、寿司、ラーメン屋など、食の充実にも目を見張るものがあります。戦前、戦後の歴史とともに歩んできた多くの老舗【しにせ】は、再開発で街の景観が一変した今も、なお健在です。

 町会の該当区域は、神保町一丁目1~41番地までの奇数番地、101・103・105番地となっています。


 平成15年江戸開府400年を記念し、浅草、宮本卯之助【うのすけ】商店より新調しました。台座【だいざ】2尺3寸、重量330キロ、担ぎ手200名で宮入します。神田中央連合の宮入参拝の帰途、午後2時頃より駿河台下【するがだいした】交差点にて神田中央連合が集結し、神輿振り【みこしぶり】が行われます。



岩本町三丁目町会

2007-05-13 11:52:42 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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 岩本町【いわもとちょう】は「旧岩本町と東龍閑町【ひがしりゅうかんちょう】と東松下町の一部」が合併して、昭和8年に誕生しました。
 
 江戸時代の初め、この界隈【かいわい】は沼地で、雁渊【かりふち】や笹原【ささはら】と呼ばれていました。

 この地域に最初に住んだのは、大名や旗本【はたもと】などの武士たちでした。江戸時代の後半になると、商人や職人で町も栄えはじめます。さらに神田川の南側の柳原【やなぎはら】土手の周辺では、古着を扱う露店が集まるようになりました。

 その伝統は、明治維新後も引き継がれました。明治14年(1881)、現在の岩本町三丁目の一部から神田岩本町の一部にまたがる古着の大市場【だいいちば】が開設されます。「岩本町古着市場【いわもとちょうふるぎいちば】」と呼ばれたこの市場には、多いときには400軒もの古着屋が軒【のき】を連ねていたといわれています。

その後は、戦前、戦後を通じ既製服の一大集散地となり、全国のデパートや小売店にはこの町から出荷された商品が並びました。

 現在は数こそ少なくなってきましたが、岩本町三丁目を支え、町の礎【いしずえ】を築いてきたのは繊維業者であり、岩本町は日本の繊維業界とともに発展してきた町です。 

 町会の該当区域は、岩本町三丁目及び神田岩本町全域となっています。


 当町会の神輿は、東京浅草の当代一級【とうだい いっきゅう】の神輿師【みこしし】、宮本重義【みやもと しげよし】氏の第一号特注品です。昭和28年5月に完成しました。台輪幅【だいわはば】は2尺5寸、高さは7尺8寸になります。
 作風は唐破風漆塗【からはふ うるしぬり】神社型、鳥居他、昇り龍、降り龍【おりりゅう】彫刻、極彩色【ごくさいしき】仕様となっています。豪華絢爛【ごうかけんらん】で神田明神氏子、百八ヶ町【ひゃくはっかちょう】でも最高の傑作となっています。



岩本町一丁目町会

2007-05-13 11:42:08 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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岩本町一丁目【いわもとちょういっちょうめ】は、かつて東福田町【ひがしふくだちょう】 、材木町【ざいもくちょう】 、東今川町【ひがしいまがわちょう】 、亀井町【かめいちょう】の4つの町に分かれていました。
 
 これらの町は昭和40年7月の住居表示の実施により、合併して現在の「岩本町一丁目」になりました。「竜閑川【りゅかんがわ】」は終戦後に三度【みたび】埋められ、現在に至りますが、江戸の頃より変わらないのは、この川筋を神田と日本橋の境界としていたことです。現在は千代田区と中央区の区境となっています。

 町の北側を通る「金物通り【かなものどおり】」の名前が示すように、かつては金物問屋が軒を並べて、竜閑川【りゅかんがわ】を利用した木材の運搬とともに物流の中核地でした。

 町会の該当区域は、岩本町一丁目全域となっています。


 当町会の神輿は昭和31年、市川行徳【いちかわ ぎょうとく】の神輿師【みこしし】、十四代浅子周慶【あさこ しゅうけい】により造られました。大輪【おおわ】寸法2尺3寸の大神輿で、黒漆塗り【くろうるしぬり】の屋根には神田明神の御神紋【ごしんもん】が光ります。約300人の担ぎ手により宮入を行います。その後、秋葉原中央通り「お祭り広場」の神輿天国に連合で参加します。昨日、5/12は14時30分から神田東紺町会・神田松枝町会・神田大和町会と、16時からは東神田町会・東神田豊島町会と連合渡御を行いました。



神田東紺町会

2007-05-13 11:31:16 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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 江戸時代、この界隈【かいわい】は、町人と武士の屋敷が混在している地域でした。このあたりにあったのは、神田紺屋町三丁目【かんだこんやちょうさんちょうめ】 、神田紺屋町一丁目代地、本銀町会所屋敷【ほんしろがねちょうかいしょやしき】 、神田佐柄木町【かんださえきちょう】代地、永富町二丁目【ながとみちょうにちょうめ】代地といった町々でした。

 明治2年(1869)、これらの町が合併して「東紺屋町【ひがしこんやちょう】」となりました。

 「紺屋」という町名は、江戸時代から明治時代にかけて、紺屋頭【こんやがしら】の拝領地【はいりょうち】であり、藍染【あいぞめ】職人が住んでいて、染物業【そめものぎょう】が盛んであったことに由来しています。

 昭和22年、神田区と麹町【こうじまち】区が合併して千代田区が成立すると、町名の頭に「神田」が付き、神田東紺屋町【かんだひがしこんやちょう】となりました。その後、昭和40年の住居表示の実施の際に、神田東紺屋町【かんだひがしこんやちょう】の一部は神田松枝町【かんだまつえだちょう】 、神田大和町【かんだやまとちょう】 、神田東松下町【かんだひがしまつしたちょう】の一部、神田元岩井町【かんだもといわいちょう】の一部と合併して、岩本町二丁目【いわもとちょうにちょうめ】となりました。

 当町会の該当区域は、東紺屋町【ひがしこんやちょう】及び岩本町二丁目1~4番地となっています。


当町会の神輿は浅子周慶【あさこ しゅうけい】により造られました。大きさは2尺と、町会と同じく、決して大きくはありませんが、神輿を取仕切る青年部と担ぎ手総勢300名が一体となり、宮入りでの勢いは他町会に決して引けをとりません。そして、なんといっても新調した青年部の ”帯【おび】”、五分田柄【ごぶたがら】東紺【とうこん】の”扇子”、首にかけた”掛け寄り”、そして頭に巻いた”東紺の手拭”、等に注目して御覧下さい。
我々、東紺町会の仲の良さは”神田一”です!



東神田豊島町会

2007-05-13 11:21:18 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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東神田豊島町【ひがしかんだとしまちょう】は、かつて豊島町【としまちょう】と呼ばれていました。

 豊島という町名の由来は、町奉行が「この一帯が属している豊島郡【としまぐん】には豊島村【としまむら】という地名がすでにあるが、それとは別に豊島町【としまちょう】という町名があってもいいだろう」として名付けられたといわれています。

 江戸時代、このあたりには「比丘尼横丁【びくによこちょう】」や、髪油【かみあぶら】として美男葛【びなんかずら】の油を売る店もあったことから俗に「桂横丁【かつらよこちょう】」と呼ばれた通りもありました。そのほか、銘茶屋【めいちゃや】、菓子屋、水油【みずあぶら】仲買【なかがい】等がありました。

 明治になると、旅館、砂糖商【さとうしょう】等が集まり、大変賑わっていました。その賑わいが現在にも続いていて、大変活気のある町会となっています。

 当町会の該当区域は、東神田一丁目6~11番地、東神田二丁目1~7番地、岩本町三丁目6番地8~13号、14号の一部、11番1・2・3号の一部となっています。



 当町会の神輿は浅子周慶【あさこ しゅうけい】によって造られました。台座【だいざ】3尺となっています。2年前に修理と化粧直しを行い、さらに、その輝きを増しました。また、濃緑色加工を施した渋めの大鳥(鳳凰)に特徴があります。総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。