かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

スマホは便利だけど、すぐに熱くなるのが困る

2019-08-14 12:05:00 | ブログ記事

最近はフォロワーさんの記事はスマホで読ませていただくことが多い。

なぜかというと、

スマホだと、「いいね」とか「応援」とか「続き希望」とか「役に立った」とか、

その時の気持ちが押せるから。

パソコンでもできるのかもしれないけれど、やり方がわからないから、

私は、フォロワーさんの記事はスマホで読ませていただくようにしたのだ。

が、困ったことが一つある。

それはスマホはフォロワーさん3人か4人の記事を読ませてもらったくらいで、

体温以上の熱さになって、読み続けられなくなることだ。

それと、

私の場合、パソコンは食堂に、スマホは寝室に置いてあるんだけど、

フォロワーさんの記事を読ませてもらおうと寝室も冷房入れっぱなしになって、

夫に今朝もったいないと叱られてしまったことだ。

こう暑いと、

常時いる食堂は一日中クーラー入れっぱなしなんだけど、

ときどき横になる寝室も冷房しておかないと横にもなれない。

我が家は、夫の仕事部屋も冷房するし、

昨日は、夫の作業する部屋まで冷房していました。

たった二人家族なのに4部屋も冷房するなんて、贅沢すぎですよね。

でも、この暑さだもの。仕方ない?

入れっぱなしでも、せいぜい1か月間くらいだと思うから、

他のところでは倹約するとしても、

冷房だけはしないと我慢できない私です。

あら、スマホの話から冷房の話になってしまいました。

外は暑い。家の中も暑い。スマホは熱くなる。

本当に困った夏だ。

*

★困るのはすぐ熱くなるスマホなり数記事読めば体温超える

★暑さにはからきし弱いわたくしに冷房倹約など考へられぬ

★冷房を止めよといふは死ねといふことに等しい暑がりなれば

★おしやれには金をかけざる妻ゆゑに冷房くらいは文句を言ふな

★仕事してくれてはゐるが儲けてはゐぬらし趣味か君の仕事は

朝もサンドイッチを作って待っていたのに全然降りてこない。

どうしたのかと聞いてみると、仕事に熱中していたという。

そんなに熱中できることがあって幸せですね。

できたら少しでも儲けてくれたら、私も幸せになれるのですが・・・。

★作りおくサンドイッチが干からびしころに降りくる人が夫で

★熱くなるスマホも困るが熱くなり食事を忘れる夫も困る


ロシアが北方領土を奪ったのも、中国が北海道を買い占めているのも

2019-08-14 05:46:39 | ブログ記事

昨日書いた羆が開拓農民の住む小屋を襲って人間の女を食べたのも同じことのように思える。

羆は、ただ越冬をするための食糧が欲しかっただけのことである。

ロシアが北方領土を奪ったのは軍事的に欲しい場所であったから奪っただけのことである。

中国の資産家が、現在、北海道の水源地を買い漁っているのは、

日本の水道事業の民営化を見越してのことではないか。

中国人というのは利に聡いから。

それに対して、日本は、あまりにも無防備すぎる。

これでは、北海道の三毛別で人間の女が羆に食われた状況と同じだ。

あの惨劇は人間が羆の生態を知らなかったのが原因だと言われているが、

いま北海道が中国の牙にかかって食われようとしているのに、

対策を講じないのは、羆に開拓村の女性が食べられたのと何ら変わりない。

そう、鉄砲を持たないで掘っ立て小屋に暮らしているままの状態なのだ。

政府は、もっと本腰を入れて、これらに対する対策を講じてほしい。

政治家も、自腹を肥やすことばかりにうつつを抜かすことなく、

日本のこれからのことをしっかり考えいただきたい。

これは北海道だけにとどまらず、いずれ本州にも毒牙は伸ばされるかもしれないのだから。

現在の香港の暴動を他山の石として、

日本があのような事態にならないように対策を講じていただきたい。

中国がどれだけ恐ろしい国かということは天安門事件でも十分証明されたし、

現在は、香港を見本として、日本がそうならないように心を引き締めるときである。

気が付いたら、

日本が新疆ウイグル族自治区やチベット自治区のように中国に支配されていた

などということに決してならないように、

しっかり守っていただきたい。

*

★香港を他山の石として日本警戒すべし中国の牙

★ほしければ何でもしてくる国と知れ中国、ロシア覇権の国は

★北海道奪はれ次は東北が奪はれ東京までが奪はる

★日本は西日本のみ残されて首都は大阪あるひは名古屋

*

何でも民営化にする国策は間違いである。

郵政事業を民営化して現在郵便局は大変な状況になっているし、

国鉄が民営化されて、日本の誇るべき鉄道網は寸断されまくって、

地方の過疎化の遠因にもなっている。

この上、水道事業まで民営化されたら、日本人の命まで危うくなる。


暑さのせいか、毎日信じられないくらい疲れている

2019-08-13 18:20:06 | ブログ記事

今日も昼食後お昼寝をしてしまった。

起きたら、夕方である。

元気な夫は朝ご飯のあとテニスに行った。

私は大したことをしなくても、ひどく疲れる。

こうして毎日blogを書くから元気そうに見えると思うが、

私にとって、blogを書くのは呼吸するくらい簡単なことである。

それより、ただ生きているだけでこれほども疲れる。

今も怖い夢を見て目覚めたから呼吸が早い。

呼吸が早いから怖い夢を見るのか、怖い夢を見るから呼吸が早くなるのか。

録画で見た「三毛別羆事件」も関係しているだろうか。

若い頃のお盆の頃の嫌な思い出も蘇る。

また長年短歌をやっているのに、

後から入った人たちに偉そうにされたり、言われたりしたことも思い出す。

こういうことを思い出すから呼吸が早くなるのか、呼吸が早いからこういうことが思い出されるのか。

いずれにせよ、心臓は人より弱い。

毎朝、大量の薬を飲みながらやっと生きている命だ。

かといって、主婦だから怠けてばかりいるわけにはいかない。

また怠けているのは、自分の健康のためにもよくない。

先月絶交した歌友に元気だと言われたが、

私のは空元気である。

実際は、すぐにくたばる。

よく旅行をするから元気だとも言われたが、

元気を奮い立たせるために旅行しているようなところもある。

でないと、寝込んでしまいそうだから。

私は長生きはしたくない。

が、難しいことだとは思うが、死ぬまで元気でいたいと思っている。

そんな願いを叶えてもらいたくて、今日も亡くなった父、兄、母にお願いすることにしようと思う。

*

★長生きはしたくなけれど死ぬまでは元気でゐたい頭も足も

★父、兄と母にお願いしてをりぬ死ぬまでわれを元気なままに

★明日死にて構わぬ命であるけれど死ぬまで歩けて考えられて


三毛別(さんけべつ)羆(ひぐま)事件(閲覧注意)

2019-08-13 12:30:27 | ブログ記事

録画してあった番組で北海道の貧しい開拓地での「三毛別羆事件」を知った。

此の世の中にこんな恐ろしいことがあるのかと考え込まされてしまった。

ただでさえ厳しい北海道の条件の悪い開拓地で、

こんな悲惨な出来事がなぜ起こるのだろうと考えていると、

神様はどういう思惑があって、こういうことをなさるのだろうとも思った。

当時は本州の貧しい人たちが率先して北海道の開拓に赴いていたのだろう。

その北海道でも、平地の多い部分は既に開拓されつくしていたから、

彼らは条件の悪い苫前郡苫前村三毛別六線沢という山に囲まれた細長い土地の開拓を始めた。

もともと貧しい人たちであるから、家も掘っ立て小屋のような粗末なものであった。

冬は収穫したトウモロコシを家の外の軒に干して冬の間の食糧にしていたらしい。

それをその六線沢が生息地であった羆(ひぐま)が狙うようになった。

その事件のあった大正4年の12月は、

たまたま冬眠し損ねた雄羆がこのトウモロコシを狙って来るようになっていたらしい。

冬眠し損ねたのは、

その羆があまりにも図体が大きすぎて適当な穴がなかったのかもしれないと言われている。

そして、たまたまその日、その家の主の不在時に

その熊を見てしまったその家の妻が悲鳴を上げたことがきっかけになって、

羆に小屋に侵入され、

まずその家の6歳の子が殺され、

その後、

その家の主婦が懸命に応戦したにもかかわらず、

殺されただけでなく、その肉を食べられてしまった。

その羆は以前も女性を食べたことのあった羆であったことが後でわかったが、

そのときも、

その主婦を殺して口に咥えて運び自分の冬の食糧にしようと雪の中に埋めていたらしい。

が、ここから、また新たな事件は起きた。

そのままにしておけば、それで終わっていたが、

当時も日本人には遺体を見つけて葬式をする風習があったから、

住民たちは、その殺された主婦の遺体を山の奥まで探しに行き、見つけ出して葬式をあげた。

が、羆にとっては、その主婦の遺体は、

彼が自分が冬の食糧にしようと雪の中に埋めてあった自分の肉(遺体)であったから、

その主婦の遺体(肉)を取り返そうと、その葬式をしていた現場に戻ってきた。

そこから次々と新たな被害者が出た。

私は番組を見ながら震え上がってしまった。

ただでさえ貧しい粗末な家に暮らしている人たちが、

なぜこんな残酷な目に遭わないといけないのかと見ていて苦しくなった。

この事件に関心を持たれた方は、

ウィキペディアに詳しく載っていますから、ごらんください。

三毛別羆事件

(かなりショッキングな内容ですので、自己責任でお願いします)

 

*

★ただでさへ厳しき冬の北海道開拓民を襲ひし羆(ひぐま)

★鉄砲も持てぬ人らに人を食ふことを覚えし羆おそひ来

★三メートル超えし巨体の羆きて粗末な小屋の壁は壊さる

★生きたまま食はれしといふ主婦もゐて雄の人食ひ羆の悲惨

★悲鳴聞き雄の羆は人間の女弱しと襲ひ食ひたしか

★女性のみ食はれし事件その肉は男性よりも旨かつたのか

★住民は恐れ慄(おのの)き逃げ出して住民のゐぬ森とはなりぬ

★野生とはかくも野蛮なこと後の語り草とし三毛別事件

*

女性ばかり襲ったということは、

女性の肉がおいしかったのか、あるいは、女性は弱いから襲いやすかったのか。


昔はお盆の間は海とか川で泳いではいけなかった

2019-08-13 06:04:32 | ブログ記事

お盆に近づいてきてから各地で水の事故が相次いでいる。

私達の子供の頃は、

お盆の間は死んだ人が足を引っ張るから海とか川で泳いではいけないと言われていた。

高知県では、こういうふうに言う大人が大半だったと記憶するが、

最近は、そういうことを言う大人はいないのだろうか?

それとも、ああいうふうに子供に言うのは高知県だけだったのだろうか?

迷信のような話だが、

しかし、台風の来るシーズンだから、

見た目、大丈夫そうに見えても、

波が高くなったりして危険が潜んでいるのだろう。

子供の頃は、

お盆とかお正月は親族が集まって先祖を拝むのが常だった。

私は嫁いで来て、義母に一方的に押し付けられたから、

現在は、お盆には嫌な思い出しか残っていないが、

子供の頃は楽しいことも多かった。

が、最近では、そういう風習は廃れて自由になった反面、

海とか川に対する恐れも薄くなったような気がする。

こういう事故のニュースを聞くと、

やはり昔から言われていることは守ったほうがいいような気がする。

というか、

お盆に入るころは暦の上で秋が立っているのだから、

もうあまり海とか川で泳がないほうがいいのかもしれないとも思ったりする。

まだまだ昼間は暑いけれども、

台風が近づくこともあり、

また昼間がだんだん短くなってくることもあって、

立秋を過ぎたら山で冷を取るようにしたほうがいいような気がする。

*

★海川で泳いでならぬと言はれこしお盆はむかしのことになりぬる

★お盆には死者が子供の足つかみ溺れさすとぞ聞きにし昔

★お盆でも泳ぐ世になり海川でおぼれる者の多くなりゆく

★台風の高波これがたくさんの大人子供を攫ふ理(ことはり)


着ぐるみのマスコット人形はいらない

2019-08-12 18:33:11 | ブログ記事

以前、夫の知人から着ぐるみのマスコット人形のことを聞いたことがある。

夏場、あれを被ろうとすると、

着た人の汗が浸み込んでいるから猛烈に臭いのだそう。

それを聞いてから、マスコット人形を見てたも可愛いと思えなくなった。

一昨年の8月にユニバーサルスタジオ大阪に孫と行ったとき、

時間は限られていたけれど、

炎天下を着ぐるみ人形が歩いていた。

私は「さぞ暑いだろうな」と思うばかりでた、見ても楽しめなかった。

それが数日前は

ひらかたパークで着ぐるみをしていたアルバイトの男性が熱中症で亡くなったと聞き、

ますますああいうマスコット人形の存在を疑問に思う。

だいぶん前にも、

東京ディズニーランドでも

熱中症になった着ぐるみの人が無音の救急車で運ばれるという話を聞いたことがある。

そのとき、なぜそんな危険なことをさせるのかと腹立たしく思ったことを覚えている。

あんなことを生きている人間にさせるべきではない。

もし、どうしてもマスコット人形が必要だというのなら、ロボットで代用させればいい。

その命は地球より重いと言われている人間にさせることはないのだ。

ああいうテーマパークで働くことを希望する人もいるようだが、

何も命の危険を冒して着ぐるみにならなくても、

テーマパークにはもっと安全な仕事はあるだろう。

人命軽視はどんな場合も許されることではない。

*

★夏真昼着ぐるみを着てゐる人を見て気の毒なれば楽しめざりき

★実態を知れば着ぐるみ人形が可愛く思へることはなくなる

★死者ひとり出れば十分着ぐるみの仕事をなくす理由とならむ

★冬場のみ着ぐるみさせてよしといふ決まり作りてバイトを守れ 


お盆の続き

2019-08-12 07:52:57 | ブログ記事

一昨日の「今日は朝一番にお坊さんが」の続きである。

今でも思い出すと鬱になるほど、義母や義妹の私に対する無理難題はひどかった。

私が世間知らずの嫁であったことをいいように利用されたとしか思えない。

私には盆、正月の帰省はご法度であったのに、

義母は自分はよく同窓会とかに高知に帰っていた。

私を帰らせなかったのは、自分に既に実家がなかったから、

妬ましくてたまらなかったと、これは後年、私に白状したことだった。

それでいて、

一度わたしがお盆の帰省のとき義母を誘ったら、いそいそ付いてきたことがあった。

が、帰省の切符は全部、嫁の私に買わせた。

そして当時はまだ本四架橋がなされていなかったら、

しばしば大阪から高知行のフェリーを利用した。

義母と一緒に帰省したときも、フェリーの切符を私が購入した。

すると義母は、フェリーの中で、

「こんな2等船室なんて」と宣わった。

私には、これだけでも当時薄給だった夫の給料から買うのは精いっぱいだったのに?

義母は、私が1等船室を準備しなかったことを詰ったのだった。

それで、高知から大阪に帰るときは、

私達親子は、帰りも安いフェリーにしたのだが、

義母は、自分だけさっさと航空券を買って一人で川西に帰ってしまった。

その後、私は一人で二人の幼子を連れてフェリーで帰った。

そのとき、義母の私に言った言葉、

「私は歳をとっているのだから、楽しても許されるの」だった。

歳とっていると言っても、当時の義母は、まだ50代だった。

私達からお金を取るだけとって、自分は何でも贅沢した。

義母が亡くなったときは、

帽子だけでも帽子屋が開けるくらいあった。

その帽子も、洋画に出てくるようなおしゃれな帽子ばかりだった。

自分の身を飾ることには糸目をつけない義母であった。

それでいて、私が安物の服を買うことを軽蔑した。

私は、内心、「どこからそんなお金が出ますか」と思っていた。

当時、義父の会社は儲かっていなかった。

それで、義父の一番上のお姉さんがたびたび資金援助をしてくれていた。

伯母さんは、自分は贅沢をしない人だったから、

義母の贅沢が我慢ならなかったようで、

しばしば大阪からタクシーを飛ばして川西まで来た。

すると、当時赤ちゃんだった夫の弟が泣き叫んでいて、

義母の姿がない。

義母は夫の弟を寝かしつけて映画を観に行っていたのだった。

ダンスも習いに行っていたらしい。

それが伯母さんには許せなくて、

しばしば大阪から川西までタクシーを飛ばして様子を見に来ていたのだった。

伯母さんは医家に嫁いでいたからお金には困っていなかった。

が、自分は贅沢をしないで、

私が嫁いで来てからも、私に、四季折々の服を買ってくれたりした。

義母は、自分の服は買うけれど、私に買ってくれたことは一度もなかった。

それでいて、異常に姑風をふかすのだった。

里帰りは許さないし、お金のいることは全部われわれに押し付けてくるしで、

親らしいことは何もしてくれなかった。

そのころは、私も世間知らずであったから、義母の言いなりであった。

が、最近、思い出しては憤っている。

義父のお姉さんの怒りもよくわかる。

義父のお姉さんは自分の子供がいなかったから、

義父の子供である夫の兄弟をかわいがった。

夫や義妹の学資もかなり援助してくれたと聞いている。

それなのに、伯母さんが子育てについて義母に何かいうと、

義母は、

「私の子供ですから、自分の考え通りにします」と伯母さんに返したらしい。

要するに、義母は、出すべきものだけ出して口は出すなと言いたかったのだろう。

それなのに、嫁の私には、

出すべきものは何も出してくれずに、口だけは他所の姑の何倍も出してきた。

私達がマンションを買った時も、

「子供が家を買うときに援助してやれないなんて、こんなに悔しいことはない」と

テーブルを叩いて怒った。

私は、義両親から一円も出してもらえないことが自分の落ち度のようにうなだれた。

それでいて、義弟が東京で広い4LDKのマンションを買うとき、義母は援助した。

そのころ我が家は子供が3人になっていて3LDKのマンションでは狭すぎたから、

そのことを襲る襲る言うと、

義母は、

「文化アパートに住んでいる人もいるというのに、なんと贅沢なことを言うか」

と私を一喝した。

あの悔しかったことはいまだに忘れられない。

そんな悔しい思いをさせられたのに、

認知症になった義母の世話は私一人に任された。

義妹など、私がこの家に来てから一度も来なかった。

それでいて、私に文句をつけるのは、義母以上である。

義妹は、未だに、嫁の私には無理難題を言ってもかまわないと勘違いしている。

私は、喧嘩するのは嫌だから、できるだけ付き合わないことに徹している。

*

★長男の嫁は損する存在で義母義妹には利用のみさる

★たまに来る次男の嫁は大切なお客様らし手伝ひもせず

★葬式の下働きもすべてわが仕事となりて長男の嫁

★大勢の食事の準備もわが仕事義父の葬式親戚くれば

★食費だしご飯つくりて損ばかりそれを押し付けられて長男

★東京の次男の嫁は子供まで長男嫁のわれに押し付け

★長男の嫁は我慢を強いられて溜まり溜まりて鬱を発症

★我慢することは美徳にあらざるとこの頃おもふ七十超えて


もうすぐ75歳になる夫の元気なことと言ったら

2019-08-12 04:50:21 | ブログ記事

もう本当に驚く。

昨日は、私は疲れ果てて帰宅後、動けなくなっていたが、夫は割合平気な様子だった。

それに、記事にも書いたが、昨日の朝は、ご飯を4杯もお替りした。

早朝、泊まった宿の周辺を散歩してお腹が空いていたのだろう。

その後、宿を出て、また山道を1時間ほど歩いた夫だ。

私は山道で歩けなくなると困るから、休憩所で夫を待ったことはこれも記事に書いた。

その後、バス、電車を乗り継いて帰宅したのだが、

私は、そのまま横になり、動けなくなった。

夫が晩御飯を食べに行くかと聞いてくれたが、それもできなほどの疲れ様だった。

が、さすがにお腹が空いて、

夜中の12時まえにご飯を炊いて仏様にお祀りをしてから食べようと思っていた。

が、そのまま、また今まで眠ってしまった。

夫は、帰宅してから、また2階で仕事をしていたようだった。

わが連れ合いながら、本当に元気だと驚く。

日ごろの鍛え方が違うからだろうか。

私は、今から昨夜炊いたご飯に梅干しで朝ご飯をいただきます。

昨日は、とにかく疲れた一日であった。

*

★歳の差は四歳ありぬ年上の夫は四倍元気われより

★食べられぬほどに疲れし昨日の電車の中の暑さそのほか

★歩かずに待つのみなりしわたくしの足が動かぬことはなにゆゑ

★食べ物も受け付け得ざるわれとなり梅干しのみで今食べむとす

★旅は好きされどここまで疲るれば何しに旅に出るかわからず


真夏の旅行は夜行高速バスに限る

2019-08-11 21:30:15 | ブログ記事

夕方奈良県天川村の旅から帰宅した。

今回は奈良県という近場への旅だったから、行き当たりばったりでいいと思っていた。

それと、夫が車で行ってくれると目論んでいた。

が、出発前の私との行き違いでつむじを曲げた夫が電車で行くと言い出した。

ちょっと嫌な予感はしたが、

たまには電車もいいかと出発した。

が、電車を乗り継いていく旅は思った以上に疲れた。

電車も特急とかにすればよかったが、

倹約して急行で行ったから、もう暑さでへとへとになった。

その点、高速夜行バスだと、

出発が夜だから、暑さもさほどでないし、

移動中も夜だから暑いことはない。

そして、朝、目的地に到着するから、朝から行動できる。

夏はたいがい涼しい場所に行くから、朝から涼しい。

いろいろなことを考慮して、私の場合は夜行バスが一番都合がいい。

もちろん資金が潤沢にある人の場合は、この限りではないと思うが・・・。

*

★夏昼間移動する旅わたしには耐えがたきかなもろの暑さが

★特急は使はず旅をしたければ夜行バスこそわれに最適

★電車バス乗り継ぎ旅をせしあとは疲れが過ぎて動けずなりぬ

★旅好きであれど予算のかけられぬわたしの旅のお助け夜行

*

昨年の今日、私は夜行バスで軽井沢に来ている。

軽井沢ペンション~軽井沢駅~浅間山鬼押出しへ


朝ごはん〜御手洗渓谷

2019-08-11 08:01:54 | ブログ記事
夫は早朝に洞川温泉周辺を散策したようでしたが、

私は夜中に起きていて、朝方眠ったので、一緒にいくことができませんでした。



朝食です。
 
甘露煮のお魚はニジマスだそうです。

完食です。

夫はご飯を4杯もおかわりしました。(@_@)

デザートです。


昨日は気づきませんでしたが、川の向こう側が龍泉寺だったんですね。塀の部分がそうです。


朝食後、赤い橋の下まで来ました。

逆光になっているからわかりにくいですが、右手の建物が[あたらしや]さんで、その食堂が見えています。

川水に足を浸けてみました。


水が冷たくて気持ちいいです。笑


夫は、これから旅館を出て御手洗渓谷まで歩こうと言うのですが、歩けるかな?ドキドキ💗

が、結局、バス停留所一つ分でもかなりの距離を歩かないといけないから、バスで来ました。

看板を見ると、山道を往復1時間歩く必要があるようなので、これも夫だけに行ってもらうことにしました。


夫はこの橋を渡って山に入っていきました。



橋の下では、たくさんの親子が遊んでいます。

降りようかと思ったけれど、梯子で降りなければならないようなので、これも無理は禁物とやめました。

いま橋のたもとの休憩所で休んでいますが、標高800メートル以上の山の中なので涼しいです。


御手洗渓谷のちずです。



夕食です

2019-08-10 17:57:49 | ブログ記事
窓からの景色です。川水がきれいです。




焼き立ての鮎です。

おいしかったです。


鹿のたたきだそう。↓

食べるのはちょっと怖かったけれど、おいしかったです。

食べかけてから、写してなかったことに気づいて写しました。↓


天ぷらです。


どれもこれもおいしかったけれども、食べきれずにいくつか残してしまいました。

自宅だったら、食べきれなかったものはおいておいて翌朝いただいたりできるのですが、ごちそうをもったいないですね。

デザートです。これは別腹で食べられました。


夫は大満足だったようです。

評判通りおいしかったし、宿の方は感じのいい方ばかりでした。

洞川八幡宮〜面不動鍾乳洞〜龍泉寺

2019-08-10 14:23:31 | ブログ記事
天川村全域マップです。

洞川温泉街の地図です。


いまから面不動モノレールに乗って、

面不動鍾乳洞で涼んできます。


モノレールから温泉街がのぞめます。

鍾乳洞の中は天然のクーラーで、涼しいと思います。


思った以上に涼しかったです。

鍾乳洞の中でも撮影したけれど、どういうわけか写真が消えていました。これも真夏のスリラー?😳

代わりに、大峰山奥駈け道の地図でも。

夫は帰りは歩いて下りると山道に向いましたが、足に自信のない私は帰りもモノレールで下りることにしました。


旅館に帰る途中に龍泉寺という立派なお寺があったから、写真を写させていただきました。


比較的新しい阿吽像も立派でした。↓

池の水の透明度が違います。

赤い欄干も写しました。

こんな山の中にこんな立派なお寺があることは奇跡のように思えましたが、

旅館に戻って、旅館の人にお聞きすると、この天川村は村全体がパワースポットなのだそう。

(ご参考)桜井職子さんの「天川村」のことを書かれた記事です。

https://ameblo.jp/holypurewhite/entry-11462525534.html

私は、たまたま一昨日予約させていただきましたが、これも何かのご縁なのかもしれません。

標高の高いところばかりを探していて、ヒットしたのが、この[あたらしや]さんでした。

たまたま一部屋空いていて、大変評価の高い宿だったので、迷わず予約させていただきました。

天川村の歴史です。

南朝に関係した土地なのですね。



近鉄下市口駅〜洞川温泉

2019-08-10 12:14:10 | ブログ記事
車で来る予定をしていたら、夫がもう一日は車中泊をしようと言い出した。

断ると、夫は「じゃ、電車で行こう」と言い出して、阪急、地下鉄、近鉄と乗り継いで吉野の下市口駅まで来ました。

地下鉄は御堂筋線の天王寺駅で降りて近鉄あべの橋駅の吉野線に乗り換えるのです。

地下鉄御堂筋線はクーラーが効いていたのでしたが、

近鉄あべの橋駅吉野行きホームが異常に暑く私は倒れそうでした。

近年はどこも酷暑だから、大勢の乗客の待つ駅には絶対に冷房の効いた暑さ避難室を作るべきです。

でないと、電車を待っている時に倒れる人も出ると思います。

近鉄の路線図です。

電車に乗っても、停車駅のたびにドアが開けっ放しになるから冷房が効かず、私は電車を降りた段階で、かなり疲れていました。

近鉄は、これに対しても何らかの対策を立てるべきだと思います。

近鉄下市口駅です。↓



駅前のバス路線図を撮影しました。↓


これから洞川温泉行きのバスに乗り換えて、奈良県天川村の洞川温泉まで一時間あまりバスに揺られます。


着きました。


ずいぶん山奥なのに立派な温泉街です。

大峯山の修験者が登山する前に泊まる旅館街のようです。

日差しは強いですが、日陰に入ると涼しいです。軽井沢のような感じです。



こちらが今日泊めていただく[あたらしや]旅館さんです。↓



今日は朝一番にお坊さんが

2019-08-10 05:01:43 | ブログ記事
我が家はお坊さんの回られる順番の最初のようで、若いお坊さんが毎年朝8時半に来てくださる。

前のお祖父さんのお坊さんの時は7時半だったから、まだましだ。

前のお坊さんの頃は義母がお祀りをしてくれていたが、私達は大阪から7時半までに川西に到着していなければならなかったから大変だった。殊に次男がまだ赤ちゃんの頃は。

それなのに、年寄りのお坊さんは7時半より早く来られて、私達が到着する前に既に帰られた後、ということが多かった。

そんな嫌な思いをさせられてきたから、私は、お盆だからといって子どもたちに招集をかけない。

それがよいことであるかどうかはわからないが…



私達が大変な思いをしてきても、義母はお茶のひとつ出してくれるわけでもなく、私達は過分のお供えをお供えして拝んで、すごすご帰るのが常であった。

それでいて長男の嫁は盆と正月に実家に帰ることはまかりならぬと言われ、夫がサラリーマンだった我が家は盆も正月も帰省することが許されなかった。

いま思い出しても何のための招集だったかと思う。

お供えを供えるための?と疑問を抱いたこともあった。

あのころの義母は私達長男夫婦がどんな時も義母にお金を差し出さなければ許さなかった。

私達がどんなに経済的に逼迫していても···。

お盆になると、あの頃の辛かったことが次々思い出されて涙が出てくる。

このことは、毎年書いているが、また今年も書いてしまった。