隠れ家-かけらの世界-

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こぼれ落ちる個々の思い~『海を飛ぶ夢』~

2007年06月06日 19時49分09秒 | 映画レビュー
海を飛ぶ夢』(2004年、監督・アレハンドロ・アメナーバル)
(ゴールデン・グローブ賞 外国語映画賞、ゴヤ監督賞・脚本賞・主演男優賞 受賞)


■想像の中で海を飛ぶ
 若いときの海での事故で首から下の自由をまったく失ってしまったラモンは、26年間ベッドで寝たきりの生活を送る。
 彼はなぜか車椅子を嫌う。以前に否応なく車椅子での外出を余儀なくされたとき、彼を説き伏せるのが大変だったと、家族は語っている。
 尊厳死を望み、裁判を起こした際、同じように四肢の自由をなくしている神父が車椅子でラモンを訪ね、死の決意を翻らせようと「無神経な説得」(ラモンからすれば、ということだが)をするシーンがある。善意の行動のはずだが、なぜかその善意が悲しくも滑稽に描かれているのだが。
 ラモンもそんなふうに車椅子を使えば少しは世界を広げられるのに、と思ってしまうのだが、それが浅はかな健常者の想像であることがわかる。彼は想像の中で、そう、頭の中で、鳥のように空を飛び、海を渡り、風と遊べる。好きな女性の頬にキスもできる。
 そのシーンに私たちは心を打たれる。せつないけれど感動する。走ることも歩くことも、好きな人と手をつなぐことも当たり前にできる私たちの想像を遙かに超えて、海の上を飛んでいく。
 「ここからは海が見えなくて残念ね」と言われて、ラモンは笑う。彼にとっては海での事故の記憶がつらいのかとも思ったが、そうではなく、彼は目で見るより鮮やかな海の光景の中を飛ぶほうを選択していたのかもしれない。


■家族と、彼を愛した女性たち
 テレビで見た予告編では、ナレーションで「みんな、ありがとう」的なフレーズと、彼の死に協力する友人たち(あるいは支援者?)の存在が印象的に強調されていたように覚えているのだけれど、本編はそういう流れではなかったような。
 そのあたりの周囲との関係は、むしろ小気味いいくらいに乾いて描いている。
 老いた父親、兄夫婦とその息子との日常が“ふつうに”営まれている。
 兄の妻は感情を表に出さずに、ラモンの世話をする。疲れているようすに、こちらは勝手にその苦労に同情したりする。でも、「彼が死を望むのは家族の愛が足りないからだ」とテレビで発言した神父の言葉に、はじめて「怒り」の言葉を発する。ラモンのもとを訪れることで日常の疲れを癒しているかにみえる若い女性を張り合うように、弟の世話をしたりする。「息子のように愛している」という言葉に胸をつかれる。
 兄夫婦の息子はまだ人生も人の悲しみも知らない。祖父のことを「役立たず」と言って、ラモンにさとされる、「お前はいつか、その言葉を発したことを後悔するだろう」と。「なぜ?」と問う目は、老いも衰えも侵入できないほどに純粋で幼い。
 家族の中で兄だけは、ラモンの尊厳死の決意を受けとめられずにいる。ラモンは知的な人だが、兄は粗野な男だ。だけど、その単純さの中に、きっと彼の愛がある。
 人権擁護団体の支援者ジェネの、明るく毅然としたようすに、私たちは救われる。子どもを授かり、出産をして、死のテーマの映画の中で唯一の「生」を見せてくれる。
 尊厳死の訴えの弁護をするフリアは、静かで知的で美しい女性だ。不治の病をかかえていて、ラモンと交流をもつうちに愛し合うようになる。自分も一緒に死ぬことを約束し、ラモンの詩集の見本ができたら、それをもって帰ってくるから待っていて欲しい、と。
 しかし、本は郵便で届けられ、フリアは現れない。失望するラモン。彼女はなぜ現れなかったのだろう。映画の中では、それは語られていなかったように思う。穏やかに支えてくれていた夫との生活を選んだのか…。
 ラモンが支援者たちの援助で望みどおり死の世界に旅だったあと、ラストシーンはフレアとジェネだ。
 ジェネが静養しているフレアのもとを訪れる。「ラモン」の名前を出しても、フレアの顔にはなんの表情も浮かばない。

■法律では決められない部分
 裁判では、ラモンの尊厳死の訴えは退けられる。結局、彼は支援してくれる何人かの人が誰も裁かれないように、細切れに役割を分けて、そして自らが青酸カリをストローで飲むところをビデオにとり、誰にも迷惑をかけないように亡くなる。
 「生きていても、何もいいことはなかった」という彼の独白は強烈だ。きれいごとではない真実がさらされる。
 あの日、海の底に頭を打ちつけて浮遊していたとき、そのまま助けられなかったなら、という思いを消すことはできずに、26年間、想像の海を飛んでいたのか。
 ラストシーンで、ジェネはフリアにラモンからの手紙を届ける。「いつか、向こうの世界で君に出会えたら、そのときは…」という文がつづられ、私の脳裏に、二人で海を歩き、海に漂い、笑い合う姿が浮かんで消えていった。
 知的で穏やかで、意志が強くユーモアを解するラモンの魂は、やはり死の瞬間に放たれたのだろうか。
 法律で定められたとしても、そこにはおさまらない、こぼれ落ちる個人の意志は、きっと人それぞれなんだろうと思う。

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