隠れ家-かけらの世界-

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生きるということ~『朝日新聞』夕刊「人脈記」(2007年4月22、23日)

2007年04月25日 00時59分15秒 | プチエッセイ
『朝日新聞』夕刊「人脈記」(2007年4月22、23日)

■数々の「かわいそう」
 同情されることを嫌う人は案外多い。私も好きではない。それでも、同情されるときの気分をことさら語ったり思い出したりすることはあまりない。たぶん、何か特別なことでもないかぎり、同情してもらうことなどないからだろう。
 「人脈記」は今、障害をもつ人々がどんなふうに生き、どんなふうにその生きる権利を手に入れようとしてきたか、すさまじいほどの足跡を追っている。かわいそうだ、たいへんだろうと、安易に「同情」してすませてしまう「健常者」の見当違いを突きつけられるようで、少し恥ずかしい。 
 多くの障害をもつ人たちは生まれてから、数限りない「かわいそう」を浴びせられてきたのだろう。心ある「かわいそう」も、傲慢な「かわいそう」も、口からでまかせの「かわいそう」も…。

■闘う障害者
 脳性まひの「青い芝の会」の横田さんは、闘う障害者だ。70年代には、車椅子を乗車拒否したバス会社と激しく闘い、脳性まひの子どもを殺害した親への減刑嘆願運動に「冗談じゃない、自分たちは殺されてもいいってこと?」と疑問を投げかけた。
 日本では、たぶん今でも、自分の権利を(たとえそれが当然の権利であっても)強く主張し要求する人を疎ましく思う風潮がある。そういう土壌の国だ。
障害のある子どもを普通学級に入れたいと要望するにしても、当然の権利ではあっても、 下手に出たほうが人々の関心や「同情」を集めやすい。そう聞いたことがある。「迷惑をおかけするとは思いますが…」と一言付け加えるか否かで、印象が違ったりする。
 そういう中で自分たちの権利を獲得していく運動はどんなに苦難の連続だったろう。それは私の想像を越える。
 もっと成熟した社会になって、障害のある人を特別視することなく、お互いに遠慮なく相手のことを冷静に批判したり賞賛したりできるようになれば、と思ったりする。

■恋は一番のエネルギー
 今日の「人脈記」では、脊髄性筋萎縮症で人工呼吸器が欠かせないという佐藤さんという女性が言う、「恋が一番のエネルギーになって…」と言う。ボランティアの男性と恋に落ち、アパートで暮らし、街に出る。「一生、病院の中でしか生きられない」と医者に宣告されて絶望的になっても、普通の生活に憧れたという。
 はじめて二人で感じた街の空気はどんなだったろう。
 骨形成不全症の安積さんはもっと壮絶だ。「女であること」を求め、苦悩する。それでも結婚したい、性的なかかわりがほしいと望む。恋に落ちた年下の彼と結婚し、妊娠。自分と同じ障害をもつ子どもであることがその段階でわかるが、それでも何の迷いもなく喜んでくれた彼。今、子どもの目を通して、自分を振り返る日々だという。
 果敢に生きる道を模索し切り開き、そして自分だけでなく仲間を導き、恋も育てていく。
 恋はね、人を豊かにします。誰かを思う心が世界を変え、ありふれた力に魔法をかけてくれる。

■ふつうに弱くて、ときには…
 圧倒されるほどの賢さと生きることへの貪欲さと、そして感受性の鋭さ。障害の有無にかかわらず、選ばれた人たちなのかもしれないと思うのは私だけではないだろう。ごめんなさい、そういう言い方はちょっと浅いかもしれないけど。
 でも、そうではなく、ときには強くて、ときには弱くて、ふつうに貪欲で、ふつうにあきらめが早くて、人に頼ることが得意で、ときどきそれじゃダメだと思って…、そんな障害者の仲間の話も知りたい。
 だって、本当にそれでいいんだもの。別に優れものじゃなくても、私たちは生きていていいのだから。
 私もどうにかがんばるから、まったりいこうよ…。そう言葉を掛け合えたらいい。
 ひょっとしたら、横田さんも佐藤さんも安積さんも、そういう人たちなのかもしれない。そうだとしたら、それもなんだかうれしい。


 なんだか、論点のはっきりしない文章になってしまったけど、ちょっとダレ気味の日常を振り返っています。

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