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有明山に抱かれて   

Uターンして始めた田舎暮らし。

世界が広がる

2016-03-25 | 






先週読み終えた二冊の本です。


「植物は知性を持っている」は
植物に対するものの見方ががらりと変わりました。
それは、動けなくてかわいそうだから大事に世話しようとか
知性があるのだから、手折ったりしてはいけないとか、そういうことではなく
「同じ生きものとしての仲間意識」
あるいは、心からの「リスペクト」


植物は目がなくても見ることができ
   耳がないのに聞くことができ
   舌がなくても味わうことができ
   鼻がないのに匂いをかぎ
   胃がないのに消化することができる
それどころか
   重力感知、磁場感知、化学物質感知、化学物質測定までもやってのけてしまう。

   環境から情報を入手し、予想し、共有し、処理し、利用する。

知性を問題を解決する能力ととらえるなら
人間よりもはるかに優れた知性を供えている。


わたしたちは、人間の機能に置き換えて、
生物の優劣を図っているけれど
まるきりちがう構造と手段で生きるものを
劣っていると決めつけてしまうのは良くない。

この地球の生物の九十パーセント以上は植物。
植物たちは、モジュール構造と言って、体の一部を失くしても生きられる。
根っこでコミュニケーションをしたり、思考したり、感じたりしながら
たくましく生きている。

そして、わたしたち動物は植物がないと生きられない。

植物に対する尊敬の念と感謝の気持ちが高まりました。



人間中心主義を忘れること=世界が果てしなく広がること。





串田さんは、自然との共鳴を美しい言葉で歌い上げる詩人です。

四季の匂いや音や色を思いださせてくれる。

征服するのではなく、自然を傷つけることなく

自然に対して無作法にならない配慮をしながら、共に生きることを

教えてくれる。



人間のもの、自分のもの、と強欲に思うのではなく

鳥とも花とも
虫とも

みんなで分かち合うこと、

慎ましさというのは、そういうことかなとこの頃、思います。


 




動的平衡

2016-02-09 | 
『動的平衡』 福岡伸一 木楽舎



「生命が流れであり、わたしたちの体がその流れの淀みであるなら
環境は生命を取り巻いているのではない。生命は環境の一部、あるいは環境そのものである」

「生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。
身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ更新され続けている。
分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作りだし、次の瞬間にはまた環境へと帰って行く」


福岡さんの説明はわかりやすい。難しい科学の仕組みをわかりやすい例えとユーモアで解き明かしてくれる。

科学に不得手な人でも、自分の体の中でどんなことが起きているのかを知ることができる。

そして、生命が生きるとはどういうことかも、示唆してくれる。

わたしたちは食べ物を食べることで、外からの情報を取り入れ、そしてまたその情報を外へと出していく。

命は大きな流れの中のひとすじに過ぎない。そして、体は小さな淀み。

読みながら、方丈記のあの有名な一節が浮かんだ。

昔の人は科学を解き明かす以前から、

命というものの在り様をしっかりととらえていたんだな。


わたしたちの身体は、「通りすぎつつある」分子が一時的に形作っているに過ぎないもの。

そこにあるのは「流れ」そのもの。その流れこそが「生きている」ということ。

日々新しい流れを作るためにわたしたちは食べ、そして食べたものが分解されることで、生まれ変わっている。

その過程の中で、ものを考え、何かを作り、何をしようかと悩んでいる。自分という確たるものを形作ろうとして。

流れのままにとか

流れに身を任せて、という言葉は、じつは生命の在り様を一番正確に言い表しているのかもしれないと思った。

そこにあるのは自由?



「動的平衡」の対極にあるのが、「機械論」。

 デカルトは生命現象はみな機械論的に説明可能だと唱えた。

どこかが故障すれば、機械のようにパーツ交換をすれば治癒できるという考え方だ。

でも生命をものとして捉えたら、ミクロ部品の集合体かもしれないけれど
生命を現象として捉えると、それは動的な平衡になる。

絶え間なく動き、それでいてバランスを保つ。
合成と分解、内部と外部とで物質、エネルギー、情報のやり取りをする。

命は流れであり、連綿とつながっていくもの。

わたしという生命がなくなっても、流れは引き継がれていく。




「世界は歌に満ちている」という章の

クニスナ最後の象、メイトリアーク(太母)の話がとても感動的。

最後の生き残りとして孤独の中にいた象が

アフリカの台地の果ての崖の上で、やはり太母であるシロナガスクジラと言葉を交わすシーンだ。


命という大きな大きな流れを考えてみずにはいられなくなる。

生命はみな関係しあって繋がっていることを。

生きるとはどういうことなのかを。







牧野さん

2016-02-07 | 

こどもの国から新しいビンゴスタンプのイラスト依頼があって

時間がないし困ったなあと思っていたところ、shihoが引き継いでくれることになった。

子育てで忙しいのに、引き受けてくれてアリガトウ。とても助かりました。

子どもたちに自然に親しんでもらうため、特徴をとらえつつ、かわいく、楽し気に描く作業は

試行錯誤の繰り返しで、能力の問題もあって、肩も腕もバリバリに凝っちゃう……

時間というよりは気力の問題かも。



昆虫や植物に、慣れ親しんで生きてきたつもりでも

いざ描くとなると、バランス、位置関係、まるで観察できていなかったことがわかる。

加えて、動物の心、虫の心、花の心、ちっとも理解していなかったことにも気づかされる。

いつのまにか、人としての生き方しか見ていなくて

自分が生物の一種類だということを忘れている。

虫ならファーブル。動物ならシートンと夢中で読んだ本があるけれど

花についての本は、記憶にない。

そんなとき出会ったのが、『牧野富太郎選集』です。

本当は手もとに置きたいけれど、高価なので

図書館で少しずつ借りて読んでいます。



牧野さんは、植物の心にまで踏み込んだ植物学者。

「牧野さん」と親しくお呼びしたくなります。

早く五巻まで読んでしまいたい。


    「スミレ講釈」 より


「春の野にすみれ摘みにと来し吾れぞ野をなつかしみひとよ寝にける」
 
と詠んだその人が、実際スミレがそこにあったので
それでその野がことさら懐かしかったのであったとしたら
ちょっと他人の及ばないほどのスミレの愛人だといえる。
かくも強くスミレに愛着を感じる人は世間にあまり見受けぬであろうが、
これは山部赤人でその歌は「万葉集」に出ていて有名なものである。
スミレへもこのくらいの愛を持たねば、スミレを楽しむ人もあまり大きな顔をするわけにはいくまい。



わたしの記憶のスミレの愛人といえば
「赤毛のアン」のアン・シャーリー。
それからクマのプーさんの「コブタ」
詩人の薄田泣菫。

シュトルムの「三色すみれ」は中学の頃、自分で漫画化してしまったくらい好きでした。

花にまつわる記憶が、花への愛になるのだとしたら
思い出して書き残しておこうかなとも思います。

思いの凝縮

2016-01-20 | 
『しゅるしゅるぱん』
   おおぎやなぎちか  福音館



 友人のクリちゃんから送られてきた本です。

 「しゅるしゅるぱん」という響きがかわいくて童話的なので
 勝手に洋風なイメージを持ってしまったのですが、
 東北を舞台にした民俗学的な匂いがするファンタジーでした。

 主人公は都会から父の田舎に引っ越してきた小学生「解人」。
 
「しゅるしゅるぱん」とは、その地方に伝わるまじないの言葉であるにもかかわらず
 悲恋から生まれた「こども」の名前でもある。

 解人の曽祖母・妙と妖怪作家・三枝面妖との恋から生まれた「しゅるしゅるぱん」。
 話が進み、しゅるしゅるぱんの出生の秘密が明らかになるにつれ
 水子の霊のような「しゅるしゅるぱん」にただただ、哀れさを覚えてしまい
 作者をうらめしく思ったほどです。
 いっそのこと、霊的なものでなく、本当の子どもだったほうが、安心して読めたかも。

 ただ、それほどまでの「恋」によって生まれてしまった「霊」だから

 何世代もの時間をかけなければ、成仏もできなかった……そんな気もします。

 解人が田舎の暮らしに馴染んでいく、洗礼としての役も「しゅるしゅるぱん」は担っていたのかもしれない。

 曽祖母の妙と面妖との恋は、現実的過ぎるので、もっとのぼせた視点で描かれてほしかった。
 妙、面妖、面妖の妻の関係にあまり深く踏み込みすぎると、児童文学の域を越えてしまいそうだし
 むずかしい注文なのですが。
 
 そんな注文を付けながらも
 読み終えた後には、しゅるしゅるぱんが成仏(でいいのかな?)できてよかったと
 心からほっとしました。
 そして、解人の心の成長を受けとめられ、清々しい読後感でした。

 思いが凝縮すると、形が生まれる。

 この物語では、悲恋から霊が生まれてしまう…

 

 ものが生まれ、ものが消えてゆく不思議。

 存在したものが消えてゆくものがなしさも漂ってきます。
 
 

遺稿集

2015-11-22 | 




「松岡幸男遺稿集」

 父が亡くなったとき、父の同級生フリハタ・ケンジさんとヤノクチ・カンさんが家に来てくださいました。
 92才なのに、お二方ともかくしゃくとした姿でした。
 小学校時代から続いている友情を
 わたしはすごく新鮮な気持ちで受け止めました。

 おふたりが揃って口にした、有明尋常高等学校の松岡先生のことが
 ずっと気になっていました。

 父の手もとにもあるはずの松岡先生の遺稿集が、どうしても見つからないので
 フリハタさんのおうちを訪ねて、貸していただきました。

 「はい、お貸しします」と言いながら
 なかなか手渡してくれないフリハタさん。
 本の箱に「大切な遺稿集」とマジックで手書きした紙が貼ってありました。

 宝物なのだなとわかって、一晩で読んでお返ししました。


 父たちは松岡先生の第一回目の教え子だったのです。

 詰襟姿の熱血漢、児童教育の志に燃える青年によって
 父たちは幼い胸に正義感と学ぶ意欲と豊かな感受性を吹きこまれたのです。

 曲がったことが大嫌いな松岡先生はおっかない先生でもあったみたいですが
 子どもたちは、最初に出会う指導者としての先生から
 人間として大事なものを、教えてもらったのがわかりました。


 栞を挟んだフリハタさんの記述部分。
 何度も読み返しているのでしょう、そこのページだけフリハタさんの匂いがしました。

 その文章の中に、わたしは父の姿も見つけました。

 春の紫雲英(レンゲ)の野で写生をしたこと。秋に旧陸軍の演習場で日の丸の小旗拾いをしたこと
雪原の雪合戦で、先生の眼鏡が壊れたこと。
夏休みの旅行では、ひとりひとりの生徒におみやげを買ってきてくださりそれがうれしかったこと。
毎年、クラスで仕事を分担して文集を作ったこと。

父は本当に幸せな少年時代を過ごしていたのです。

「正しくあれ、思いやり深くあれ、そしてたくましくあれ」
 先生はその言葉を、言葉だけのお飾りの目標でなく
 自らの行動によって、生徒たちに示していました。

 退職後も五百人からの生徒の名簿をぎっしりと書き込んだ小さいノートを
「おれの宝物さ」と言いながらもっていた先生。
  
 先生の手につかまりたくて、みんなが左右から先生にぶら下がって
 先生の背広が背中からまっふたつに裂けてしまったときも
 先生は大笑いしていた、というお話も素敵でした。


九十になる老人たちが、先に亡くなってしまった恩師の話を
繰り返し繰り返し、大事に話すのです。
 なんて幸せなことだろうかと思いました。

子ども時代にもらった形のない宝物は
いつまでも輝く。

いま、初めて、父がわたしに残してくれたものが
はっきりと見えます。
その宝物は、父が松岡先生から受け取ったものなのだなとわかって

この本はわたしの宝物にもなりました。
手もとにないけれど
「本」という形はわたしの中に残っています。




うたうとは…

2015-11-07 | 
「うたうとは小さないのちひろいあげ」
          村上しいこ  講談社


人の体は、その人が食べたものでできているというけれど

人の心は、その人が発する言葉でできているのではないかと

読み終えて、しみじみと思った。

うたうとは…は、いろんなものに置き換えられる。


語るとは……

奏でるとは……

描くとは……

小さないのちの種を拾い上げ

命が生まれたところ、そのはるかな場所へ、誠実で美しい形にして

返してやること。


それは、生きることそのものかもしれない。

遠いところからやって来るいのち。

そのいのちの源へと、

思いを、言葉を、形にして返していくことが、生きるということ。






物語の主人公、白石桃子は、先輩の古畑清らの強引な勧誘で、「うた部」に入部する。

うた部とは短歌を詠む部活動だ。

うた部には、個性的な顧問と個性的な先輩部員が三人。

うた部という、不思議な空間に迷い込んだちょっとわけありの桃子。

言葉とむきあうことによって、自身が抱えている問題にむきあい

そして、解決の糸口をつかんでいく……。


友情を取り戻すふたりの少女の連歌がそのままタイトルにもなり、

そしてまた、書くこと、歌うこと、生きることの答えにもなっていて

深い感動が、静かに押しよせてきた。

何人もの生徒が詠んだ歌を、それぞれの個性を光らせながら、ひとりで作り上げた筆者に脱帽。

しかも添削まで! 

小説でありながら、短歌の指導書にもなるかも。

読み終えたとき、初心者のわたしでも、無性に短歌を作りたくなってしまいました。


村上しいこさんは
「うたうとは小さないのちひろいあげ」で「野間児童文芸賞」を受賞されました。

おめでとうございます!!







『忘れられた巨人』

2015-10-03 | 
『忘れられた巨人』 カズオ・イシグロ 早川書房



 舞台はブリテン島(現在のグレートブリテン)
 時代は六、七世紀頃(アーサー王の時代より少しあと)
 主人公はブリトン人の老夫婦、アクセルとベアトリス


 人は死ぬとき、人生を走馬灯のように一瞬で思い浮かべると言うけれど

この物語を読んで感じたのも、その走馬灯のように凝縮された時間だった。



「記憶が薄れていく世界」という設定のせいで、物語には初めから不安感と寂寥感が漂い

湿りけと冷たい空気の中に、読者も否応なく引きずり込まれていく。

こう書くと、どんなに暗い小説かと思われるかもしれないが、悪鬼や兵士の殺戮の場面があるにもかかわらず

牧歌的とさえ思える透明な印象を受ける。

主人公ふたりの一途さと朴訥さゆえかもしれない。

とくに、ベアトリスの無垢さの。

アーサー王伝説と、ブリトン人(ケルト系)とサクソン人(ゲルマン系)の歴史に明るければ
なおいっそう、物語は深く心に入ってくるはずだ。


初めから過去などなかったものとして安穏と暮らす村の人々とはちがい、

アクセルは記憶の断片を捉えようともがいている。

やがてアクセルとベアトリスは、村を去り、遠くにいる息子に会うため旅に出る。


旅の途中のサクソン人の村で、戦士ウィスタンと鬼に噛まれた少年エドウィンがふたりの旅の道づれになる。

さらに、アーサー王時代の老騎士ガウェイン卿と老馬のホレスが加わる。

悪鬼の出現、修道士たちの罠、妖精のいたずら。雌竜クエリグの脅威……

ケルトの地に棲む妖しく不気味ないきものたちに翻弄されながらも

アクセルとベアトリスは互いを信じて旅をつづける……。


カズオ・イシグロは、「これは単なるファンタジーではなく、本質的にはラブストーリーだ」と述べている。

記憶を失くさせる竜クエリグの首が落とされ、アクセルとベアトリスは失った記憶を取り戻す。

そして旅の目的地、息子のいる島へと渡し舟を出してもらうことになる。

渡し守は、舟に乗る夫婦の愛の深さを測るため問いかけをすることになっている。

完全な愛で結ばれた一対の男女しか、舟に乗ることは許されないのだ。

数々の冒険の後につきつけられる、踏み絵のようなこの問いかけこそ

竜や巨人よりも、おそろしいものだ。

アクセルとベアトリスは船頭に人生の思い出を語り、共通の思い出を語れたことで

船頭も、「ふたりは強い愛で結ばれている」と舟を出すことを了解する。

ところが、最後に船頭が聞いてくる。


「長年一緒に暮らしていて、特別にこれが苦痛だったということがありますか?」


この問いかけによって、アクセルとベアトリスの旅の理由が、読者に明かされる。

(これから読む方のために、その理由は伏せます。)
  

二人が旅で体験したことは全て、儚い夢のように消えさり

たったひとつの事実だけがそこに残される。

老いたふたりは長い年月、恨みや悲しみを忘れていたのに。


渡し守は、舟にはひとりずつしか乗れないという。

「黒い影も愛情全体の一部であることを、神はお分かりくださるはずだ」と、アクセルは懇願する。


舟は別々でも、ふたりは島でふたたび巡りあえるのか、語られぬまま、話は終わる。


読者それぞれが結末を考えればいいのだろう。


島は、死者のゆく場所だろうか。だから舟にはひとりずつしか乗れないのだろうか。

記憶を失くした原因について、ベアトリスがふと漏らす言葉がある。

「ひょっとしたら、神自身が物忘れをされているのでは? だからわたしたち人間も記憶を失くしていくのよ」

この言葉には、ドキリとさせられた。

完全と呼べるものは、本当はこの世にはひとつもない。

理不尽さを理不尽とも知らずに生きることや

傷を負ったり、影を背負っても、それも身の一部だと思って生きること

そう言う強さをわたしたちは忘れているのかもしれない。


夫婦の物語を包み込んで、民族の争いの物語があり、それをさらに包み込む伝説のストーリーがあった。

それらはみな同じ、たったひとつのこと

「いっしょにいて苦痛だと思ったこと」から分裂が始まっている。

小さな傷から林檎が痛んでいくみたいに

痛みは世界に広がっていく。

けれど、

だれしもちいさな偽りや裏切りや愚かさでだれかを傷つけて生きている。

そういう傷をなかったこととして完璧を装うより

アクセルのセリフのように

黒い影も、長い年月をかけて、自分の一部となるように生きることの方が

潔い気がする。

渡し守を通して為された筆者の問いかけは、

あらゆる人に、そして、

宗教の世界にもむけられているのではないだろうか…。