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第118回 「歴史を訪ねる旅―西千葉・稲毛」のお知らせ  -戦災後、復興を遂げたロマンの街 西千葉と稲毛エリアを訪ねてー

2017-04-01 17:01:49 | 日記

大日寺

午前は西千葉の史跡を通して、鎌倉時代から約800年の歴史を辿りながら、千葉氏や陸軍兵士を思い、そして現在市民の憩いの場である千葉公園などを通して平和を実感します。午後は海岸線が延々と、緑と陽光があふれる避暑地、海水浴、潮干狩りでにぎわう漁業のまちだった「稲毛」を訪れます。
国道14号線沿いには、大正・昭和初期の国指定重要文化財などが今なお残り、いにしえのロマンへ誘います。

実施日 : 2017年5月13日(土)
集 合 : 9時30分 JR千葉駅中央改札口 

解 散 : 15:30 京成稲毛駅(JR稲毛駅まで徒歩10分)
参加費】 正・家族会員 1,500円  
      準会員・一般 2,000円
    
  (ガイド代・資料代を含みます)

コース :モノレール千葉公園駅 ― 厳島神社 ― 千葉公園 ― 鉄道隊の記念碑 ― 鉄道隊の食堂建屋― 気球隊の気球格納庫― 陸軍歩兵学校の跡― 鉄道隊の機関車修理建屋― 大日寺― 来迎寺―JR西千葉駅(昼食)―JR稲毛駅―稲毛浅間神社 ― ゆかりの家・いなげ ー 旧神谷伝兵衛稲毛別荘―京成稲毛駅  (15:30解散)

【昼飯】 西千葉駅近辺で各自で取って頂きます。
【ガイド】 チバシテイガイドの皆様
【募集人員】30人
       
< お申し込みの方 >
1. 正会員は必ず会員番号をご記入ください。
   ( ご記入のない方は、準会員・一般価格となります。)
2. 緊急連絡先(携帯番号)を必ずご記入ください


【訪問先メモ】
【厳島神社】

碑文には「江戸の昔 綿打池の地籍について 寒川村と作草部村との間に爭いがあり 藩士のいざ実地検分の前夜 寒川の綿屋太郎兵衛が弁天様の碑石を こつそり寒川村に移し置き この池が寒川のものである証とした」
明治以降 池のほとりに ひつそりと佇む弁天碑に祠を作り 祭祀を行い 社会の福祉に貢献した村人数名の功績は境内の顕彰碑で知ることが出来る 又 千葉家が隆盛時代 千葉常胤の六男東胤頼の館が存在し 爾来この地を吾妻台を呼ばれる。と書かれている。

【千葉公園】

千葉市初の総合公園として1946年(昭和21年)6月に決定した戦災復興計画に基づいて陸軍の鉄道第一連隊跡地に整備された公園で、同公園内には野球場、プール、体育館等の運動施設や綿打池がある。

写真は「好日亭」

【鉄道隊の記念碑】

鉄道連隊とは、明治政府が近代戦における鉄道利用の重要性を認識し、工兵部隊から派生させて作った部隊である。それは、戦地において鉄道の建設、修理や兵員、物資の輸送にあたり、平時は演習線を利用して鉄道建設、修理、汽車の運転などを含めた各種訓練を行う、鉄道専門の部隊であった。実は、この鉄道連隊が千葉町(現・千葉市)に移転した背景には、日露戦争後の町の発展をかけて、千葉町が軍隊誘致に熱心であったことがある。
当時の石原健三千葉県知事も陸軍との交渉に当たった結果、1907年(明治40年)3月に交通兵旅団司令部、鉄道連隊、鉄道連隊材料廠の千葉への進出が決まった。

【鉄道隊の食堂建屋】

椿森2丁目と3丁目の境界道路の中程に、赤煉瓦造りの建物が塀越しに見える。この建物は1908(明治41)年に建設された鉄道第一連隊の炊事場兼食堂であり、鉄道第一連隊の建造物で唯一残されたものである。鉄道第一連隊は、椿森公園、椿森中学校の一帯に設営され、千葉公園から椿森中学校に向かう塀沿いに器材庫、炊事場兼食堂が一列に建てられ、その内側に兵舎が並んでいた。現在この建物は2階が増築され民間アパートとされ、1階は吹き抜けの駐車場に使用されている。当時を懐かしんで訪れる方もいたと云う。

【気球隊の気球格納庫】

 気球隊は近衛師団に属し、部隊を当時の千葉県都賀(つが)村(現在地)に置き、気球を使った上空からの偵察や調査観測を任務としていたということが記録に残っています
この建物、川光倉庫(株)という民間企業の倉庫となっていますが、重厚な造り、4、5階建てに相当するほど天井が高い尖りドームの形状、現在は使用していませんが、正面に背の高い大きな引き戸を付けていた事を彷彿とさせるガイドレールの跡など、ただの倉庫とは思えない特徴のある建築物です。まるで空港にある飛行機の格納庫の様です。

【陸軍歩兵学校の跡】

 陸軍歩兵学校とは、現在の千葉市稲毛区天台にあった日本陸軍の教育機関のひとつである。
 陸軍歩兵学校は大正元年千葉市天台に創設され、歩兵の実施学校としてもっぱら歩兵戦闘法及び研究とその普及に任じ軍練成上きわめて重要な使命を遂行する陸軍の教育機関だった。通称は歩兵学校である。同学校の敷地は現在、作草部公園や天台駅などがある。児童相談所の入り口前、公園正面から奥まった一角に「陸軍歩兵学校跡・平和之礎」の石碑がある。

【鉄道隊の機関車修理建屋】

 明治41年、鉄道連隊材料廠の建物として建築されたもので、煉瓦造アーチ構造、木造トラスの小屋組み。 県内に数少ない明治年間創建の大規模な煉瓦建築であり、特に南北の両壁にみられる10連の雄大なアーチ構造はこの建物の特徴で、全国的にも他に例がない。我が国の初期の煉瓦建築の構造を知る上で極めて重要であり、近代建築史及び煉瓦建築の歴史を考える上でも貴重な建物である.
この煉瓦建築は、鉄道連隊材料廠の機関車の修理工場として建築された

【大日寺】

大日寺は、千葉頼胤が源氏三代の霊を供養するために、建長6年(1254)松戸の馬橋に創建、頼胤の子胤宗が千葉氏の菩提寺として弘安7年(1284)千葉へ移転したといいます。天正19年寺領10石の御朱印状を拝領、昭和20年の戦災で焼失し、千葉神社の南側(現在の通町公園)から当地へ移転したといいます。
大日寺境内には、御本尊の大日如来をご安置している本堂をはじめとして、薬師堂や千葉氏十六 代の墓碑である五輪塔(千葉市の重要文化財として「史跡千葉家十六代廟所」に指定)などが建立されております

【来迎寺】

浄土宗系単立の来迎寺は、知東山聖聚院と号します。来迎寺は、千葉介一三代氏胤が、武運長久の祈願寺として一遍上人を開基に命じて建治2年(1276)に創建、来光寺と称し道場公園(院内2丁目)付近にあったといいます。天正年間(1573-1592)に満誉尊照が中興、天正19年には寺領50石の御朱印状を拝領、昭和20年の戦災で焼失し、当地へ移転したといいます。

【稲毛浅間神社】

富士山を神と仰ぎ奉る信仰にはじまります。
 大同3年(808年)平城天皇の御代、現在の静岡県富士宮市大宮に鎮座する
 富士山本宮浅間大社の御分霊を奉斎したのが起源とされています。
 治承4年(1180年)には源頼朝が東六郎胤頼を使者として御幣物を捧げて 武運長久を祈願したのをはじめ、千葉常胤以来、代々の千葉氏の信仰が篤かったことが 古記録等により窺い知れます。

【ゆかりの家・いなげ】

明治中期以降、保養地として多くの文人墨客が訪れた稲毛は、海岸線の松林を中心に、別荘・別邸が建てられました。この家もそのうちの一つであり、昭和12年には、中国清朝のラストエンペラー愛新覚羅溥儀の実弟である溥傑夫妻が、半年ほどこちらに居を構え、新婚生活を送りました。保養地としての稲毛の歴史を今に伝える貴重な和風別荘建築として、千葉市地域有形文化財(建造物)に登録されています

【旧神谷伝兵衛稲毛別荘】

浅草、神谷バーで知られる神谷伝兵衛の別荘です。
ワイン王として知られる初代神谷伝兵衛(1856~1922)が、晩年の大正7年に、来賓用の別荘として建てた鉄筋コンクリートつくりの洋館です。建物は1階が洋室で2階が和室の和洋折衷の造りになっております。コンクリート構造の建物としては市内で最も古く、昭和初期に流行するモダニズム建築への変化をうかがわせる特徴を持っています


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