無門関・第29則は非風非幡(風にあらず 旗にあらず)の禅問答である。
寺で高僧が講義する時の幡が、風で揺れているのを見た二人の小僧が、「幡が動くのだ」「いや風が動くのだ」と議論している。当時の逃亡者の達磨さんの禅の六代目の慧能が言った。「風が動くのでも、幡が動くのでもない。動揺しているあなたの心」二人の僧は度肝を抜かれたのである。おぬしは何者。
風で幡がはたはた、幡で風の存在を知るのか。幡が無ければ議論も無い。
駅に停車する上り電車と下り電車。おいらの乗車した上り電車が止まっていても、下り電車が発車したら、おいらの電車が動いた錯覚に陥る。真実は、おいらは駅から動いていない。錯覚は心が動揺している迷いなのである。
走っている電車に並行して車を走らせると、電車は止まって見える。真実は車も電車も動いている。止まっているのはおいらの異常な心である。
天動説と地動説。ガリレオの悩みと法王庁の権威。庶民は関係なく日常的な生活が出来る。
恵方には幸せがあると言う。今年は甲(きのえ)の東北東。おいらの生まれは甲申(きのえさる)。住居のある岡崎の東北東は飯田市。援農の果樹園の所在地。定年退職で時間が充分にある。とことんボランティアに専念する良い年。
恵方の東北東を追求すると、岡崎に戻ってくる。恵方は岡崎。幸せの青い鳥は近くにいる。
おいらの心はコロコロ変わる、厄介なモノであるが、モノで無いから具体的に見ることができない。そして変化の可能性は無尽蔵である。刹那の行動が唯一無二で議論の余地は無い。そのことに専念することが仕事である。そして人様は喜んで下さる。
若い小僧さん、今の仕事は、直ぐに戻って高僧の話を聞くことだろう。些細な議論で時間を空費する余裕は無い。くだらない議論に心を遊ばしてはならない。喝、喝、喝。おいらは大沢監督、張本勲の代弁者。
寺で高僧が講義する時の幡が、風で揺れているのを見た二人の小僧が、「幡が動くのだ」「いや風が動くのだ」と議論している。当時の逃亡者の達磨さんの禅の六代目の慧能が言った。「風が動くのでも、幡が動くのでもない。動揺しているあなたの心」二人の僧は度肝を抜かれたのである。おぬしは何者。
風で幡がはたはた、幡で風の存在を知るのか。幡が無ければ議論も無い。
駅に停車する上り電車と下り電車。おいらの乗車した上り電車が止まっていても、下り電車が発車したら、おいらの電車が動いた錯覚に陥る。真実は、おいらは駅から動いていない。錯覚は心が動揺している迷いなのである。
走っている電車に並行して車を走らせると、電車は止まって見える。真実は車も電車も動いている。止まっているのはおいらの異常な心である。
天動説と地動説。ガリレオの悩みと法王庁の権威。庶民は関係なく日常的な生活が出来る。
恵方には幸せがあると言う。今年は甲(きのえ)の東北東。おいらの生まれは甲申(きのえさる)。住居のある岡崎の東北東は飯田市。援農の果樹園の所在地。定年退職で時間が充分にある。とことんボランティアに専念する良い年。
恵方の東北東を追求すると、岡崎に戻ってくる。恵方は岡崎。幸せの青い鳥は近くにいる。
おいらの心はコロコロ変わる、厄介なモノであるが、モノで無いから具体的に見ることができない。そして変化の可能性は無尽蔵である。刹那の行動が唯一無二で議論の余地は無い。そのことに専念することが仕事である。そして人様は喜んで下さる。
若い小僧さん、今の仕事は、直ぐに戻って高僧の話を聞くことだろう。些細な議論で時間を空費する余裕は無い。くだらない議論に心を遊ばしてはならない。喝、喝、喝。おいらは大沢監督、張本勲の代弁者。