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風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

親父の息子は今は親父 341号

2008年08月16日 16時16分30秒 | 随想
昭和12年夏、北京郊外の橋のたもとで、銃声がする。その時兵士が一人行方不明だった。司令部に報告される。その後兵士は戻ってくる。野糞をたれていた。これが原因で支那事変が始まる。

戦線が拡大し、東南アジアの欧米の植民地侵略の大東亜戦争。アメリカ政府は激怒し、日本に対するガソリンやくず鉄の輸出を制限する措置を講じた。第二次世界大戦が始まる。

昭和20年8月15日正午にラジオ放送された、昭和天皇による詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)の玉音放送で終戦した。

終戦の前年の春に誕生した参男坊である私は、家父長制では補欠であるから家族では軽い存在で、人間性に影響した。親父と話す機会は滅多に無かった。戦後のGHQの司令官の政策は西洋個人主義の導入で家父長制を壊滅させた。そして古き善き日本、悪しき日本はともに消滅し、物質豊かな平和な日本である。

小学生の時、お祭りで親父からアイスクリームをご馳走になった。皿に半円の小さな白色の塊。当時は高価だった。

若くして大学教授だった親父の戦時中の仕事の話を聞いた。専攻は経営工学で、TOYOTA生産方式の先駆けだったと聞いた。愛知航空機で戦闘機製造に従事し、当時の花形産業である。ダイムラー・ベンツ社のDB601エンジンをライセンス契約し、海軍艦爆「彗星」の熱田式エンジンの研究開発をしていた。グリコール液によって冷却する液冷式であり、倒立V型12気筒のエンジンである。そして試作機に死を覚悟して搭乗する責任を課せられる。

東北帝国大学の金時計を獲得したというから、優秀な成績だったのだろう。そして死して日本国は瑞宝中綬章を授与する。

終戦記念日に突然思い出したのである。人間の記憶は無尽蔵である。伝聞であるが、現在も名古屋市南区には愛知時計電機株式会社が存在する。時計よりも水道メーターの製造所として有名になった。

他の水道メーターの社長が、あの「みのもんた」で第2位の愛知時計電機の株主でもある。人間関係は連鎖する。

人生は流転するが、会社も社会の要請で仕事内容が変化するようである。窮地に陥ったら変化しないといけない。変化すると世間は受け入れてくれる。永遠に未来永劫、不変の事象は人間社会には絶対に存在しない様である。

親父の息子だった私は今では息子達の親父になった。そして阿弥陀様の息子になる。

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