風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

禅無は透明の境地 386号

2008年10月24日 08時16分06秒 | 随想
水を含む人生訓が多くある。

上善如水・覆水盆に返らず・水清ければ魚棲まず・魚心あれば水心・我田引水・明鏡止水

白隠禅師の座禅和讃の冒頭にも水がある。

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし 衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり

水は人間の肉体にも心にも必要不可欠のものである。

アルカリ性(OH)の表現が水酸化水素であり、酸性(H)を強調すればヒドロキシ酸と化学では呼称するが、渋くも酸くも無い中性である。

赤・黄・青(RYB)は減法混色における色の三原色で全て混ぜると黒になり、加法混色の光の三原色は赤・緑・青(RGB)で混合すると白になる。だからキャンバスは白く、テレビ画面は黒いのである。水酸化水素とヒドロキシ酸の混合物の水は透明である。

物欲の快楽を志向する西洋科学主義と自然の掟に従順な禁欲の東洋自然主義。
お釈迦様は此方を肯定し、彼方を否定するかたより・こだわり・とらわれの人生を否定し、双方の美点を採用した中道を肯定する。

渋いアルカリの人生、酸い酸性の人生、どちらに片寄っても人生は苦しい。禁欲と快楽の九十九折のいろは坂を歩む喜怒哀楽・義理人情の世界が極楽である。仏道が人生を水に喩えるのは、かたより・こだわり・とらわれの無い水の無色透明性に由来している。

そして固体である氷、気体である水蒸気の中間に位置する液体の水。

ゆくかわのながれはたえずして、しかももとのみずにあらず。よどみにうかぶうたかたは、かつきえかつむすびてひさしくとゞまるためしなし。

禅は無の境地を減法混色の黒や加法混色の白にも喩えるが、本来は水の透明性なのだろう。太陽光も透明だった。


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