戦闘機設計技術者の親父は敗戦で失職し、信州大学の機械工学の教授に転職した。小中学校は長野市である。参男坊の私は生き抜くために諸国を行脚し岡崎に住み着いている。校歌「南部中学我等が母校」の3年1組のクラス会に出席する為に、現在没頭している飯田市の援農で宿泊した農家の最寄の高速バスの停留所の高森を10時4分に発車する長野行きに乗車した。30年ぶりに長野市を訪れる私は、長野自動車道を走るのは初体験である。南部中学校は消滅し、南部小学校に替わった。私は芹田小学校6年と南部小学校3年の学業を修了した日本人である。
道中には田毎の月で有名な棚田と善光寺平と千曲川が鳥瞰できる懐かしい風景がある。昔々、食糧不足のために、長男以外は結婚を認められず、70歳を過ぎた老人は子に背負われて、冠着山に捨てた、棄老伝説の里、姨捨である。金不足のために、老人を田舎に残し、若者が都会に去っていく現状は、楢山節考と言わず、田舎節考である。灰で縄を編んだ老人の知恵を知りたいなら、田舎暮らしをして老人の話を聞くことが最善の行為である。
到着した長野駅には、昔を偲ぶ面影が無い。機能本位の近代建築に変わっている。善光寺の一光三尊阿弥陀仏の御威光が無視され、商業主義の近代五輪祭りの犠牲になり、寂しさの極みである。心に占める取り壊された長野駅は巨大であっただけに、落胆が大きく心に空洞が出来た。そしてエムウェーブ・ホワイトリング・ビッグハットの巨大施設は人が訪れることが極めて希な廃墟となっている。長野盆地を囲む、北アルプス・戸隠・妙高・飯綱連山の自然の雄大さに比較するといかにも小さい建造物である。しばしば眺めた山に「富士の塔」がある。女性の乳房の形状の美しい山であったが、乳首部分の木が枯れてしまい無残な普通の里山に成ってしまっている。様変わりが激しい善光寺の門前町で、四法印の諸行無常の仏教の教えを実感出来たのである。救いは善光寺縁の如是姫の噴水を存続させたことで、長野市民には仏教の心が残っている。
三月生まれの私は、クラスでは最年少で小さく可愛かったと、年老いた往年の美少女が口々に言ういじめに遭った。成長期の一年の違いは極めて大きなハンデキャップである。成績が不良であったことは、日本国の学校制度が4月に始まる欠陥による。正月に入学式なら、私はより優秀な成績を修めることが出来ただろう。成績が優秀だった4月・5月・6月生まれの諸君は、会長・社長・理事長・支配人となり、朝の4時・5時に起床して、乗用車や始発の新幹線で都会の会議に出席するという。理事長はその都度起床して見送っている。64歳に成って、まだ過酷な労働を強いられる気の毒な人々である。まだ63歳の私はゆっくり平屋造りの国民宿舎・松代荘で朝寝・朝酒・朝湯が大好きな小原庄助の幸せの追体験が出来る心の余裕がある。この温泉にタオルを入れると鉄錆色に染まるから注意がいる。外には風林火山の幟が風で揺れている。疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し。武田信玄と上杉謙信の川中島合戦の古戦場はすぐ近くである。
ジューンブライド・六月の花嫁が賛美される理由が理解できたのである。4月・5月・6月生まれの子供を儲けるためには、十月十日の子宮滞在期間を勘案した時、六月が最適である。
老境の老けの速度は極めて速いのである。一年の違いが大きい。可愛いと言った、体力の衰えた往年の美少女にリベンジのチャンス到来である。しかし喜怒哀楽を経験し、波乱万丈・艱難辛苦の人生は、私に論語の「怨みを報いるに徳を持ってす」の実践を促すから、ただ笑って聴いているだけである。そして関節痛の宿敵のご婦人に杖を与え、車のドアを開き、乗車させてあげることになる。還暦過ぎの中学のクラス会は敬老会の色彩が強く、次回はJR姨捨駅から田毎の月を見ながら、語り合うのが美しい光景かもしれない。
最新の画像[もっと見る]