虚無主義とは、今まで最高の価値と人々が納得し、目的としていたものが無価値となった虚脱感・空しさを言う。「神は死んだ」と宣し、自然崇拝に別れを告げ、科学によるモノ・金に神の存在を期待したが、大東亜戦争は科学による悪魔の残忍性を、そして科学進歩が、地球環境や人の心を荒廃させることを示した。そして新たな虚無主義に陥っている。
ニーチェによれば、虚無主義は、2080年頃まで続くと指摘するが、石油資源が枯渇する時期である。この全てが無価値、偽善、夢とする精神の虚無状態に対する行動は二つある。強い積極的対応の虚無主義と負け犬のだらしない受動的虚無主義である。自ら積極的に「夢」を生み出し、刹那を懸命に生きるという態度と、何も信じられない虚無状態に絶望し、心が疲弊した状態で、現実に身を委ね、流されて生きるという態度の両極端である。ニーチェは前者を肯定し、永遠回帰思想の下、自らを創造的に展開していく、鷹の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」になることをすすめた。
永劫回帰思想は、来世に向かって動くことはなく、現世を何度も繰り返すという世界観をさす。これは、生存することの不快や苦悩を来世の解決に委ねてしまう神の存在を否定し(神は死んだ)、意味のないどのような人生であっても無限に繰り返し生き抜くという超人思想につながる概念である。超人が仏である輪廻転生の仏教の往還回向と同じである。地球にはエベレスト山より高い山は無く、頂上を極めたら麓に下山して、新たな山の頂を目指すのだろう。
仏教の空観は虚無主義に似ているが、人生に「夢」即ちドラマを作るのが禅である。日本仏教は平安時代の最澄と空海の偉大な流れがある。極楽浄土を志向する最澄は受動的であり、即身成仏・現世利益を推奨する空海は能動的である。
最澄の千日回峰行は静かで夜に比叡の山中を徘徊する孤独な歩行禅であるが、空海は昼間に騒々しい人間の生活する町を巡る同行二人の遍路旅である。伝教大師は死に目が向いて暗いが、弘法大師は生を志向し明るい印象がある。
初老の頃は相応和尚の千日回峰行に関心が向き、能動的に現役の生活活動をする生の視点で死を見つめたのである。古老に足を踏み入れた最近は、受動的な隠居の年金生活をする死の視点で生を眺める四国遍路旅が心地良いのである。そして仏教は生と死は同じであるとする中道であることを教えている。その追体験が私の四国遍路旅で何回か讃岐・阿波・土佐・伊予を訪ねることになる。「空」の虚無は無尽蔵と同義語で現状肯定の思想なのである。
ニーチェによれば、虚無主義は、2080年頃まで続くと指摘するが、石油資源が枯渇する時期である。この全てが無価値、偽善、夢とする精神の虚無状態に対する行動は二つある。強い積極的対応の虚無主義と負け犬のだらしない受動的虚無主義である。自ら積極的に「夢」を生み出し、刹那を懸命に生きるという態度と、何も信じられない虚無状態に絶望し、心が疲弊した状態で、現実に身を委ね、流されて生きるという態度の両極端である。ニーチェは前者を肯定し、永遠回帰思想の下、自らを創造的に展開していく、鷹の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」になることをすすめた。
永劫回帰思想は、来世に向かって動くことはなく、現世を何度も繰り返すという世界観をさす。これは、生存することの不快や苦悩を来世の解決に委ねてしまう神の存在を否定し(神は死んだ)、意味のないどのような人生であっても無限に繰り返し生き抜くという超人思想につながる概念である。超人が仏である輪廻転生の仏教の往還回向と同じである。地球にはエベレスト山より高い山は無く、頂上を極めたら麓に下山して、新たな山の頂を目指すのだろう。
仏教の空観は虚無主義に似ているが、人生に「夢」即ちドラマを作るのが禅である。日本仏教は平安時代の最澄と空海の偉大な流れがある。極楽浄土を志向する最澄は受動的であり、即身成仏・現世利益を推奨する空海は能動的である。
最澄の千日回峰行は静かで夜に比叡の山中を徘徊する孤独な歩行禅であるが、空海は昼間に騒々しい人間の生活する町を巡る同行二人の遍路旅である。伝教大師は死に目が向いて暗いが、弘法大師は生を志向し明るい印象がある。
初老の頃は相応和尚の千日回峰行に関心が向き、能動的に現役の生活活動をする生の視点で死を見つめたのである。古老に足を踏み入れた最近は、受動的な隠居の年金生活をする死の視点で生を眺める四国遍路旅が心地良いのである。そして仏教は生と死は同じであるとする中道であることを教えている。その追体験が私の四国遍路旅で何回か讃岐・阿波・土佐・伊予を訪ねることになる。「空」の虚無は無尽蔵と同義語で現状肯定の思想なのである。