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「ドレスデン国立古典絵画館所蔵 フェルメールと17世紀オランダ絵画展」(東京都美術館)

2022年02月24日 | フェルメール
ドレスデン国立古典絵画館所蔵
フェルメールと17世紀オランダ絵画展
変更前:2022年1月22日〜4月3日
変更後:2022年2月10日〜4月3日
東京都美術館
 
 「新型コロナウイルス感染拡大の影響により、展覧会の準備を当初の予定通り行うことが困難になったことから」、当初予定より19日遅れの2月10日に開幕となったフェルメール展。
 無事の開幕を関係者に感謝しつつ、早速、三連休に訪問する。
 
【本展の構成】
 昨年に修復完了したフェルメール1点と17世紀オランダ絵画、関連版画等が出品される。
〈地下1階〉
・レンブラントとオランダの肖像画
・複製版画
・レイデンの画家-ザクセン選帝侯たちが愛した作品
〈1階〉
・《窓辺で手紙を読む女》の調査と修復
・オランダの静物画-コレクターが愛したアイテム
〈2階〉
・オランダの風景画
・聖書の登場人物と市井の人々
 
 
 以下、出品作5点を巡る物語。
 
 
その1:レンブラントの妻サスキア
 
レンブラント・ファン・レイン(1606〜69)
《若きサスキアの肖像》
1633年、52.5×44.0cm
 
 事前に画像を見る限りではあまり期待しておらず、最初に一見したときもそれほどという感じ。
 しかし、空いた時間帯に改めて見ると、すごく良い。
 制作は1633年。レンブラントがサスキアと結婚するのは翌1634年だから、婚約時代にモデルとなってもらったようだ。
 本格的な肖像画ではなく、頭部習作(トローニー)。習作らしい即効的な筆致が見事。
 顔の表情も、当初はなんだか不気味な印象であったが、改めて見ると、実に良い笑顔。
 本展のお気に入りナンバー1。
 
 ドレスデン国立古典絵画館は、サスキアをモデルとしたレンブラント作品を複数点所蔵している。
 
 サスキア・ファン・アイレンブルフ。
 1612年、法律家で市長、フラネケル大学の創設者の一人でもあった父親の八人兄弟の末娘として生まれる。        
 1634年、レンブラントと結婚。多額の持参金と富裕層とのコネクションをもたらされたレンブラントは、独立した工房を構え、注文が殺到するなど、富と名声を謳歌する。
 その一方で、家庭生活においては次々と不幸に見舞われる。
 
参考《酒場の放浪息子レンブラントとサスキア》
1635年頃、161×131cm
ドレスデン国立古典絵画館
 
 1635年に長男が誕生するが、2ヶ月ほどで亡くなる。
 
参考《サスキアとともにいる自画像》
1636年、10.6×9.6cm
ドレスデン国立古典絵画館
 
 1638年に長女、1640年に次女が生まれるが、いずれも生後間もなく亡くなる。
 
参考《赤い花を持つサスキア》
1641年、98.5×82.5cm
ドレスデン国立古典絵画館
 
 1641年、念願の次男ティトゥスが生まれる。唯一成人を迎えることのできた子供である。
 ただ、もともと体の弱かったサスキアの体調が悪化する。
 
参考《病気の女性(サスキア)》
不詳、6.1×5.0cm
ドレスデン国立古典絵画館
 
 1642年、サスキアは29歳で死去。死因は結核といわれている。この頃からレンブラントの人生が暗転していく。
 
 
 
その2:17世紀オランダ経済の繁栄を生んだニシン漁
 
ヨセフ・デ・ブライ
(joseph de bray、1628/34〜64)
《ニシンを称える静物》
1656年、57×48.5cm
 
 「塩漬けニシン」を称える静物画。
 本作品に描かれた石碑には、塩漬けニシンの医学的効用として、二日酔いの特効薬、その他悪しきものさえ打ち払う、といったようなことが記されているとのこと。
 大量にとれて保存がきくニシンは、庶民にとって安価なタンパク質源。塩漬けニシンはオランダ人のソールフードと言われる。また、ニシン漁は、海運・造船業の発展の原動力となり、17世紀オランダ経済の繁栄を築く。これらはこれまでの17世紀オランダ絵画の展覧会でも、風俗画や海景画に関連してしばしば言及されているところ。
 ただ、これほど直接的な絵が存在するとは。このような絵に対する需要があった(需要があると見込んだ)のだろうか。
 
 
 
その3:第二次世界大戦後、行方不明に
 
ヤン・ファン・ホイエン
(Jan van Goyen、1596〜1656)
《冬の川景色》
1643年、69×90.5cm
 
 本作品のような、真冬の完全に凍った川のうえで遊びに興じる人々を描く作品はよく見かけるが、その度、17世紀の地球は寒冷化の時代だったのだなあ、と思う。
 
 本作品が興味深いのは、それとは全く別の話。ドレスデンが所蔵する本作は、第二次世界大戦後に流出・行方不明となったが、1974年に発見、発見時の所有者は、その絵が価値のあるものとは思わずに浴槽の蓋として使用していたという話。
 いつどういう状況で誰の手により流出したのか、発見時の所有者はどこの誰か、どういう経緯で判明したのか、流出と所有者との関係はどうなのか、いろいろ気になるところ。
 なお、本作品の隣には、同じシリーズである《夏の川景色》が展示されているが、夏の川は流出しなかったようである。
 
 
 
その4:1654年デルフトの火薬庫爆発事故
 
エフベルト・ファン・デル・プール
(Egbert van der Poel、1621〜64)
《夜の村の大火》
1650年以降、18.5×23.5cm
 
 1654年10月12日、オランダのデルフトにて火薬庫の爆発事故が発生する。市街の4分の1が破壊され、数千人の負傷者、100人以上の死者が出る大惨事となる。当時32歳であった画家カレル・ファブリティウスがこの事故で命を落とす。
 地元デルフトで活動していた当時33歳のファン・デル・プールは、この爆発事故により娘を失った。
 それまで主に農民風俗画を制作(本展にも1点出品)していた画家は、爆発事故下のデルフトの景観画の制作を始める。署名と事故の日付を記したその「事故画」は少なくとも20点以上現存するらしい。
 その後、ロッテルダムに移住し、本展出品作のような夜の火事の光景を描く。決して高い人気を得ることはなかったが、多くの同業者に影響を与えたという。
 
【参考:爆発事故下のデルフトの景観画】
ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵作品
 
 
アムステルダム国立美術館所蔵作品
 
 
 本作品の展示順。農民風俗画5点(アーフェルカンプ2点、次にファン・デル・プール1点、次にファン・オースタンデ2点)のあとに、ファン・デル・プールの本作品(夜の火事の光景画)を置く。ファン・デル・プールの農民風俗画と夜の火事の光景画を隣り合わせとせず、離したのは意図があってのことだろうか。なお、その次に続くヤン・ステーンの3点は、直接的な風俗画ではない。
 
 
 
その5:キューピッドの画中画
 
ヨハネス・フェルメール(1632〜75)
《窓辺で手紙を読む女》
1657〜59年頃、83×64.5cm
 
 修復完了後、キューピッドの画中画のある姿は、所蔵館以外では世界初公開。
 その所蔵館でのお披露目展は、本作を含む全10点のフェルメールが出品される大フェルメール展。
 しかしながら、2021年9月10日〜22年1月2日を会期とする同展は、コロナ禍のため途中に臨時休館し、そのまま再開することなく閉幕となった。
 そして、1974-75年と2005年に続く、17年ぶりの日本出張。開幕は当初予定の19日遅れとなったものの、こうして開幕していただき、関係者に感謝である。
 
 1階フロアの半分以上を使った「《窓辺で手紙を読む女》の調査と修復」の章。
 《窓辺で手紙を読む女》の近くには、修復前の姿の複製画(2001年制作、ザビーネ・ベントフェルト作)も展示される。
 また、1783年、1850年頃、1893年、1907年頃制作の版画版《窓辺で手紙を読む女》計4点も。その頃には既にキューピッドの画中画はない。
 パネルや映像による解説コーナーも用意される。
 
 《窓辺で手紙を読む女》は、フェルメールの画業の初期、風俗画を手掛け始めた頃の作品であり、現存する風俗画では、《取り持ち女》《眠る女》に続いて3番目くらいに古い作品である。
 フェルメールも試行錯誤の状態にあり、技術的にもまだ未熟なところがあろう。
 
 そんななかの《窓辺で手紙を読む女》。
 キューピッドの画中画の存在は、その前後に制作された作品を思い浮かべても、ものすごく納得感がある。
 本作品に続く時期の制作とされる《牛乳を注ぐ女》、その異質性を改めて強く思う。
 逆に《窓辺で手紙を読む女》からキューピッドの画中画を消した人物は、その事情はともかく、センスが優れていたと言えるかもしれない。
 
 
 
 気になるのは、修復前の女性の頭部の上の黒い影。
 画中画を消して黒い影を作ったのだろうか。
 今回の修復において、窓にかかる影の部分はどう扱ったのだろうか。
 


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