ちょっと古いけど2007年4月の朝鮮日報の記事。
「朝鮮後期のソウル市場では競争原理が働いていなかった」 八堂湖の東南側、現在はフナの蒸し物で有名な京畿道広州分院は、かつて王室で使われた格調高い陶磁器を製作していたことで名高い場所だ。現在、数億ウォン台の値が付く朝鮮白磁の大部分がここで作られたと言っても過言ではない。ところが、この広州分院に存在した多数の窯(かま)は、20世紀序盤にこつ然とその姿を消してしまった。これは一体なぜなのだろうか。 先月30日、ソウル大の湖巌教授会館で開かれた「朝鮮王朝の財政と市場」学術大会(落星垈経済研究所主催)。この学会で、「19世紀後半における分院陶磁器の生産と流通体制」を発表した同研究所のパク・ヒジン研究委員は、その理由について「市場原理に基づく運営が行われていなかったため、競争力を失ったのが原因」と説明した。 国家が生産や流通に関与する半官半民方式の運営体制を取っていた分院は、原料や燃料を国家から支給されるなど、多くの特権を保障されていた。19世紀末にこうした特権が廃止されると、「軽く、絵も華麗な上に値段も安い」日本製陶磁器との競争に無残に敗れてしまったというのだ。 それならば朝鮮末期のソウルでは、経済的な市場原理が働いていたのだろうか。「19世紀ソウル市場の構造と特質」を発表した李栄薫(イ・ヨンフン)ソウル大経済学部教授は、宮中に食料品を供給していた明礼宮の財政支出簿に記された財貨92種の物価を分析した。その結果、「全体の取引件数の4割程度が“競争市場”ではなく、長期間価格変動のない“抑圧的市場”に属していた」ことが明らかになった。また、同時期のソウルと全羅南道霊岩の米価を分析した結果、全国をカバーする統合された市場が存在しなかったことも明らかになったという。 従来の通説は、地方の特産物を中央に納めさせる貢納制を廃止し、税をコメに一元化する大同法の実施をきっかけとして御用商人の貢人集団が出現、貢人が産業資本家として成長し、朝鮮後期の手工業と商業の発展を促したというものだ。しかし、この日の学術大会の発表者らは、この通説に否定的な立場を取った。 誠信女子大のパク・キジュ教授は、「貢物定案」などの資料を分析した結果、大同法の実施以降も貢納制度が引き続き維持されていたと見るべきだと主張した。全南大のキム・ジェホ教授は、貢納のため毎年5万から10万石に達する中央政府の赤字財政が構造化していたと指摘した。 ひと言で言えば、「朝鮮王朝は19世紀になっても、競争的かつ自立的な市場経済の発展を受容できなかった」ということだ。一方、「植民地近代化論」とも結びつくこの日の発表者(経済史学者)らの主張に対し、討論者(韓国史学者)からの反論も相次いだ。 ソウル大奎章閣のヤン・ジンソク研究員はパク・キジュ教授に対し、「資料が実際の市場価格を反映したものと見るのは難しい」と指摘し、韓国科学技術院の高東煥(コ・ドンファン)教授は、全国を統合する市場が存在しなかったとする李栄薫教授の主張に対し、別の資料を提示しながら反論した。 兪碩在(ユ・ソクジェ)記者 朝鮮日報/朝鮮日報JNS http://www.chosunonline.com/app/ArticleView.do?id=20070402000054 |
李朝の白磁については下記のエントリーを参照して下され。
李朝の白磁(1)
李朝の白磁(2)