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投錨備忘録 - 暇つぶしに借りた本のメモを残すブログ

姜 在彦 ソウル 文芸春秋社

姜 在彦 「ソウル」 文芸春秋社 1992年

大きく分けて3部構成に見える。

1.朝鮮人の思考・行動
2.李氏朝鮮中頃からのソウルと言う都市の成り立ち構成
3.李方子

姜在彦(カン ジュオン)氏は司馬遼太郎氏のご友人。だからと言うのではないが文章がとても洗練されて穏当だ。上記の1、2についても乞食両班、キーセン、奴婢、賎民、朝鮮の科挙の弊害など江戸期の日本と比較されて書かれている。言葉だけを聞けば眉をしかめるような人もいそうだが、読んでいていやらしいところは一つも無し。ソウル頑張れという日本からのメッセージにもとれる。歴史を昇華できていれば朝鮮人でも納得いく内容だろうが、今の朝鮮人が読めば火病をおこすだろう。もしかしたらソウルでの出版は不可能な内容かもしれない。

「士」ついて書かれているところがある。日本では「士」と言えば武になる。ところが朝鮮では「士」は読書人となると言う。儒者、四書五経の世界だ。だから江戸期の朝鮮通使は日本に訪れて日本の士農工商は武農工商だと驚くことになる。

3については私はほとんど知識がなかったので面白かった。李方子氏は1989年にソウルで没したそうだが、ソウル市で行われたその葬列は多くのソウル市民によって見守られた。ソウル市民のとりあえずの関心は華麗なパレードへの好奇心だったが、産経新聞の黒田記者の記事を引用してソウル市民から「ウリナラの最後の王妃」と言う言葉があったと書いてある。そう「最後の王妃」だったんだな。

気になったのは李方子氏のご子息の消息。アメリカのマサチューセッツ工科大学に留学後、ソウルに戻りいくつかの会社を興すも失敗。その後日本で彷徨生活をおくりアメリカ人の夫人とも離婚したとなっている。最近ヨーロッパの王族(オランダ?)の結婚式があった。日本からは皇太子が出席された。その時の韓国の新聞に韓国にも王家があったと言う記事にがあり、今でも末裔がソウルに存命と書かれてあった。ソウルで存命なのだろう。


※2005年7月20日 追記
李方子氏のご子息が死亡したそうだ。それを伝える中央日報と朝鮮日報の記事だが死んだ場所と第一発見者が異なる。普段二つの新聞読んでいても中央日報の方がはるかに記事がいい加減であることが多いので、これも中央日報の誤りだろう。



http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=65754&servcode=400§code=400

中央日報

大韓帝国最後の皇世孫・李玖氏が死去


全州・李(チョンジュ・イ)氏の大同種薬院(全州李氏の集い)は19日、大韓帝国最後の皇世孫(王族の子孫)、李玖(イ・グ、全州李氏、大同種薬院の名誉総裁)氏が16日午後、日本で心臓まひ(推定)で亡くなった、と発表した。74歳。

高宗(コジョン、朝鮮第26代王)皇帝の王子(純宗皇帝の弟)、英親(ヨンチン)王の息子である故人の死去で、大韓帝国の嫡流が絶えたわけだ。大同種薬院関係者は「皇世孫・李玖氏が、長崎の某ホテルで亡くなったまま発見された」とし「ホテルの従業員が人影がないのを不審に思い、部屋のドアを開けてみたところ、トイレで息をひきとった状態だった」と伝えた。

国権を強奪された後、日本の植民支配体制によってほぼ強制に日本へ渡った英親王と李方子妃の間で、1931年に次男として生まれた故人は、兄の晋(ジン)が生後8か月で死亡し、事実上、最後の皇世孫になった。日本生れの故人は学習院で教育を受けた後、14歳のごろ米国へ向かいマサチューセッツ工科大学(MIT)の建築科を卒業しており、ニューヨークの建築会社に勤めたりもした。58年10月、ニューヨークの某教会で、ドイツ系米国人の娘と結婚したが、子どもはもうけていない。

故人は63年に、病床の両親、夫人とともに帰国し、昌徳宮(チャンドックン)内の楽善斉(ナクソンジェ)で起居した。しかし、70年に英親王が死去し、77年に夫人と別居した後、事業の失敗などで再び日本に戻った故人は、宗親から、子どもを産めなかった夫人との離婚を勧められ、82年に離婚した。故人は、89年に母親・李方子まで亡くなった後、宗親会などの勧誘を受け入れ、96年に永久帰国し事業を展開したりもしたが、失敗し、再び渡日、東京渋谷の小さなマンションで暮らしていた。

葬儀は9日間にわたって行われ、全州李氏大同種薬院のイ・ファンウィ理事長と兪弘濬(ユ・ホンジュン)文化財庁長が共同委員長を務める。葬儀委員会は、日本から遺体が届き次第、故人が起居していた楽善斉に賓庁(朝鮮王朝時代に大臣らが会議を行った所)を設ける計画だ。葬式は24日。墓地は、京畿道南楊州市・洪陵(キョンギド・ナムヤンジュシ・ホンルン)の裏側にある英親王墓地の霊園。02-765-2124。

イ・マンフン記者 <mhlee@joongang.co.kr>


2005.07.19 18:52:46








http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/07/20/20050720000001.html

朝鮮日報

朝鮮最後の皇太子が寂しい死 東京のホテルで心臓麻痺で

 東京・赤坂プリンスホテルの一室で、一人の男がこの世を去った。後継ぎもなく、夫人とも離婚した彼の最後を看取った者は誰もいなかった。

 死亡時刻(16日)も、死亡要因(心臓麻痺)も今となっては推定に過ぎない。“変死”に当たるため、彼の遺体は19日午前、日本の警察で司法解剖された。

 彼の名は李玖(イ・ク/1931~2005)氏。朝鮮最後の皇太子、英親(ヨンチン)王(1897~1970)と日本の皇族、李方子(イ・パンジャ/りまさこ) 女史(1901~1989)の息子だ。

 朝鮮王室の最後の皇世孫(王族の子孫)だった彼の死は、18日午後遅くに全州(チョンジュ)李氏・大同宗約院に伝えられた。

 従兄弟で、日頃、身の回りの世話をしていた梨本さんが18日に訪ねたところ、洗面所で李玖氏の遺体を発見し、宗親会に知らせたのだ。

 李玖氏の人生は激動の韓国近現代史と紆余曲折を共にした。

 1931年、東京で李玖氏が生まれた時、父は亡国の名前だけの王だった。生まれてすぐに、日本の皇室から“世子(世継ぎ)”と冊封(公式に認知すること)され、宗親会も李玖氏を「皇世孫(=皇太子)と認めた。しかし、これは李玖氏の人生に永遠に足かせとなる称号となった。

 日本で近代教育を受けた李玖氏は14歳で光復(韓国の独立)を迎えたが、帰国することはできなかった。執権者たちは、皇世孫の帰国を喜ばなかったからだ。

 李玖氏に手を差し伸べたのは、日本占領軍司令部のマッカーサー司令部だった。1950年、米国マサチューセッツ工科大学(MIT)建築科に留学し、卒業後ニューヨークの建築設計事務所に勤務した李氏は、5年年上のジュリア女史と出会い、1958年10月、ニューヨークの教会で結婚した。

 李承晩(イ・スンマン)政権が崩壊した後、1963年に朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の助けで帰国した李玖氏は、母の李方子女史と一緒に昌徳宮(チャンドククン)・楽善斎(ナクソンジェ)に住んだ。ソウル大や延世大などで建築工学を講義をし、会社を経営したりもした。

 1979年に経営する会社が倒産し、李玖氏は「金を工面しに行く」と故国を離れ、日本に留まった。その渦中でジュリア女史との離婚(1982年)や、母の李方子女史の死(1989年)を経験し、その後は日本の女占い師と暮らした。

 そして李玖氏は1996年11月、「永久帰国」した。宗親会(一族の会)の総裁として実務も行い、宗廟(朝鮮王朝時代の歴代の王や、王妃の位牌を祭るところ)で開かれる大祭も主管した。当時、李玖氏は「私はもはや、王家と関係がない、個人、李玖に過ぎない」と常に語っていた。

 だが、李玖氏の「永久帰国」は長く続かなかった。神経衰弱も患っていた李玖氏は、故国の地に完全に適応することができず、日本と韓国を行き来して、日本の地で最期を迎えた。

 葬儀は9日葬で行われ、24日に出棺の予定だ。埋葬地は京幾(キョンギ)道・南揚州(ナムヤンジュ)市・洪陵(ホンヌン/高宗(コジョン)皇帝陵)後方にある英親王墓地(霊園)となる。

朝鮮日報


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