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長崎街道の今昔

日々の研究の中での、ちょっとした発見を綴っていきます。

④ 原田宿の代官杉山平四郎

2005年04月04日 14時59分09秒 | 伊能忠敬について
 文化9年9月25日原田宿の町茶屋で伊能忠敬に面会した代官杉山平四郎は、13年後の文政8年(1825)当時もまだ原田宿代官をしていたことが高嶋円助の記録でわかる。
 文政8年3月24日、高嶋円助は原田宿下代高嶋治七郎が病死したその跡役に任用され「同年4月5日より御代官杉山平四郎殿在勤中、出勤致し候事」と記している。
 その後の天保と安政の分限帳にも「百三十石 杉山平四郎」の名が見えるが、万延元年(1860)の分限帳では『百三十石 杉山啓之進」となっている。おそらく啓之進は平四郎の子であろう。
 杉山啓之進は、昌雄といい、歌人だったことが森政太郎編『筑前名家人物誌』に見える。この啓之進の「長男信太郎が病気で廃嫡となったため、その姉と結婚し杉山家に養子として入った人物」が杉山三郎平(灌園)で、その息子が幼名を平四郎といった、後の杉山茂丸だという。
 杉山三郎平は維新後、一時、家を挙げて御笠郡山家村の加島家に寄寓した後、夜須郡の二村に移住し、敬止義塾を開いていたという。

③ 酒造屋・薬種屋でもあった山内卯右衛門

2005年04月03日 10時23分47秒 | 伊能忠敬について
 原田宿の山内卯右衛門は屋号を松屋といい、酒造屋と薬種屋を兼ねていた。文化14年3月、原田宿卯右衛門は二日市宿清作とともに郡奉行の八田九内から上方酒・旅酒の買い入れを取り締まる「御笠郡中改め方頭取を申し付けられている(大賀文書4407)。その「申渡」の文面によると、すでに文化9年と文化12年にも、酒屋たちの上方酒や旅酒の買い入れ禁止令が出されていたことがわかる。
 一方、松屋が薬種屋だったことは、オランダ人の顔を描き、「筑前原田松屋製・御免蘭方・きなきな丸」と印刷した「大ねつさまし」の薬の包み紙が、原田宿の下代手伝いをしていた高嶋与一郎の自筆「年譜」(嘉永七年正月)の裏紙に使用されていることでわかる。もう一枚の薬の包み紙には「筑州御笠郡原田駅松屋」として「日本根元蘭方随一・喝蘭補元丹」の文字が印刷してあった。カランポガンタンとでも読むのであろうか。

② 原田宿の年寄山内卯右衛門

2005年04月02日 09時21分24秒 | 伊能忠敬について
 先手組の坂部隊が原田宿を測量して長崎街道を北上した後、後手組の伊能忠敬本隊が田代宿から筑前領原田村境までを測り、それから無測で九つ半後(午後1時ころ)原田宿に到着した。伊能忠敬は客館に、下役は長崎屋治助に分宿した。原田宿の代官杉山平四郎と年寄山内卯右衛門が挨拶に出た。客館は御茶屋のことだが、原田宿には御茶屋はなく町茶屋が1軒だけで、町茶屋守は山内孫四郎といった。忠敬は山内を山口と聞き誤り「客館預かり主山口孫四郎」と「測量日記」に記している。原田宿年寄の山内卯右衛門は坂部隊が小休みした「町役人宇右衛門」と同一人と思われる。福岡藩では宿場町の町役人は庄屋・年寄・問屋の三役である。
 文化9年9月当時、原田宿の年寄役であった山内卯右衛門は2年後の文化11年には原田村庄屋になり、そのとき41歳だったことが「福岡藩郡方覚」(『福岡県史資料』第7輯)でわかる。

第Ⅱ部 ①原田宿と『測量日記』

2005年03月28日 10時29分54秒 | 伊能忠敬について
 筑前原田宿に伊能忠敬測量隊が肥前対州領田代宿から入ってきたのは文化9年9月25日のことであった。測量隊のうち先手組の坂部隊が田代宿を先発し、肥前国基イ郡対州領城戸村と筑前国御笠郡福岡領原田村との境界地点まで無測で行き、そこに原印を残して測量を開始した。原田宿に入ると、すぐ右に口留番所があり、少し先の「測所」の前まで測った。原印から此処までの距離は14町33間であった。「町役人宇右衛門」の家で小休止した。「測所」から1町進むと道の右側に問屋、左側に制札場があった。原田宿を出外れたところに博多道と江戸道の追分があり、この追分地点に森印を残した。制札から此処まで3丁23間あった。
 「測所」はこの日後手組の伊能忠敬が宿泊した「客館(御茶屋)」と考えられる。山内陽亭の「原田駅家真景の図」では関番所の一軒隣りに「御茶屋」が描かれている。
 坂部隊は、この森印の追分から右の長崎街道を測り、御笠郡の筑紫村、下見村を通り、下見川を渡り、岡田村を経て夜須郡朝日村の二村(ふたむら)の「博多街道追分」に出て、二印を残した。森印からここまで32丁46間4尺あった。二印から右へ江戸道を進み、4丁27間で江戸道と日田道の追分に出た。ここに大印を残した。ここは御笠郡山家村大股というところである。この大股追分から左を行けば長崎街道山家宿だが、右の日田道を進み、薩州街道の追分に出た。ここはすでに今年の「2月4日」に測量杭を残した追分碑のある地点である。大印からこの追分碑まで2丁53間5尺あった。ここから今年の「二月三日打止碑」を残した「山家宿の人家の限り」地点まで引き返し、そこから初め大股の追分大印まで計った。3丁14間5尺あった。
 この日の測量距離の総数を1里26町18間2尺と記しているが、これは小区分ごとに記している距離数の合計と正確に一致している。この日、坂部隊は夜須郡朝日村の二村の3軒(酒屋甚八・綿屋甚四郎・庄屋嘉助)に分宿した。

埋没した星野助右衛門の墓石

2005年01月26日 09時35分27秒 | 伊能忠敬について
 明治初年に編纂された『福岡県地理全誌』(注4)の福岡・薬院村の項には星野助右衛門の墓が次のように紹介されている。「村ノ南十五町丸尾ニアリ、高四尺余、幅二尺五寸許。星野ハ黒田家ノ士ニテ天文暦算ニ達セリ。暦法ヲ学ブ者、皆此人ヲ祖トス。碣銘アリ、曰ク、(碑銘は略する)其後文字剥滅セシカバ寛政九年丁巳四月学官広羽佳古、算学官山本延常、松尾美明再ビ建碑テ旧銘ヲ勒セリ」。
 この再建碑も昭和4年『福岡県碑誌』編纂の当時には、すでに存在しなかった。編纂者荒井周夫氏は、その碑文を森政太郎氏の写本中に発見したという。「碑は元福岡市警固の山中にあり。今の練塀町停留所と古小烏の中間に位置したりといふ。かつて十数年前までは転倒せる碑を実見したりといふ人ありしも今はその所在全く不明にして此碩学を地中に埋没に委したるを精探の結果、森政太郎氏の蔵書中に此の写本あり、雀躍収めて茲に載す」(注5)。
 注1『福岡藩分限帳集成』1999
 注2『福岡県史料叢書第四輯』昭24
 注3『福岡県碑誌』昭4
 注4『福岡県史・近代史料編』昭63 
 注5 星野廓庭子碑『福岡県碑誌』
   

 

横川流だった筑前の分間方

2005年01月25日 14時20分44秒 | 伊能忠敬について
 慶応分限帳(注1)には分間方の山本源之進の肩書きに横川流とある。福岡藩の分間方が江戸の算学者横川玄悦の流れを引くことは、伊東尾四郎氏が「算学者概伝」(注2)で「筑前の算学者は星野実宣を祖とする」とし、さらに「黒田新続家譜」の元禄国絵図製作の条に「星野助右衛門は我邦算道の中興横川玄悦に相つゐて天元正負の妙術を発揮せる者なり」とあるのを引き、そしてさらに「竹田家に定直が算学を星野に学び、又これを広羽氏に伝えた許可証の案文がある。横川心庵が祖で、星野が第二祖、次が竹田で、広羽が第四伝とし、奥書は正徳甲午仲冬望、横川心庵、星野助右衛門実宣、竹田助太夫定直、広羽八之丞元右丈としてある」と述べられている。正徳甲午は正徳四年(1714)に当たる。
 星野助右衛門は元禄国絵図製作途上の元禄12年(1699)3月7日、62歳で急逝した。その墓碑は薬院村の丸尾山の麓にあったが、その後転倒し文字も剥滅していたので、寛政9年(1797)4月、すでに算学官(分間方)を辞任していた広羽佳古翁が現職の算学官山本延常と松尾美明の二人と資金を出し合って再建し、旧碑銘を復刻し、それに続けて再建の由来を竹田定矩に委嘱して追銘した(注3)。 
 
 

山本源助の墓誌

2005年01月24日 09時21分53秒 | 伊能忠敬について
福岡藩には城代組に分間方を家業とする山本、松尾、広羽の3家があった。18世紀中頃の「延享分限帳」には次のように見える。
  4人扶持15石 山本源助 
  7人扶持20石 広羽八之丞 
  3人扶持14石 松尾弥右衛門 
 この3人のうち山本源助は19世紀中頃の「天保分限帳」では禄高が百石になっている。明治41年の森政太郎編『筑前名家人物志』によると、山本源助は文政のころ藩主の命で、筑前全国の山川原野の実地を測量し、その功績で天保の初め、禄百石を賜ったという。中級家臣の城代組から上級家臣の馬廻組に抜擢されたわけである。
 山本源助は安政2年(1855)83歳で没した。その墓は安国寺にある。その男、延賢の撰による『山本延英墓誌」には「…在職五十有七年、地理を察し、封彊を正し、数々功あり。旧藩主これを賞し、再び禄を加賜し、終に采地百石を賜ふ。…翁、通称は源助、致仕して遊二と号す。安政二年乙卯九月九日卆す。行年八十有三。おくり名して地測院為彊成功居士と曰ふ」とある。分間方の職務が測量によって藩の境界を正すことだったことがわかる。在職57年というと、26歳の時から分間方をつとめたことになり、伊能忠敬の付添代官となった文化9年は40歳だったことになる。

分間方の山本源助

2005年01月23日 09時03分17秒 | 伊能忠敬について
 文化9年7月、伊能忠敬の第2回目の筑前入国の際、浦方下役として付添案内に当った青柳種信の「自記」によると、伊能忠敬は宗像大宮司が書いた宗像宮由来書に満足せず、青柳種信に書かせてほしい旨を「付廻り分間方山本源助」を介して福岡藩に申し入れたという。分間(分見)とは「図上で1分を実測の10間とか15間とかに相当するように表す」ことから縮尺や測量を意味する(広辞苑)。測量を担当する役職を分間方(分見方)といった。
 翌年10月10日、伊能忠敬一行を豊前香春町の手前の筑前国境まで見送った原左太夫、上野小八、山本源助の三人のうち、山本源助だけはさらに小倉まで送ってゆき、12日、伊能忠敬一行と別れて福岡に帰っている。このとき忠敬は「山本源助福岡ヘ帰ル、国図ヲ貸ス,外ニ村々差出帳之内ヲ国図ト共ニ江戸届ヲ頼遣ス」と「測量日記」に記しているから、山本源助は特別に伊能忠敬の信頼を得ていたらしい。

境目受持の上野小八

2005年01月19日 13時58分08秒 | 伊能忠敬について
 文化年間の分限帳(注1)によると、上野小八は無足組、18石4人扶持の藩士である。青柳種信の「自記」(注2)には,その職掌が「御境目受持、御右筆頭取上野小八」として見え、青柳種信が伊能忠敬の求めに応じて著した「宗像宮略記」と「後漢金印考」の控えを一通ずつ御右筆所にも差し出すよう上野小八から命ぜられ、同人まで差し出したこと、また伊能忠敬が所持していた「肥前国図一枚」の借用を、忠敬の内弟子尾形謙次郎を通して伊能忠敬と坂部貞兵衛の両人に申し入れ,甘木駅でそれを受け取り、福岡城の大書院で御絵師衣笠久之丞に写させ、一年後の文化十年十月,再入国した伊能忠敬に博多の大賀屋敷でそれを返却したことなどが見える。御右筆所の頭取といい、御境目受持といい、彼もまた測量隊の「付き回り代官」として適切な人物だったことがわかる。
 なおこの上野小八は、文化九年から十年ほど前の享和元年(1801)にはすでに「記録方・境目引切請持」として分間方の広羽八之丞、松尾重次郎とともに御境目見分に活躍していたことが『吉田家伝録』(注3)に見える。
 注1 「文化十四年分限帳」(『黒田三藩分限帳』)
 注2 大熊浅次郎「青柳種信年譜の梗概」(『筑紫史談』62集)に全文転載。
 注3 「吉田経年勤事之章」(『吉田家伝録』下巻)

三人の付廻り代官出揃う

2004年12月28日 16時25分43秒 | 伊能忠敬について
 山家宿代官の原左太夫が改めて付き廻り代官として伊能忠敬を小倉城下に出迎えるのは文化9年7月14日,第2回の筑前入国からである。実はこの日、小倉に入ったのは伊能忠敬と尾形顕次郎の二人だけだった。この二人は,その二日前の7月13日,来る16日の月食観察の準備のため,彦山の宿舎から大雨の中を小倉に向かって出発,その日は香春町に止宿,翌14日の九つ後(正午過ぎ)小倉城下に着いたのだった。
 この忠敬と尾形の両人を小倉城下に、まず「筑前福岡代官原左太夫」の手付、倉岡喜助が出迎え,「追々」に同役の須藤次内が出,伊能忠敬と尾形が小倉の定宿(宮崎良助)に到着後,原左太夫が挨拶に出た。そして更に測量隊一同が到着した15日にも原左太夫は出頭している。
 16日は朝から晴天,夜も同様に晴れていた。月食を観測し夜の八つ後(午前二時ころ)に終了した。その翌日も晴天,月食観測の調書を作成している。18日は波が高く藍島渡海はできず小倉に逗留,「測食稿」をしたためた。19日は一同藍島に渡ったが,坂部貞兵衛が一人だけ残って「月食稿」を仕上げている。 
 7月21日,小倉城下を出立し,筑前黒崎へ向かった。浦方下役の青柳勝次が同役の山田宇平とともにその名を「測量日記」に初めて見せるのはこの日である。
 その翌日,一行は黒崎を出立し,若松村に止宿しているが、「此日案内」の役人には二人の庄屋のほか「山本源助手付藤本圭治」の名が見える。これは山本源助とその部下の藤本圭治の二人と考えられる。そして7月24日には、新たに上野小八が「付回代官」に加わったことが「測量日記」に次のように見える。
 「付回代官上野小八,今日より初めて出る、付添代官山本源助,日々付回る、原左太夫も同」
 ここでようやく原・山本・上野の「付回代官」三人が出揃ったことになる。これ以後この三人は伊能忠敬測量隊と行動をともにする。