長崎街道の今昔

日々の研究の中での、ちょっとした発見を綴っていきます。

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ジャガタラ文

2009年01月20日 16時10分25秒 | Weblog
第3回 
 平戸紀行中、最大の収穫は「ジャガタラ文」1通を全文翻刻していることである。筆者によると、その1通は平戸の木引田町の藤川某の所蔵であった。藤川氏が不在のため閲覧は殆ど絶望と思われたが鹿児島耕道師から門徒総代に相談してもらい見ることが出来た。多加羅生は次のように解説している。
「予が始めて見るを得たる『ジャガタラ文』は左の如く同地判田五右衛門なる者の娘、宗名『コルネリヤ』と云へるが、其の兄夫婦へ寄せ来れる者なるが、手跡も左迄に拙ならず、当時の女の物としては先ず感心なものと云ふべし。事は寛文年間(今より凡そ二百四五十年前)ならんと思はる。」
 なおこの「ジャガタラ文」は中央公論社の『日本の歴史14鎖国』に岩生成一氏による翻刻と解説がある。
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②二村の敬止義塾址の碑

2007年04月08日 14時15分33秒 | 街道雑話
 長崎街道が日田街道に丁字形に突き当たったところが二村という小さな街村の西端である。その名の起こりは道を挟んで向き合った北側の家並みが御笠郡山家村、南側の家並みが夜須郡朝日村だったところから来ていると云うが、元禄の頃にはすでに一括して夜須郡朝日村に属していた。
 この二村の日田街道筋に「敬止義塾址」と大書した自然石の碑が建っている。その碑面中央の5文字の左脇には「杉山茂丸筆」とあるが、碑背に「大正乙丑之春 門弟中建之」とあるのを確認したのは昨年6月10日のことである。
 敬止義塾については昭和39年4月筑紫野町山家老人会が発行した『筑前山家の日本一、三遺蹟評判記』が詳しい。著者は近藤義夫翁(当時80歳)である。この中に敬止義塾の門弟だった斉田耕陽が晩年(昭和29年)に語った述懐談が書き留められている。その関係部分を摘録してみよう。
 
 杉山茂丸翁の父が山家宿あとに仮寓の頃、その隣村朝倉郡夜須村字二タ村敬止義塾をつくり郷土の子弟を育成したことを述べてみたい。その塾生の一人に福岡日日新聞社(現西日本新聞)事業部長斉田耕陽(御笠村阿志岐出身)があった。彼の述懐談ー
  筑紫郡山家村から程近い二村の杉山灌園先生の塾ができ、明治十八年自分も(斉田耕陽)約二年間この塾に入った。塾生の多数は自宅通学であったが、七八人は塾に寄宿、ここから二日市の高等小学校に通っていた。塾の学派は朱子学、否水戸学派に近く、教科書は弘道館記述義、靖献遺言、日本外史、政記、十八史略、四書、左伝などを修めた。塾舎は先生の居宅を僅かの中庭を隔てた茅葺きの四畳に六畳の二室のボロ家…。長州の松下村塾も日田の淡窓かん宜園もだいたい似たり寄ったりの一私塾であった。………七十年前(昭和二十九年から)の二村塾の残存者として僕より外に当時を語る適任者なしとの故でこの話をする。
 
 この斉田耕陽の述懐談に見える「明治十八年自分も約二年間この塾に入った」ことは同じ御笠村天山出身の井上隆三郎と全く同一である。井上の履歴書には次のように見える。
  明治十六年三月 思川中学に入校(后御笠中学と改称す)公立思川中学
  同 十八年六月廿一日 中学□級卒業候事       公立御笠中学
  同   年 月    御笠中学廃校
  自同十八年七月
  至同 廿年六月    杉山灌園に就き国漢学を修む 私塾
  同十九年六月廿一日 小学中等科授業生たるを免許す 御笠那珂席田郡役所
  自同廿年七月     総丈量土地取調事務に従事す
  至同廿一年十一月                永岡村外六ヶ村役場

 これによると杉山灌園が私塾を開いたのは御笠中学の廃校と関係がありそうである。井上隆三郎は明治十八年七月から同二十年六月までの二年間杉山灌園の私塾に学んだあと、二十年七月村役場の吏員となり土地丈量業務を翌年十一月まで担当している。
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原田宿から山家宿までの実測距離

2007年04月07日 16時45分27秒 | 街道雑話
    長崎街道原田宿から山家宿までの実測距離
肥前筑前国境・原印~原田宿測所  14丁33間
原田宿測所~原田宿制札       1丁00間
原田宿制札~博多街道追分・森印   3丁23間
森印~朝日村博多街道追分・二印  32丁46間4尺
二印~江戸道・日田道追分・大印   4丁27間

山家宿人家限り2月3日打止碑~大印 3丁14間5尺
山家宿測所~山家宿人家限り肥前筑後追分石 1丁59間2尺    
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二村(ふたむら)と大又(おおまた)

2007年04月04日 16時55分41秒 | 街道雑話
 長崎街道は筑前の山家宿と原田宿の中間で福岡城下と天領日田を結ぶ日田街道と丁字形に二カ所で交差している。西の交差点が夜須郡朝日村の枝村である二村で、東の交差点が御笠郡山家村の字大股である。
 伊能忠敬の測量隊は文化9年1月27日に小倉を出発、筑前六宿の黒崎ー木屋瀬ー飯塚ー内野を経て2月4日山家宿に到着、その日のうちに山家測所(伊能忠敬の宿、町茶屋守近藤弥右衛門宅)から「肥前筑後追分石」までの長崎街道を測ったが、翌2月5日からは長崎街道と別れ、「肥前筑後追分石」から左折して日田街道を測り、夜須郡中牟田村の石櫃追分で今度は右折して薩摩街道を測っている。
 その半年後、佐賀で伊能本隊と手分けした坂部隊が長崎街道を北上し、9月25日肥前田代宿を出発、筑前領に入り原田宿を経て山家宿に向かい、夜須郡二村で日田街道に突き当たると、そこに二印を残し、右折して日田街道(長崎街道と重複)を山家村の字大股まで進み、そこに大印を残すと長崎街道と別れ、そのまま日田街道を直進し、半年前に残した「山家・朝日村界」の「長崎街道福岡街道碑」までを測り、ここから無測で「山家駅外・肥前筑後追分石」まで歩き、そこから長崎街道を測って下り大印に達している。
 これではじめて長崎街道の山家宿と原田宿が繋がったことになる。これを整理してみると次のようになる。

    長崎街道原田宿から山家宿までの実測距離
肥前筑前国境・原印~原田宿測所  14丁33間
原田宿測所~原田宿制札       1丁00間
原田宿制札~博多街道追分・森印   3丁23間
森印~朝日村博多街道追分・二印  32丁46間4尺
二印~江戸道・日田道追分・大印   4丁27間

山家宿人家限り2月3日打止碑~大印 3丁14間5尺
山家宿測所~山家宿人家限り肥前筑後追分石 1丁59間2尺 
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水城跡から出土した千年木に書いた采蘋の書

2006年06月11日 10時01分13秒 | Weblog
 現在、甘木歴史資料館で開催中の「原采蘋女史展」に原采蘋が「秋成」の二文字を大きく書いた一枚板の額が出品されている。その額は天智天皇の三年(西暦664年)に築造された水城の地中から掘り出した木樋の杉材で造ったものと言われている。それを証拠づけるもう一枚の書額も展示されている。これは福岡藩の書家で有名な吉留杏村がその由来を詳しく述べたもので文末に「文政七年甲申初冬四日記 吉留巨川」という年月日と署名がある。巨川は杏村の字(あざな)である。 (続く)秋成書屋主人 
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咸宜園の門下生―秋重与のこと―

2006年03月26日 11時21分47秒 | Weblog
 第1話 日田街道上の寿蔵碑
博多から日田まで一直線の日田街道のほぼ中央に当たる筑前甘木宿の少し先に、その名も十文字と言う十字路の交差点がある。その手前右手に、街道に北面して4段の基壇の上に立つ大きな記念碑がバスの窓からも見えていた。碑の正面には縦に「楳奄先生」の四文字と、その上部に横書きで「寿蔵碑」の三文字が彫られ、さらに碑文が碑の3面にわたって刻まれている。この碑文は昭和4年刊行の『福岡県碑誌』にも見えるが、それより早く大正15年に朝倉郡教育会が出した『朝倉郡郷土人物誌』に其の全文が掲載されている。この碑文のことは次回に譲り、先ずはその『人物誌』に見える「秋重楳奄」の小伝から紹介しよう。(奄の字は本来は山へんが付いているのだが活字がないので仮に奄としておく)
       
    秋重楳奄
金川村牛鶴の秋重家は代々医を業とし十五代に及べり。而して十三代楳奄翁は御城代医として福岡藩公に召され、維新後医業を嗣子に譲るや中学教諭に任ぜられ、後に私塾を起こして漢学を講ず。門下の人、相謀り寿蔵碑を同家の庭前に建て永くその学徳を敬慕せり。今その小伝に代ふるに同碑の碑文を以てせん。
 (碑文は略)
楳奄翁は明治33年3月5日、76歳を以て自邸に没す。辞世の詩に曰く、
  宇内の観光は未だ思いを遂げず、棺を蓋いて後以て一飛期とせん。
  遊魂たとえ曽英の遠きにあるも、家祭には必ず臨まん我を招くの時。
是に依て之を見ればこの老齢にして猶且海外留学の雄志禁じ難きもの在りしならん。嗣、実積、父翁の絶筆を表装保存し、年々盂蘭盆には位牌と共に之を仏壇に掲げて祭祀せりという。楳奄詩集乾坤二冊、楳奄遺稿一冊。その他遺稿および翁の画像写真等、今なお同家に保存せらるれども翁畢生の努力になりし写本数十巻は散逸して在らずという。惜しむべし。翁の墓は父及び祖父のそれと共に三奈木村十文字に在り。何れも漢文を以て其の小伝を記せり。 
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播州山崎の城主宇野祐清と山崎茂右衛門

2005年11月13日 12時06分24秒 | Weblog
プロローグ
 福岡藩士山崎家の家伝および系図によれば、天正8年(1580)秀吉の中国攻めによって毛利方の播州宍粟郡山崎の城主宇野民部大輔祐清は落ち延びの途中、自刃し果てたが、その妻が無事落ち延びて産んだ遺児が、長じて父の旧領地山崎を氏とし、筑前黒田家に召抱えられたという。これが山崎茂右衛門基久である。
 この山崎家13代の当主から先祖伝来の古文書1巻をお預かりしたのは、昨年の夏だったが、このほど遠祖宇野祐清の四百二十五年祭を播州山崎の菩提寺で現地の方々と盛大に執行され、拙宅にもお寄り頂いたので、お返しすることが出来た。
 此の古文書の中には宇野祐清の自筆文書が2通ある。先ずは此の文書を手がかりにして、山崎茂右衛門なる人物がたどった数奇なる運命の道を探ってみようと思う。  
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④ 原田宿の代官杉山平四郎

2005年04月04日 14時59分09秒 | 伊能忠敬について
 文化9年9月25日原田宿の町茶屋で伊能忠敬に面会した代官杉山平四郎は、13年後の文政8年(1825)当時もまだ原田宿代官をしていたことが高嶋円助の記録でわかる。
 文政8年3月24日、高嶋円助は原田宿下代高嶋治七郎が病死したその跡役に任用され「同年4月5日より御代官杉山平四郎殿在勤中、出勤致し候事」と記している。
 その後の天保と安政の分限帳にも「百三十石 杉山平四郎」の名が見えるが、万延元年(1860)の分限帳では『百三十石 杉山啓之進」となっている。おそらく啓之進は平四郎の子であろう。
 杉山啓之進は、昌雄といい、歌人だったことが森政太郎編『筑前名家人物誌』に見える。この啓之進の「長男信太郎が病気で廃嫡となったため、その姉と結婚し杉山家に養子として入った人物」が杉山三郎平(灌園)で、その息子が幼名を平四郎といった、後の杉山茂丸だという。
 杉山三郎平は維新後、一時、家を挙げて御笠郡山家村の加島家に寄寓した後、夜須郡の二村に移住し、敬止義塾を開いていたという。
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③ 酒造屋・薬種屋でもあった山内卯右衛門

2005年04月03日 10時23分47秒 | 伊能忠敬について
 原田宿の山内卯右衛門は屋号を松屋といい、酒造屋と薬種屋を兼ねていた。文化14年3月、原田宿卯右衛門は二日市宿清作とともに郡奉行の八田九内から上方酒・旅酒の買い入れを取り締まる「御笠郡中改め方頭取を申し付けられている(大賀文書4407)。その「申渡」の文面によると、すでに文化9年と文化12年にも、酒屋たちの上方酒や旅酒の買い入れ禁止令が出されていたことがわかる。
 一方、松屋が薬種屋だったことは、オランダ人の顔を描き、「筑前原田松屋製・御免蘭方・きなきな丸」と印刷した「大ねつさまし」の薬の包み紙が、原田宿の下代手伝いをしていた高嶋与一郎の自筆「年譜」(嘉永七年正月)の裏紙に使用されていることでわかる。もう一枚の薬の包み紙には「筑州御笠郡原田駅松屋」として「日本根元蘭方随一・喝蘭補元丹」の文字が印刷してあった。カランポガンタンとでも読むのであろうか。
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② 原田宿の年寄山内卯右衛門

2005年04月02日 09時21分24秒 | 伊能忠敬について
 先手組の坂部隊が原田宿を測量して長崎街道を北上した後、後手組の伊能忠敬本隊が田代宿から筑前領原田村境までを測り、それから無測で九つ半後(午後1時ころ)原田宿に到着した。伊能忠敬は客館に、下役は長崎屋治助に分宿した。原田宿の代官杉山平四郎と年寄山内卯右衛門が挨拶に出た。客館は御茶屋のことだが、原田宿には御茶屋はなく町茶屋が1軒だけで、町茶屋守は山内孫四郎といった。忠敬は山内を山口と聞き誤り「客館預かり主山口孫四郎」と「測量日記」に記している。原田宿年寄の山内卯右衛門は坂部隊が小休みした「町役人宇右衛門」と同一人と思われる。福岡藩では宿場町の町役人は庄屋・年寄・問屋の三役である。
 文化9年9月当時、原田宿の年寄役であった山内卯右衛門は2年後の文化11年には原田村庄屋になり、そのとき41歳だったことが「福岡藩郡方覚」(『福岡県史資料』第7輯)でわかる。
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