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長崎街道の今昔

日々の研究の中での、ちょっとした発見を綴っていきます。

原左太夫は亀井昭陽の友人だった

2004年12月19日 17時18分03秒 | 伊能忠敬について
 伊能忠敬の測量日記に「渋川主水門人のよし」と書き留められた山家宿代官原左太夫は,その年齢も事跡もわからないが,彼が学問好きであったことは亀井昭陽が「烽山日記」にその交遊の様を記していることでわかる。原左太夫が伊能忠敬と出会う文化9年の3年前,文化6年10月21日,御笠郡天山烽火場の番人をしていた昭陽を山家宿から原左太夫と平島玲蔵が訪ねている。昭陽はこの2人を「旧知なり」とし,続けて「原生は駅官の子,その吏,箕形芳助なるものを従う」と記している。左太夫が代官の父と一緒に山家宿の代官屋敷に住んでいたことがわかる。3日後の24日には,左太夫が昭陽を山家宿の名園介右亭に招待している。給仕に出た「童児五、六人」を昭陽は「原生の読書生なり」と言っている。左太夫が手習い塾の先生をしていたことがわかる。少年たちの態度が立派なのに感心して,田舎にも先生が必要なことを知ったといっている。 

原左太夫

2004年12月07日 13時22分46秒 | 伊能忠敬について
 九州測量の第2回目,文化9年2月4日長崎街道を南下して筑前山家駅に止宿した伊能忠敬の宿舎に,山家宿代官原左太夫が挨拶に出ている。「測量日記」はその原左太夫に『渋川主水門人之由」という2行8文字の割注を記している。渋川主水とはいったい何者なのか。
 私は13年前,「天山ののろし台ー亀井昭陽の日記からー」(『福岡歴史探検』1991)で渋川主水を天文方高橋至時の次男で,渋川氏を継ぎ天文方となった渋川景佑であろうとしていたが,このたびの研究集会で河島氏から貸与を受けた『伊能忠敬研究37号』(04/8)のなかの伊藤栄子「渋川家と養子景佑(高橋善助)の家族」により、渋川主水は景佑の養父で,寛政11年から文化6年まで天文方を勤めていた人物であることを知った。原左太夫は渋川主水の天文方在職中,江戸に出向いて入門の手続きをとり,天文暦術を学んでいたものと見える。文化9年2月4日,伊能忠敬の宿舎に出向いた原左太夫は,自分が江戸の幕府天文方渋川主水の門人であることを忠敬に語ったに違いない。
 このことが5ヵ月後の7月14日,第2回目の九州測量を終え小倉城下に戻った伊能忠敬に対し,原左太夫を改めて福岡藩派遣の「付き回り代官」として2人の手付(下代)を従えて出迎えさせることになったのであろうと考える。おそらく伊能忠敬が福岡藩に原左太夫の付き添い案内を要望したのではないだろうか。

伊能忠敬が出会った人々 その1

2004年12月03日 16時51分47秒 | 伊能忠敬について
 快晴の11月27日,福岡会場のフロアいっぱいにひろげられた九州全域の伊能大図の上には人がすいつけられたように動かない。隙間を狙って写真をとったがビニールが反射して出来が悪かった。
 福史連の筑前地区研究集会では,この日の午前中を自由見学に,午後を県立図書館での伊能忠敬に関連する研究発表に当てた。木星子の発表テーマは「伊能忠敬と九州測量」である。
 さて,伊能忠敬の研究には,地図と日記と書状の3点セットが欠かせない。このうち『測量日記』の魅力の一つに忠敬が出会った人々の探索がある。まずその一人として筑前山家宿の代官,原左太夫を取り上げてみよう。

アメリカ伊能大図里帰りフロア展

2004年11月14日 14時51分10秒 | 伊能忠敬について
 「アメリカ伊能大図里帰りフロア展」が来る11月26日から3日間,福岡市の少年科学文化会館であります。福岡市の市政便りによると「近代的日本地図の先駆者・伊能忠敬による「日本沿海輿地全図」の大図の複製図を展示。米国・ワシントンの議会図書館で3年前に発見された部分を加えて復元されたもの」。九州では福岡会場だけだそうです。大いに期待しています。次回はその報告をします。お楽しみに。