伊能忠敬の測量日記に「渋川主水門人のよし」と書き留められた山家宿代官原左太夫は,その年齢も事跡もわからないが,彼が学問好きであったことは亀井昭陽が「烽山日記」にその交遊の様を記していることでわかる。原左太夫が伊能忠敬と出会う文化9年の3年前,文化6年10月21日,御笠郡天山烽火場の番人をしていた昭陽を山家宿から原左太夫と平島玲蔵が訪ねている。昭陽はこの2人を「旧知なり」とし,続けて「原生は駅官の子,その吏,箕形芳助なるものを従う」と記している。左太夫が代官の父と一緒に山家宿の代官屋敷に住んでいたことがわかる。3日後の24日には,左太夫が昭陽を山家宿の名園介右亭に招待している。給仕に出た「童児五、六人」を昭陽は「原生の読書生なり」と言っている。左太夫が手習い塾の先生をしていたことがわかる。少年たちの態度が立派なのに感心して,田舎にも先生が必要なことを知ったといっている。
