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長崎街道の今昔

日々の研究の中での、ちょっとした発見を綴っていきます。

ジャガタラ文

2009年01月20日 16時10分25秒 | Weblog
第3回 
 平戸紀行中、最大の収穫は「ジャガタラ文」1通を全文翻刻していることである。筆者によると、その1通は平戸の木引田町の藤川某の所蔵であった。藤川氏が不在のため閲覧は殆ど絶望と思われたが鹿児島耕道師から門徒総代に相談してもらい見ることが出来た。多加羅生は次のように解説している。
「予が始めて見るを得たる『ジャガタラ文』は左の如く同地判田五右衛門なる者の娘、宗名『コルネリヤ』と云へるが、其の兄夫婦へ寄せ来れる者なるが、手跡も左迄に拙ならず、当時の女の物としては先ず感心なものと云ふべし。事は寛文年間(今より凡そ二百四五十年前)ならんと思はる。」
 なおこの「ジャガタラ文」は中央公論社の『日本の歴史14鎖国』に岩生成一氏による翻刻と解説がある。

水城跡から出土した千年木に書いた采蘋の書

2006年06月11日 10時01分13秒 | Weblog
 現在、甘木歴史資料館で開催中の「原采蘋女史展」に原采蘋が「秋成」の二文字を大きく書いた一枚板の額が出品されている。その額は天智天皇の三年(西暦664年)に築造された水城の地中から掘り出した木樋の杉材で造ったものと言われている。それを証拠づけるもう一枚の書額も展示されている。これは福岡藩の書家で有名な吉留杏村がその由来を詳しく述べたもので文末に「文政七年甲申初冬四日記 吉留巨川」という年月日と署名がある。巨川は杏村の字(あざな)である。 (続く)秋成書屋主人 

咸宜園の門下生―秋重与のこと―

2006年03月26日 11時21分47秒 | Weblog
 第1話 日田街道上の寿蔵碑
博多から日田まで一直線の日田街道のほぼ中央に当たる筑前甘木宿の少し先に、その名も十文字と言う十字路の交差点がある。その手前右手に、街道に北面して4段の基壇の上に立つ大きな記念碑がバスの窓からも見えていた。碑の正面には縦に「楳奄先生」の四文字と、その上部に横書きで「寿蔵碑」の三文字が彫られ、さらに碑文が碑の3面にわたって刻まれている。この碑文は昭和4年刊行の『福岡県碑誌』にも見えるが、それより早く大正15年に朝倉郡教育会が出した『朝倉郡郷土人物誌』に其の全文が掲載されている。この碑文のことは次回に譲り、先ずはその『人物誌』に見える「秋重楳奄」の小伝から紹介しよう。(奄の字は本来は山へんが付いているのだが活字がないので仮に奄としておく)
       
    秋重楳奄
金川村牛鶴の秋重家は代々医を業とし十五代に及べり。而して十三代楳奄翁は御城代医として福岡藩公に召され、維新後医業を嗣子に譲るや中学教諭に任ぜられ、後に私塾を起こして漢学を講ず。門下の人、相謀り寿蔵碑を同家の庭前に建て永くその学徳を敬慕せり。今その小伝に代ふるに同碑の碑文を以てせん。
 (碑文は略)
楳奄翁は明治33年3月5日、76歳を以て自邸に没す。辞世の詩に曰く、
  宇内の観光は未だ思いを遂げず、棺を蓋いて後以て一飛期とせん。
  遊魂たとえ曽英の遠きにあるも、家祭には必ず臨まん我を招くの時。
是に依て之を見ればこの老齢にして猶且海外留学の雄志禁じ難きもの在りしならん。嗣、実積、父翁の絶筆を表装保存し、年々盂蘭盆には位牌と共に之を仏壇に掲げて祭祀せりという。楳奄詩集乾坤二冊、楳奄遺稿一冊。その他遺稿および翁の画像写真等、今なお同家に保存せらるれども翁畢生の努力になりし写本数十巻は散逸して在らずという。惜しむべし。翁の墓は父及び祖父のそれと共に三奈木村十文字に在り。何れも漢文を以て其の小伝を記せり。 

播州山崎の城主宇野祐清と山崎茂右衛門

2005年11月13日 12時06分24秒 | Weblog
プロローグ
 福岡藩士山崎家の家伝および系図によれば、天正8年(1580)秀吉の中国攻めによって毛利方の播州宍粟郡山崎の城主宇野民部大輔祐清は落ち延びの途中、自刃し果てたが、その妻が無事落ち延びて産んだ遺児が、長じて父の旧領地山崎を氏とし、筑前黒田家に召抱えられたという。これが山崎茂右衛門基久である。
 この山崎家13代の当主から先祖伝来の古文書1巻をお預かりしたのは、昨年の夏だったが、このほど遠祖宇野祐清の四百二十五年祭を播州山崎の菩提寺で現地の方々と盛大に執行され、拙宅にもお寄り頂いたので、お返しすることが出来た。
 此の古文書の中には宇野祐清の自筆文書が2通ある。先ずは此の文書を手がかりにして、山崎茂右衛門なる人物がたどった数奇なる運命の道を探ってみようと思う。