長崎街道が日田街道に丁字形に突き当たったところが二村という小さな街村の西端である。その名の起こりは道を挟んで向き合った北側の家並みが御笠郡山家村、南側の家並みが夜須郡朝日村だったところから来ていると云うが、元禄の頃にはすでに一括して夜須郡朝日村に属していた。
この二村の日田街道筋に「敬止義塾址」と大書した自然石の碑が建っている。その碑面中央の5文字の左脇には「杉山茂丸筆」とあるが、碑背に「大正乙丑之春 門弟中建之」とあるのを確認したのは昨年6月10日のことである。
敬止義塾については昭和39年4月筑紫野町山家老人会が発行した『筑前山家の日本一、三遺蹟評判記』が詳しい。著者は近藤義夫翁(当時80歳)である。この中に敬止義塾の門弟だった斉田耕陽が晩年(昭和29年)に語った述懐談が書き留められている。その関係部分を摘録してみよう。
杉山茂丸翁の父が山家宿あとに仮寓の頃、その隣村朝倉郡夜須村字二タ村敬止義塾をつくり郷土の子弟を育成したことを述べてみたい。その塾生の一人に福岡日日新聞社(現西日本新聞)事業部長斉田耕陽(御笠村阿志岐出身)があった。彼の述懐談ー
筑紫郡山家村から程近い二村の杉山灌園先生の塾ができ、明治十八年自分も(斉田耕陽)約二年間この塾に入った。塾生の多数は自宅通学であったが、七八人は塾に寄宿、ここから二日市の高等小学校に通っていた。塾の学派は朱子学、否水戸学派に近く、教科書は弘道館記述義、靖献遺言、日本外史、政記、十八史略、四書、左伝などを修めた。塾舎は先生の居宅を僅かの中庭を隔てた茅葺きの四畳に六畳の二室のボロ家…。長州の松下村塾も日田の淡窓かん宜園もだいたい似たり寄ったりの一私塾であった。………七十年前(昭和二十九年から)の二村塾の残存者として僕より外に当時を語る適任者なしとの故でこの話をする。
この斉田耕陽の述懐談に見える「明治十八年自分も約二年間この塾に入った」ことは同じ御笠村天山出身の井上隆三郎と全く同一である。井上の履歴書には次のように見える。
明治十六年三月 思川中学に入校(后御笠中学と改称す)公立思川中学
同 十八年六月廿一日 中学□級卒業候事 公立御笠中学
同 年 月 御笠中学廃校
自同十八年七月
至同 廿年六月 杉山灌園に就き国漢学を修む 私塾
同十九年六月廿一日 小学中等科授業生たるを免許す 御笠那珂席田郡役所
自同廿年七月 総丈量土地取調事務に従事す
至同廿一年十一月 永岡村外六ヶ村役場
これによると杉山灌園が私塾を開いたのは御笠中学の廃校と関係がありそうである。井上隆三郎は明治十八年七月から同二十年六月までの二年間杉山灌園の私塾に学んだあと、二十年七月村役場の吏員となり土地丈量業務を翌年十一月まで担当している。
この二村の日田街道筋に「敬止義塾址」と大書した自然石の碑が建っている。その碑面中央の5文字の左脇には「杉山茂丸筆」とあるが、碑背に「大正乙丑之春 門弟中建之」とあるのを確認したのは昨年6月10日のことである。
敬止義塾については昭和39年4月筑紫野町山家老人会が発行した『筑前山家の日本一、三遺蹟評判記』が詳しい。著者は近藤義夫翁(当時80歳)である。この中に敬止義塾の門弟だった斉田耕陽が晩年(昭和29年)に語った述懐談が書き留められている。その関係部分を摘録してみよう。
杉山茂丸翁の父が山家宿あとに仮寓の頃、その隣村朝倉郡夜須村字二タ村敬止義塾をつくり郷土の子弟を育成したことを述べてみたい。その塾生の一人に福岡日日新聞社(現西日本新聞)事業部長斉田耕陽(御笠村阿志岐出身)があった。彼の述懐談ー
筑紫郡山家村から程近い二村の杉山灌園先生の塾ができ、明治十八年自分も(斉田耕陽)約二年間この塾に入った。塾生の多数は自宅通学であったが、七八人は塾に寄宿、ここから二日市の高等小学校に通っていた。塾の学派は朱子学、否水戸学派に近く、教科書は弘道館記述義、靖献遺言、日本外史、政記、十八史略、四書、左伝などを修めた。塾舎は先生の居宅を僅かの中庭を隔てた茅葺きの四畳に六畳の二室のボロ家…。長州の松下村塾も日田の淡窓かん宜園もだいたい似たり寄ったりの一私塾であった。………七十年前(昭和二十九年から)の二村塾の残存者として僕より外に当時を語る適任者なしとの故でこの話をする。
この斉田耕陽の述懐談に見える「明治十八年自分も約二年間この塾に入った」ことは同じ御笠村天山出身の井上隆三郎と全く同一である。井上の履歴書には次のように見える。
明治十六年三月 思川中学に入校(后御笠中学と改称す)公立思川中学
同 十八年六月廿一日 中学□級卒業候事 公立御笠中学
同 年 月 御笠中学廃校
自同十八年七月
至同 廿年六月 杉山灌園に就き国漢学を修む 私塾
同十九年六月廿一日 小学中等科授業生たるを免許す 御笠那珂席田郡役所
自同廿年七月 総丈量土地取調事務に従事す
至同廿一年十一月 永岡村外六ヶ村役場
これによると杉山灌園が私塾を開いたのは御笠中学の廃校と関係がありそうである。井上隆三郎は明治十八年七月から同二十年六月までの二年間杉山灌園の私塾に学んだあと、二十年七月村役場の吏員となり土地丈量業務を翌年十一月まで担当している。