山家宿代官の原左太夫が改めて付き廻り代官として伊能忠敬を小倉城下に出迎えるのは文化9年7月14日,第2回の筑前入国からである。実はこの日、小倉に入ったのは伊能忠敬と尾形顕次郎の二人だけだった。この二人は,その二日前の7月13日,来る16日の月食観察の準備のため,彦山の宿舎から大雨の中を小倉に向かって出発,その日は香春町に止宿,翌14日の九つ後(正午過ぎ)小倉城下に着いたのだった。
この忠敬と尾形の両人を小倉城下に、まず「筑前福岡代官原左太夫」の手付、倉岡喜助が出迎え,「追々」に同役の須藤次内が出,伊能忠敬と尾形が小倉の定宿(宮崎良助)に到着後,原左太夫が挨拶に出た。そして更に測量隊一同が到着した15日にも原左太夫は出頭している。
16日は朝から晴天,夜も同様に晴れていた。月食を観測し夜の八つ後(午前二時ころ)に終了した。その翌日も晴天,月食観測の調書を作成している。18日は波が高く藍島渡海はできず小倉に逗留,「測食稿」をしたためた。19日は一同藍島に渡ったが,坂部貞兵衛が一人だけ残って「月食稿」を仕上げている。
7月21日,小倉城下を出立し,筑前黒崎へ向かった。浦方下役の青柳勝次が同役の山田宇平とともにその名を「測量日記」に初めて見せるのはこの日である。
その翌日,一行は黒崎を出立し,若松村に止宿しているが、「此日案内」の役人には二人の庄屋のほか「山本源助手付藤本圭治」の名が見える。これは山本源助とその部下の藤本圭治の二人と考えられる。そして7月24日には、新たに上野小八が「付回代官」に加わったことが「測量日記」に次のように見える。
「付回代官上野小八,今日より初めて出る、付添代官山本源助,日々付回る、原左太夫も同」
ここでようやく原・山本・上野の「付回代官」三人が出揃ったことになる。これ以後この三人は伊能忠敬測量隊と行動をともにする。
この忠敬と尾形の両人を小倉城下に、まず「筑前福岡代官原左太夫」の手付、倉岡喜助が出迎え,「追々」に同役の須藤次内が出,伊能忠敬と尾形が小倉の定宿(宮崎良助)に到着後,原左太夫が挨拶に出た。そして更に測量隊一同が到着した15日にも原左太夫は出頭している。
16日は朝から晴天,夜も同様に晴れていた。月食を観測し夜の八つ後(午前二時ころ)に終了した。その翌日も晴天,月食観測の調書を作成している。18日は波が高く藍島渡海はできず小倉に逗留,「測食稿」をしたためた。19日は一同藍島に渡ったが,坂部貞兵衛が一人だけ残って「月食稿」を仕上げている。
7月21日,小倉城下を出立し,筑前黒崎へ向かった。浦方下役の青柳勝次が同役の山田宇平とともにその名を「測量日記」に初めて見せるのはこの日である。
その翌日,一行は黒崎を出立し,若松村に止宿しているが、「此日案内」の役人には二人の庄屋のほか「山本源助手付藤本圭治」の名が見える。これは山本源助とその部下の藤本圭治の二人と考えられる。そして7月24日には、新たに上野小八が「付回代官」に加わったことが「測量日記」に次のように見える。
「付回代官上野小八,今日より初めて出る、付添代官山本源助,日々付回る、原左太夫も同」
ここでようやく原・山本・上野の「付回代官」三人が出揃ったことになる。これ以後この三人は伊能忠敬測量隊と行動をともにする。