長崎街道の今昔

日々の研究の中での、ちょっとした発見を綴っていきます。

三人の付廻り代官出揃う

2004年12月28日 16時25分43秒 | 伊能忠敬について
 山家宿代官の原左太夫が改めて付き廻り代官として伊能忠敬を小倉城下に出迎えるのは文化9年7月14日,第2回の筑前入国からである。実はこの日、小倉に入ったのは伊能忠敬と尾形顕次郎の二人だけだった。この二人は,その二日前の7月13日,来る16日の月食観察の準備のため,彦山の宿舎から大雨の中を小倉に向かって出発,その日は香春町に止宿,翌14日の九つ後(正午過ぎ)小倉城下に着いたのだった。
 この忠敬と尾形の両人を小倉城下に、まず「筑前福岡代官原左太夫」の手付、倉岡喜助が出迎え,「追々」に同役の須藤次内が出,伊能忠敬と尾形が小倉の定宿(宮崎良助)に到着後,原左太夫が挨拶に出た。そして更に測量隊一同が到着した15日にも原左太夫は出頭している。
 16日は朝から晴天,夜も同様に晴れていた。月食を観測し夜の八つ後(午前二時ころ)に終了した。その翌日も晴天,月食観測の調書を作成している。18日は波が高く藍島渡海はできず小倉に逗留,「測食稿」をしたためた。19日は一同藍島に渡ったが,坂部貞兵衛が一人だけ残って「月食稿」を仕上げている。 
 7月21日,小倉城下を出立し,筑前黒崎へ向かった。浦方下役の青柳勝次が同役の山田宇平とともにその名を「測量日記」に初めて見せるのはこの日である。
 その翌日,一行は黒崎を出立し,若松村に止宿しているが、「此日案内」の役人には二人の庄屋のほか「山本源助手付藤本圭治」の名が見える。これは山本源助とその部下の藤本圭治の二人と考えられる。そして7月24日には、新たに上野小八が「付回代官」に加わったことが「測量日記」に次のように見える。
 「付回代官上野小八,今日より初めて出る、付添代官山本源助,日々付回る、原左太夫も同」
 ここでようやく原・山本・上野の「付回代官」三人が出揃ったことになる。これ以後この三人は伊能忠敬測量隊と行動をともにする。

原左太夫は亀井昭陽の友人だった

2004年12月19日 17時18分03秒 | 伊能忠敬について
 伊能忠敬の測量日記に「渋川主水門人のよし」と書き留められた山家宿代官原左太夫は,その年齢も事跡もわからないが,彼が学問好きであったことは亀井昭陽が「烽山日記」にその交遊の様を記していることでわかる。原左太夫が伊能忠敬と出会う文化9年の3年前,文化6年10月21日,御笠郡天山烽火場の番人をしていた昭陽を山家宿から原左太夫と平島玲蔵が訪ねている。昭陽はこの2人を「旧知なり」とし,続けて「原生は駅官の子,その吏,箕形芳助なるものを従う」と記している。左太夫が代官の父と一緒に山家宿の代官屋敷に住んでいたことがわかる。3日後の24日には,左太夫が昭陽を山家宿の名園介右亭に招待している。給仕に出た「童児五、六人」を昭陽は「原生の読書生なり」と言っている。左太夫が手習い塾の先生をしていたことがわかる。少年たちの態度が立派なのに感心して,田舎にも先生が必要なことを知ったといっている。 

原左太夫

2004年12月07日 13時22分46秒 | 伊能忠敬について
 九州測量の第2回目,文化9年2月4日長崎街道を南下して筑前山家駅に止宿した伊能忠敬の宿舎に,山家宿代官原左太夫が挨拶に出ている。「測量日記」はその原左太夫に『渋川主水門人之由」という2行8文字の割注を記している。渋川主水とはいったい何者なのか。
 私は13年前,「天山ののろし台ー亀井昭陽の日記からー」(『福岡歴史探検』1991)で渋川主水を天文方高橋至時の次男で,渋川氏を継ぎ天文方となった渋川景佑であろうとしていたが,このたびの研究集会で河島氏から貸与を受けた『伊能忠敬研究37号』(04/8)のなかの伊藤栄子「渋川家と養子景佑(高橋善助)の家族」により、渋川主水は景佑の養父で,寛政11年から文化6年まで天文方を勤めていた人物であることを知った。原左太夫は渋川主水の天文方在職中,江戸に出向いて入門の手続きをとり,天文暦術を学んでいたものと見える。文化9年2月4日,伊能忠敬の宿舎に出向いた原左太夫は,自分が江戸の幕府天文方渋川主水の門人であることを忠敬に語ったに違いない。
 このことが5ヵ月後の7月14日,第2回目の九州測量を終え小倉城下に戻った伊能忠敬に対し,原左太夫を改めて福岡藩派遣の「付き回り代官」として2人の手付(下代)を従えて出迎えさせることになったのであろうと考える。おそらく伊能忠敬が福岡藩に原左太夫の付き添い案内を要望したのではないだろうか。

伊能忠敬が出会った人々 その1

2004年12月03日 16時51分47秒 | 伊能忠敬について
 快晴の11月27日,福岡会場のフロアいっぱいにひろげられた九州全域の伊能大図の上には人がすいつけられたように動かない。隙間を狙って写真をとったがビニールが反射して出来が悪かった。
 福史連の筑前地区研究集会では,この日の午前中を自由見学に,午後を県立図書館での伊能忠敬に関連する研究発表に当てた。木星子の発表テーマは「伊能忠敬と九州測量」である。
 さて,伊能忠敬の研究には,地図と日記と書状の3点セットが欠かせない。このうち『測量日記』の魅力の一つに忠敬が出会った人々の探索がある。まずその一人として筑前山家宿の代官,原左太夫を取り上げてみよう。