合気道 楽心館 中野道場 熟年ばんざい!

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(16)合気道の奥にある・・懐かしい匂いは何?今思えば、バンドも一種の合気道だったんだ・・

2012-06-04 13:28:15 | 中高年の楽しい合気道中野道場
16  合気道の奥にある・・懐かしい匂いは何?



合気道の稽古をしていて、

ふと、子供時代の懐かしい感覚を思いだすことがある。

馬跳びしたりおしくらまんじゅうをした頃の、

押したりひっぱったりした直接的な触覚。



今では家族とさえ互いに直接的に触れることは

(あれはいつだったっけ)状態である。



合気道の稽古だと、

見知らぬ者同士だって

手や腕を握らねばはじまらない。

・・当たり前である。照れてる場合じゃない。



改めて、直接触れ合うことの意味を感じるこの頃。

思えば、

稽古の最中は、技をかける側と、かけられる側がつながった、

(一個の複素体)になっている。

繋がりあいながら連動する。

一応武道として敵対しながらも、

「協働」している(身体つながり)である。



私が若い頃、

ジャズバンド(5人編成)に参加している時代があった。

日頃から練習はするが、

互いの音がかみ合うまで相当時間がかかった覚えがある。

その結果、学園祭など人前で披露する日を迎え、

日ごろの成果がそれぞれ発揮されると、

演奏していて、何とも言えない一体感を強く感じたもの。

やはり、繋がりあいながら協働しあっている感覚である。

自分だけ目立とうとすると、音楽の調和が微妙に乱れる。

順次アドリブに入ると、他のメンバーがバックアップに回る。

いつしか・・とびきりの一体感が訪れる。

それは至福のときだった。

もちろん、正確につながるほど音が生きる。技が冴える。

今思えば、バンドも一種の合気道だったんだ・・



メールやケータイでのデジタルな情報つながりと

アナログで直接的なつながりとでは、

次元が違うとつくづく思う。

大体、(つながる)なんてメディアが声高に言う言葉じゃなかった。

まあ、それほど(触れ合うことから遠ざかった時代)という

ことであろう。



合気道では、様々なことを気づかされます。

自分を鏡で見るような感じを抱くことがよくあります。



人は一人ではなかなか自分が見えないもの。

人と話し、言葉でキャッチボールしてみて初めて

自分の輪郭をおぼろげに感じるように

合気道を夢中になってやっていると、

ある瞬間、自分の恰好を天井や壁の鏡に映しているような

ビジョンが浮かぶことがある。

きっと、どなたでもそうでしょう。

いつもは感じることがない自分の存在が鏡に映ってるんです。

不思議です。



たまたま、小説のこんな一節を目にした。
「ほんのときたま、めぐってくる、こういうひとときが、つまり人生ということなのね。

何だかわからない、連なり合って動くものの中で、自分の存在が確かめられる妙なときがあるのよ」

 (大庭みな子「モーツァルトの金星蝕」)

・・・この感じ、合気道をおやりの方は、よくわかると思う。



合気道をやって、人生の味わいがもひとしおになるなら、

シニアにはそれが何よりの収穫。




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