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皇后雅子さま8歳。軽井沢で初めてのゴルフ! ピアノも大変お上手!

2019-09-23 | 皇室



 雅子さま8歳。軽井沢で初めてのゴルフ。写真/宮内庁提供

雅子さま、ピアノの発表会で。写真/宮内庁提供


雅子さまの小学校時代の作文を公開「ピアノ、スポーツ、生きものがお好きなおてんば少女」

2019.9.2

渡邉 みどり  

(リブログ)ミモレ 雅子さまの生き方
https://mi-mollet.com/articles/-/19164?per_page=1

外交官は海外での勤務を経て、やがては日本に帰国します。そのとき、幼い子どもたちが日本語を忘れていたら大変です。海外にいても子どもたちが日本語を忘れないようにするために、親はたいへんな気配りや努力をします。  
雅子さまの場合はどうだったのでしょうか?

モスクワ、ニューヨーク暮らしから帰国

昭和46年(1971年)3月、父恆さんの本省勤務のため、一家は2年10カ月のニューヨークでの生活を終えて帰国しました。モスクワからニューヨークと5年余りの海外生活でした。東京へ帰ってきた雅子さんの家族は、新宿区にある3LDKの外務省官舎に住むことになりました。 雅子さんは、目黒区立原町小学校1年に編入し、さらに新宿区立富久(とみひさ)小学校に転校します。当時担任だった中坪静子先生は、初登校の雅子さんの様子をこう語ってくれました。 「ゴールデンウィーク明けの5月6日、雅子さんは、私のクラスに入ってきました。お母さんとご一緒でしたが、他の子どもたちよりずっと大人びた落ち着いた印象でしたね」 その日は4時間目が道徳でした。雅子さんが転入してきた日だったため、「転校してきた人を思いやる」という題で、クラスで話し合いをしたといいます。最初が「大人びた落ち着いた印象」だった雅子さんは、中坪先生の記憶に長く残りました。 長期の海外勤務を終えて帰国した子どもを日本の学校になじませるためには、親も受け入れ先の学校も大変な努力が必要になります。ある外務省のOBは、こう語っています。 「まず日本語の勉強です。家庭では日本語以外は話しません。童話や絵本で、相当読み書きを勉強させていたつもりでも、やはり日本で育った子どもとは大変な差がついてしまうのです。 とくに、地名が難しい。『神戸』は『こうべ』と読むと頭では分かっていても、『かみと』と読んでしまうのです。それに西暦と和暦の違い。突然聞かれても、すぐに出てきません」

 
日本で受けたカルチャーショック

雅子さんが帰国して感じた幼いなりのカルチャーショックは、大変なものであったと思います。

「入学式って何?」
「運動会って何?」
「男の子と女の子が仲よくしていると、みんながはやし立てたり、冷やかしたりするのはなぜ?」

雅子さんは、優美子さんに次から次へと質問し、母は娘にわかるまで何度も説明します。こんな情景が、親子の間で繰り広げられたことでしょう。 優美子さんが、モスクワやニューヨークで娘たちに日本語を忘れないようにと払ってきた努力は、ひと通りのものではなかったと思います。海外生活のなかで、正月の行事、ひなまつり、七夕などは、毎年必ず家庭で行ったといいます。 姑の小和田静(しずか)さんや実母の江頭寿々子(すずこ)さんも、3人の孫に日本から童話の本や浴衣、人形などを送り続けてくれたそうです。 富久小学校2年3組のクラス文集に、雅子さんの作文が残っています。


ローラースケートを滑る日焼けしたおてんばな少女

やがて雅子さんは田園調布雙葉小学校に編入します。かつて母の優美子さんも通った田園調布雙葉小学校の紺の制服姿で登校し、母の期待通りに成長します。 雅子さんの家族は、目黒区の母方の実家を改築して住むようになります。古いけれども、広くて造りのしっかりした家でした。 庭には池がありました。雅子さんと双子の妹たちは外で遊ぶことが多く、たくましく日焼けしたおてんばな少女時代を過ごしています。 当時はローラースケートが流行していましたが、姉妹3人は転びもせず、とても上手に滑っていたそうです。ローラースケートをするときには、ヘルメットをかぶり、膝当てひじ当てをきちんとつけていました。少しでも危険が感じられる遊びには、事前にカバーするという優美子さんの配慮でした。
小和田家の姉妹は仲よしでした。
ピアノを習っている雅子さんは、バイオリンを習い始めた妹たちと一緒に合奏します。
「うらやましい光景でした」
と記憶している友だちが何人もいます。  

昭和48年(1973年)、雅子さんは通っていたビアノ教室「若草会」の発表会で「柱時計」を弾きました。
「ひとつのミスもありませんでした」
ピアノの松本延枝先生は語ってくれました。


母親ゆずりの面倒見のよさ

小和田家を訪れた友だちは、母の優美子さんの優しさや面倒見のよさに感激しました。
家の近くには駒沢公園があります。ある友だちは、雅子さんと礼子さん、節子さんとたびたび駒沢公園に出かけています。自転車を押しつつおしゃべりを楽しみながら、公園まで歩いていくのです。優美子さんとお手伝いさんが一緒です。 公園では、自転車を乗り回して遊びます。お手伝いさんだけが、自転車に乗れませんでした。 「雅子さんのお母さんが『乗り方を覚えましょう』と言ってくれて、私を自転車に乗せて、後ろをしっかり押さえて押してくださったんです」  

優美子さんの面倒見のよさは、そのまま雅子さんに引き継がれています。彼女の得意な学科は理数系です。同級生が塾に通い始めた時代に、雅子さんは学校の勉強だけでよい成績が取れる生徒でした。そんな雅子さまには、テスト前になると同級生からの電話が増えるのです。 「オワに電話をして、必死に考えてもわからないところを聞くのです。すると、オワが考えたり調べたりして教えてくれるんです」


犬や猫からハムスターやカメレオンまで飼う動物好き

田園調布雙葉小学校で、雅子さんは生物部に所属していました。子どものころから動物が好きで、家ではハムスターやカメレオンを飼っていました。昆虫も好き。一時期、雅子さんの家には犬も猫もいて、さながら動物園のようだったといいます。 6年生の夏休みに、ハツカネズミを3匹預かって漬物の樽に入れて観察していると、ネズミ算で増えてしまい、夏休みの終わりごろには50匹くらいになってしまったということもありました。 「ある夜、その50匹のネズミが樽をかじって全部脱走してしまったんです。慌てて保健所に連絡して、大騒動になりました。 私も子どものすることにとやかく言わないほうでしたから、小さなときには勉強などもあまりしていなかったようでした。ただ、宿題だけは必ずすること、それからできれば今日お習いしたことは必ず一度は目を通すようにと言ってきました」(優美子さん) 昭和51年(1976年)3月、雅子さんは小学校を卒業しました。

 

ミモレ 雅子さまの生き方

 https://mi-mollet.com/articles/-/19164?per_page=1


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